2016.01.19.12.39
上に題名として掲示した俳句、正しくは「やせ蛙まけるな一茶これにあり (A thin frog! Don’t lose this wrestling game .Here I am, Issa.)」である。作者は小林一茶 (Kobayashi Issa) だ。
本来は、漢字交じりで綴るところを全文字、平仮名表記にしたのは、この連載の慣習に従ったまでで、他意はない。
ところでネット検索やらなんやらで、この拙稿に横着したヒトの殆どは、小林一茶 (Kobayashi Issa) のこの俳句の解釈を知りたいが為だと思われる。
その模範解答らしきモノはこちらの頁にあるので、お急ぎの向きは早速、そちらへとアクセスすればいいだろう。
この頁で試みるのは、その模範解答へと辿り着くまでの過程を綴る事なのだ。
過程を綴ると書いてはみたモノの、その検索方法や調査方法を紹介すると謂う意味ではない。
ネット上でならば、知れたモノ。敢えてその労をぼくがとるまでもない。
図書館 (Library) ならばそこの司書 (Librarian) に、学校 (School) でならば先生 (Teacher) と呼ばれるそのヒトに、礼を尽くして尋ねればいい。
正答は得られない代わりに、その正答へと辿り着く道筋を示してくれるだろう。だから、逆に彼らが、その場で当意即妙に、正答らしきモノを論じる様であれば、逆にその人物は信用しない事だ。
自分の立場とモノを教えると謂う意義を誤解しているからである。
と、謂う訳でぼくがここに綴るのは、ぼく自身の体験と思考の過程に過ぎない。
もう一度、綴るが、急いで模範解答に辿り着きたいのならば、ここをクリックすればいい。
この句に出逢ったのは、もう随分昔だ。恐らく、10代にもなっていない。
そして、間違えてこの句を憶えている。
ぼくの記憶にあるそれは「やせ蛙まけるな一茶ここにあり (A thin frog! Don’t lose this wrestling game .Here I am, Issa.)」と謂うのだ。「これ (Here)」と「ここ (Here)」の違いとは何だ、と謂う疑義はいずれ考えなければならないが、それが登場するのは、もう少し後だ [但し英訳に於いては殊更な差異はない様にも思える]。しばらくは等閑しておいても構わない。
何かの挿絵だったと思う。さもなければ、ある漫画作品の扉絵かななにかだ。
2匹の蛙 (Frogs) が分相応の土俵 (Dohyo : Sumo Ring) の上で、相撲 (Sumo) をとっている。その取組を頬杖をついて老人が眺めているのだ。そんな絵面の端に、この句が書き殴ってあったと思う。画面をよくみれば、老人の視線は、2匹のうちのちいさい方に向けられている。
ぼくの中の「やせ蛙まけるな一茶これにあり (A thin frog! Don’t lose this wrestling game .Here I am, Issa.)」と謂う俳句作品の解釈は、こんな記憶に基づいている [ついでながら綴っておけばこの英訳もその解釈に負っている]。
そしてそれが全くもって誤りでもなんでもない、寧ろ、正しい解釈であると補強しているのは、炎天寺 (Entenji : Temple Enten) にある句碑 (A Stone Tablet Inscribed With A Haiku) とその句碑 (A Stone Tablet Inscribed With A Haiku) の前にある池で、相撲をとっている2匹の蛙の像 (Statues Of Two Flogs Having A Sumo Bout) がある事だ。
だけれども、果たしてそれでいいのだろうか、と謂う疑義がない訳でもない。
それは単純にこの句の中のどこにも相撲 (Sumo) を想起させる装置が一切ないからだ。
ここでさらに念をおすけれども、模範解答はここにある。今でもきっと間に合う筈だ。面倒臭くなったら、駆込むがいい。

蛙 (Flogs) が相撲 (Sumo) をとるのは、鳥羽僧正覚猷 (Kakuyu Toba Sojoの絵巻物『鳥獣人物戯画 (Choju-jinbutsu-giga : Animal-person Caricatures)』の甲巻 (Animals Wrestling On The First Scroll) にもある。そこでは偉丈夫な蛙 (Frog) が兎 (Hare) を投げ飛ばしている。実際の縮尺を考慮すれば、勝敗はその逆であってもいい様にも思える。
その一方で、蛙 (Frog) の遠戚にあたる妖怪である河童 (Kappa) は、各地で相撲 (Sumo) をとったと謂う伝説を遺している。
このふたつの余波が、「やせ蛙まけるな一茶これにあり (A thin frog! Don’t lose this wrestling game .Here I am, Issa.)」と謂う俳句作品に相撲 (Sumo) と謂う幻の競技をぼく達にみせている、と謂えなくもない。
それを踏まえれば、この句の中で「やせ蛙 (A Thin Frog)」達に相撲 (Sumo) をとらせる事は決して無茶な解釈とは謂えない。
だけれども、句の中に相撲 (Sumo) と謂う語句、さもなければ相撲 (Sumo) を想起させる語句がない以上、それ以外の解釈を考えるべきではないだろうか、否、解釈したって構わないだろう、と謂うのがぼくの立場だ。
それを以下、ここで紹介してみよう。
上五の「やせ蛙 (A Thin Frog)」は季語でもあり、切れはここにある。だから、一旦、上五の存在を忘れてみよう。
すると「まけるな一茶ここにあり (Don’t lose this wrestling game .Here I am, Issa.)」となる。
この12文字だけに着目すれば、中七は一茶 (Issa) と謂う人物への声援となり、下五は、その応援者の存在している場所を指し示す語句となる。一茶 (Issa)、負けるな、応援しているおれはここにいるぞ、と。
もしもこんな解釈が可能であるのならば、存在を一旦忘れた上五、つまり「やせ蛙 (A Thin Frog)」は何を顕しているのであろうか。
答えは簡単だ。「やせ蛙 (A ThinFrog)」とはそれに続く12文字の中で応援されている「一茶 (Issa)」と謂う人物を指し示していると解釈可能だ。
つまり、作者小林一茶 (Kobayashi Issa) 自らがおのれを「やせ蛙 (A Thin Frog)」と一旦は卑下し、その卑下を翻すかの様に、自己を鼓舞しているのだ。
但し問題は、この俳句作品が「やせ蛙まけるな一茶ここにあり (A thin frog! Don’t lose this wrestling game .Here I am, Issa.)」ではなくて「やせ蛙まけるな一茶これにあり (A thin frog! Don’t lose this wrestling game .Here I am, Issa.)」と謂う点だ。
「ここにあり (Here I Am)」と「これにあり (Here I Am)」の違い。たった一文字の違いは大きいのか小さいのか。
そこがぼくが今、抱えているたったひとつの大きな問題点なのである。
「ここ (Here)」と謂う語句は非常に強い印象を与える表現だ。だから「ここにあり (Here I am)」と断定してしまえば、否、断定してしまうからこそ、「やせ蛙 (A Thin Frog)」と「一茶 (Issa)」はたったひとつの接点である「ここ (Here)」に集約可能だ。「ここ (Here)」と謂うからこそ、「やせ蛙 (A Thin Frog)」と「一茶 (Issa)」を同一人物であると断言出来るのだ。
しかし、実際の作品では「ここ (Here)」ではなくて「これ (Here)」なのである。印象から謂えば、「やせ蛙 (A Thin Frog)」と「一茶 (Issa)」を同じ陣営にあると看做す事は充分に可能ではあるが、それ以上の協調関係を指示するモノでもない。況んや、同一人物説をや。
英語ではどちらも同じ単語へと翻訳されてしまうのだろうけれども、その指し示す位置の広狭に、解釈によって差が生じてしまうのだ。
だけれども、なんとなく自説を撤回しがたいモノにしているのは、模範解答にもそれに通じる視点が綴られているからだ。
もう少し、具体性や客観性をもって、解説してくれないのかね。さもなければ、この模範解答を補強するに足る二次資料的な文章は存在しないのかね。
次回は「り」。
本来は、漢字交じりで綴るところを全文字、平仮名表記にしたのは、この連載の慣習に従ったまでで、他意はない。
ところでネット検索やらなんやらで、この拙稿に横着したヒトの殆どは、小林一茶 (Kobayashi Issa) のこの俳句の解釈を知りたいが為だと思われる。
その模範解答らしきモノはこちらの頁にあるので、お急ぎの向きは早速、そちらへとアクセスすればいいだろう。
この頁で試みるのは、その模範解答へと辿り着くまでの過程を綴る事なのだ。
過程を綴ると書いてはみたモノの、その検索方法や調査方法を紹介すると謂う意味ではない。
ネット上でならば、知れたモノ。敢えてその労をぼくがとるまでもない。
図書館 (Library) ならばそこの司書 (Librarian) に、学校 (School) でならば先生 (Teacher) と呼ばれるそのヒトに、礼を尽くして尋ねればいい。
正答は得られない代わりに、その正答へと辿り着く道筋を示してくれるだろう。だから、逆に彼らが、その場で当意即妙に、正答らしきモノを論じる様であれば、逆にその人物は信用しない事だ。
自分の立場とモノを教えると謂う意義を誤解しているからである。
と、謂う訳でぼくがここに綴るのは、ぼく自身の体験と思考の過程に過ぎない。
もう一度、綴るが、急いで模範解答に辿り着きたいのならば、ここをクリックすればいい。
この句に出逢ったのは、もう随分昔だ。恐らく、10代にもなっていない。
そして、間違えてこの句を憶えている。
ぼくの記憶にあるそれは「やせ蛙まけるな一茶ここにあり (A thin frog! Don’t lose this wrestling game .Here I am, Issa.)」と謂うのだ。「これ (Here)」と「ここ (Here)」の違いとは何だ、と謂う疑義はいずれ考えなければならないが、それが登場するのは、もう少し後だ [但し英訳に於いては殊更な差異はない様にも思える]。しばらくは等閑しておいても構わない。
何かの挿絵だったと思う。さもなければ、ある漫画作品の扉絵かななにかだ。
2匹の蛙 (Frogs) が分相応の土俵 (Dohyo : Sumo Ring) の上で、相撲 (Sumo) をとっている。その取組を頬杖をついて老人が眺めているのだ。そんな絵面の端に、この句が書き殴ってあったと思う。画面をよくみれば、老人の視線は、2匹のうちのちいさい方に向けられている。
ぼくの中の「やせ蛙まけるな一茶これにあり (A thin frog! Don’t lose this wrestling game .Here I am, Issa.)」と謂う俳句作品の解釈は、こんな記憶に基づいている [ついでながら綴っておけばこの英訳もその解釈に負っている]。
そしてそれが全くもって誤りでもなんでもない、寧ろ、正しい解釈であると補強しているのは、炎天寺 (Entenji : Temple Enten) にある句碑 (A Stone Tablet Inscribed With A Haiku) とその句碑 (A Stone Tablet Inscribed With A Haiku) の前にある池で、相撲をとっている2匹の蛙の像 (Statues Of Two Flogs Having A Sumo Bout) がある事だ。
だけれども、果たしてそれでいいのだろうか、と謂う疑義がない訳でもない。
それは単純にこの句の中のどこにも相撲 (Sumo) を想起させる装置が一切ないからだ。
ここでさらに念をおすけれども、模範解答はここにある。今でもきっと間に合う筈だ。面倒臭くなったら、駆込むがいい。

蛙 (Flogs) が相撲 (Sumo) をとるのは、鳥羽僧正覚猷 (Kakuyu Toba Sojoの絵巻物『鳥獣人物戯画 (Choju-jinbutsu-giga : Animal-person Caricatures)』の甲巻 (Animals Wrestling On The First Scroll) にもある。そこでは偉丈夫な蛙 (Frog) が兎 (Hare) を投げ飛ばしている。実際の縮尺を考慮すれば、勝敗はその逆であってもいい様にも思える。
その一方で、蛙 (Frog) の遠戚にあたる妖怪である河童 (Kappa) は、各地で相撲 (Sumo) をとったと謂う伝説を遺している。
このふたつの余波が、「やせ蛙まけるな一茶これにあり (A thin frog! Don’t lose this wrestling game .Here I am, Issa.)」と謂う俳句作品に相撲 (Sumo) と謂う幻の競技をぼく達にみせている、と謂えなくもない。
それを踏まえれば、この句の中で「やせ蛙 (A Thin Frog)」達に相撲 (Sumo) をとらせる事は決して無茶な解釈とは謂えない。
だけれども、句の中に相撲 (Sumo) と謂う語句、さもなければ相撲 (Sumo) を想起させる語句がない以上、それ以外の解釈を考えるべきではないだろうか、否、解釈したって構わないだろう、と謂うのがぼくの立場だ。
それを以下、ここで紹介してみよう。
上五の「やせ蛙 (A Thin Frog)」は季語でもあり、切れはここにある。だから、一旦、上五の存在を忘れてみよう。
すると「まけるな一茶ここにあり (Don’t lose this wrestling game .Here I am, Issa.)」となる。
この12文字だけに着目すれば、中七は一茶 (Issa) と謂う人物への声援となり、下五は、その応援者の存在している場所を指し示す語句となる。一茶 (Issa)、負けるな、応援しているおれはここにいるぞ、と。
もしもこんな解釈が可能であるのならば、存在を一旦忘れた上五、つまり「やせ蛙 (A Thin Frog)」は何を顕しているのであろうか。
答えは簡単だ。「やせ蛙 (A ThinFrog)」とはそれに続く12文字の中で応援されている「一茶 (Issa)」と謂う人物を指し示していると解釈可能だ。
つまり、作者小林一茶 (Kobayashi Issa) 自らがおのれを「やせ蛙 (A Thin Frog)」と一旦は卑下し、その卑下を翻すかの様に、自己を鼓舞しているのだ。
但し問題は、この俳句作品が「やせ蛙まけるな一茶ここにあり (A thin frog! Don’t lose this wrestling game .Here I am, Issa.)」ではなくて「やせ蛙まけるな一茶これにあり (A thin frog! Don’t lose this wrestling game .Here I am, Issa.)」と謂う点だ。
「ここにあり (Here I Am)」と「これにあり (Here I Am)」の違い。たった一文字の違いは大きいのか小さいのか。
そこがぼくが今、抱えているたったひとつの大きな問題点なのである。
「ここ (Here)」と謂う語句は非常に強い印象を与える表現だ。だから「ここにあり (Here I am)」と断定してしまえば、否、断定してしまうからこそ、「やせ蛙 (A Thin Frog)」と「一茶 (Issa)」はたったひとつの接点である「ここ (Here)」に集約可能だ。「ここ (Here)」と謂うからこそ、「やせ蛙 (A Thin Frog)」と「一茶 (Issa)」を同一人物であると断言出来るのだ。
しかし、実際の作品では「ここ (Here)」ではなくて「これ (Here)」なのである。印象から謂えば、「やせ蛙 (A Thin Frog)」と「一茶 (Issa)」を同じ陣営にあると看做す事は充分に可能ではあるが、それ以上の協調関係を指示するモノでもない。況んや、同一人物説をや。
英語ではどちらも同じ単語へと翻訳されてしまうのだろうけれども、その指し示す位置の広狭に、解釈によって差が生じてしまうのだ。
だけれども、なんとなく自説を撤回しがたいモノにしているのは、模範解答にもそれに通じる視点が綴られているからだ。
もう少し、具体性や客観性をもって、解説してくれないのかね。さもなければ、この模範解答を補強するに足る二次資料的な文章は存在しないのかね。
次回は「り」。
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