this night wounds time, たがみよしひさ
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2016.02.09.10.22

たがみよしひさ

前回の記事でこんな事を綴った。
「ルビを起用して本来備わっている発話方法とは異なる発話を強要する、もしくは、漢字表記に備わっている表音文字の役割を放棄させるこの方法は、もしかしたら今後、喪われてゆくのではないだろうか。と、謂うのは、インターネット上では困難な表示だからだ。「永遠の詩(とわのうた)」と謂う表示方法があるにはあるが、ルビの持っている特性の一部はこの時点で既に奪われてしまっている様に思える」

今回の拙稿はこれを踏まえての続きである。

井上ひさし (Hisashi Inoue) の作品に小説『吉里吉里人 (Kirikirijin)』 [1981年刊] がある。
ここでは作品世界の性質上、ルビが大活躍する。吉里吉里語 (Kirikiri Language) での発話乃至はそれに準ずる表記に関する地の文に際し、その総てに吉里吉里語 (Kirikiri Language) としての読みを明示するルビが振られるのだ。

例えば「第一章 あんだ旅券ば持って居だが」と謂う、巻頭を飾る一文がある。
ここにある総ての漢字表記、即ち、「第一章」「旅券」「持」「居」の文字それぞれの脇に吉里吉里語 (Kirikiri Language) として音読した際の発音を顕す文字が据えられて、読者は次の様にこの一文を読む事が出来る。
でーえっしょ あんだりょげんばもっていだが

日本人 (Japanese) のぼく達である読者はその結果、日本語 (Japanese Language) の文章を読み進めているつもりがいつの間にか、他言語である吉里吉里語 (Kirikiri Language) の文章を解読している事となる。
もしくは。
吉里吉里人 (Kirikirijin) のあなた達である読者はその結果、他言語である日本語 (Japanese Language) の文章でありながらも、母語である吉里吉里語 (Kirikiri Language) で綴られた文章として解読する事が可能となる。

たったひとつの文章でありながらも、ルビと謂う機能を添付した結果、その文章は同時にふたつの言語を表示する事が可能となったのである。

と、綴ると、如何にもこの小説が実験的な試みを企んでいるのかと謂う証左を呈示している様に読めてしまうかもしれないが、実はその逆だ。
ルビの持っている旧来的で古典的な手法を甦らせたのにすぎない。

つまり井上ひさし (Hisashi Inoue) がこの小説に於いて、ルビを駆使したのは、日本語 (Japanese Language) を母語とするヒトビトが、他言語である中国語 (Chinese Language) を母語として解読するその手法の復活なのである。
簡単に謂ってしまえば、漢文 (Classical Chinese) にレ点等の返り点送り仮名) を振る事と同じ効果をこの小説に於けるルビが担っていると、謂う事なのだ。

と、謂う様な事を踏まえて、たがみよしひさ (Yoshihisa Tagami) の代表作であるマンガ『軽井沢シンドローム (Karuizawa Syndrome)』 [19811985ビッグコミックスピリッツ連載] におけるそれを検討してみる事にする。

images
「選んだのは耕平(だんな)であって薫(おねえ)さんじゃない・・・・・・選ばれた薫(もの)が選ばれなかった紀子(もの)に対して気を遣う必要はないんじゃない。選ばれなかった紀子(もの)に対して気を遣うのは選んだ耕平(もの)のするコトよ」[以下、原文Aとする]
[掲載画像と引用文はこちらから。]

このコマにおけるこの台詞の発話者 [木下久美子 (Kumiko KInoshita)] の意図、つまり彼女の意識化での発言は、恐らく次の様なモノだ。
「選んだのは耕平であって薫さんじゃない・・・・・・選ばれた薫が選ばれなかった紀子に対して気を遣う必要はないんじゃない。選ばれなかった紀子に対して気を遣うのは選んだ耕平のするコトよ」[以下、意図Bとする]

だが実際に彼女が発話した内容だけを表示すると、恐らく、次の様なモノになるだろう。
「選んだのはだんなであっておねえさんじゃない・・・・・・選ばれたものが選ばれなかったものに対して気を遣う必要はないんじゃない。選ばれなかったものに対して気を遣うのは選んだもののするコトよ」 [以下、発話Cとする]

この差異を、ぼく達はどう受け止めれば良いのか。

日常生活においては、発話者は意図Bをもって発話Cとして発言し、聴者は発話Cを聴く事によって意図Bを類推する。だから、音声上は、発話Cだけが発せられている事になる。
だけれども、それを文章上で構成するには、発話Cをそのまま記載すればいいと謂う訳にはならない。それだけでは必ずしも、読者に発話者の明確な意図が伝播するとは限らないからだ。
だから、確実に発話者の意図するものを読者に理解させるには、発話Cではなくて意図Bを明文化させる必要に迫られる。
だが、しかし、そこで意図Bを採用すれば、発話者の意図を明示させる事は出来るのかもしれないが、生硬な理屈っぽい発話が表示される結果となる。

と、謂う様な思考経路をもってこの作品に当たれば、マンガ『軽井沢シンドローム (Karuizawa Syndrome)』 [19811985ビッグコミックスピリッツ連載] が、当時の言文一致体 (Gembun-Itchi) を試みた作品である、と読めてしまう。
果たして、それでいいのだろうか。

原文Aには3人の人物が登場する。「耕平」と「薫」と「紀子」だ。
発話者は自身が実際に発話している発話Cに於いて、「耕平」を「だんな」とも「もの」とも発し、「薫」を「おねえさん」とも「もの」とも発する一方で、「紀子」は一貫して「もの」だ。
ここで行なわれている言い換えに気づけば、発話者にとっての「耕平」と「薫」と「紀子」それぞれに対して取っている位置や距離を解読する事が出来る。
尚、ここで謂う位置や距離とは物理的なものも心理的なものも同意に指す。
と、謂うのは、発話者が相対している聴者はここでは「薫」だからであり、彼女以外の人物はここには同席していないのだ。
もし仮に、「薫」以外の第三者に向けて発話者が意図Bを発話するのであるのならば発話Cは異なる名称がそれぞれに与えられる筈だ。勿論、この場所に「耕平」なり「紀子」なりが同席しているのならば、また違った発話Cが現れるだろう。

その一方で、「耕平」が「だんな」から「もの」へと言い換えられているのと同様に、同席者である「薫」もまた「おねえさん」から「もの」へと言い換えられている。
発話者の意識下では、個別具体的な事例が即抽象化されている、即ち、発話者をも含めた当面の問題が総て、一般論や常識論で語られるべき話題へと転化されていると解釈出来る。
「耕平」も「薫」も「紀子」も、発話者の中では、総て抽象的な存在へと転化されており、その次元において、つまり客観的な視座をもって、三者三様の行動理論や倫理規範が断罪されているのだ。
と、謂う様に発話者の発言を評価出来るのならば、同じ様に発話者の発言を聴いた筈の聴者の、発話に下した評価が「理屈だよ それは・・・」となるのは、誰にも合理的なモノとしてみえるのではないか。

つまり、ルビが振られる事によって、ルビがあてがわれた文字の読み以外の情報の暗示が可能となった訳なのである。

たがみよしひさ (Yoshihisa Tagami) のルビにおける試みをその様なものとして、ぼくは受け止めている。
もう少し、考えなければならない事もあるにはあるのだが、今回はここまでだ。

次回は「」。

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