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2008.07.01.22.19

すぴーどきんぐ

大友克洋(Katsuhiro Otomo)初期の短編マンガ『ハイウェイスター』に登場する人物。
主人公の家出少女が邂逅する男の名前。
自称「スピードキング」であって、勿論、本名ではない。

同名タイトルの短編集『ハイウェイスター(HIghway Star)』に収められている。

初期の、それも最初期の大友克洋(Katsuhiro Otomo)作品に登場するキャラクターの殆どは、社会という枠組から逸脱してしまったモノモノ。ホームレスや屍体やミュージシャンくずれや大学をヒトの倍は在籍している青年や....。
つまり、彼らの逸脱は、単なる踏み外し、それもほんのちょっとした、踏み外しであって、気がついたら、こんなところに辿り着いてしまった、というモノモノである。
だから、彼らに邂逅する主人公達もまた、彼らと同じ様に、同じ路(もしくは異なる途?)を歩き巡って、そんな踏み外してしまったヒトビトと遭遇してしまう訳だ。
家出人浪人生や殺人者や刑事や...。彼らは、そんなヒトビトである。

しかしながら、それらの遭遇を描く大友克洋(Katsuhiro Otomo)作品では、既に踏み外してしまったモノモノ[=アウトサイダー(The Outsider)]と、彼らに出会う、未だ踏み外してはいないヒトビト[=インサイダー(The Insider)]との間には、絶対的な境界線が引かれているわけではない。あくまでもモノモノとヒトビトとの境界は曖昧としていて、相対的なものでしかない。

例えば、『宇宙パトロール・シゲマ』(単行本『ショート・ピース』収録)を例にとって検証してみよう。
正月休みに集った大学生四人が始めるのは徹夜の麻雀(Mahjong)大会。この時点で、この四人がモノモノなのかヒトビトなのかは、微妙に曖昧である。だって、気の利いたマトモな学生ならば帰省しているか恋人と旅行にでも行っている筈だから。
そしてその麻雀(Mahjong)大会のつかのまの休憩時間での、暴露話から物語は奇妙な方向へと向かい始める。だが、その間、常に我々の頭の中を揺れ動いているのが、この四人はモノモノなのかヒトビトなのか?という疑問符である。
その疑問符は物語が進展するに従ってずんずんと肥大していく訳だけれども、何故かその疑問符は微妙な笑いを産み出す機動力となっていく。
そして、その大きな疑問符は決して解消される事なく、勿論、微妙な笑いも解消される事なく、ムズムズとした居心地の悪さをもたらして、突然にすとんと終わってしまう。
しかも、いつのまにか、この四人は物語冒頭の四人。つまりは観たまんまのサエない大学生に復帰しているのだ。

その視点から見れば『ハイウェイスター』という物語は、あまりにも真っ当である。

家出した少女がヒッチハイクであるオンボロ・クルマとその所有者に遭遇する。そのオンボロ・クルマに拾われた彼女は、その所有者の奇妙なビジネス?を目の当たりにする。赤信号で隣の車線に止まったクルマに懸けレースの勝負を挑むのだ。
そのオンボロに観えた彼のクルマは、実は無茶苦茶チューンナップされていて、その外観以上に相当なスピードを出せるのである。
そんな状況を目の当たりに体験した少女が、オトコとの別れ際に、彼の名前を尋ねてしまう。
「スピードキング!」
そのあまりに失笑ものの解答に少女は、呆れ返ってシラケるばかり。

それはまるで、後に僕が映画館で体験する事になる、ヴィム・ヴェンダース(Wim Wenders)初期のあてどなくただ彷徨ってばかりのロード・ムーヴィー(The Road Movie)や、なにごとも事件らしき事件の起こらない、でもとっても豊穣な、ジム・ジャームッシュ(Jim Jarmusch)初期の映画の様だ。

しかも、この後、少女は全く偶然にも、そのオトコと再会してしまうのだ。通常ならば、あり得ない様な状況で。

そこで、僕たちは気づかされてしまう。
ヒトビトから逸れてしまった少女が出逢った、一見すると彼女をモノモノへと誘う誘惑者にみえた「スピードキング」とは実は...(ここから先は書かない事になっています)。
ともかく、ここで、少女が男と邂逅する物語は、笑いへと変転する。その笑いとはここでもやっぱり、とっても居心地の悪い笑いなのだ。

ところで、この作品のタイトルである「ハイウェイスター」といい、「スピードキング」といい、これらの言葉が表象するものを、現在の視点でもきちんと実感出来るのだろうか?

つまり作品の中で叫ばれた「スピードキング!」という台詞を、少女と同じ視線同じ感慨で受け止められるのか否か。
という事なのだけれども?

いずれも、ディープ・パープル(Deep Purple)の代表曲「ハイウェイ・スター(Highway Star)」と「スピード・キング(Speed King)」であると同時に、当時の音楽シーンを象徴する楽曲、しかも、バンドを始めようとした少年達が一度は通過せざるを得ない作品である。
だが、しかし、それと同時にこれらの楽曲は、危険な踏絵(Fumie : Step-on Picture)でもあるのだ。

余談だけれども、踏絵(Fumie : Step-on Picture)の恐怖は、これを踏絵(Fumie : Step-on Picture)として認知している人間だけに、その効力を発揮するという事だ。
踏むべき画像に、意味を見いだせないモノは平気で踏めるし、これは絶対に踏んではならない画像であると思ったモノは、踏む事を拒否して殉教(Martyr)すればよい。
ただ、これを踏むべきか踏まざるべきか悩むモノ、この画像によって己の信仰が試されているのだと、知ってしまったモノだけが最も、しかも一生涯、苦悩し懊悩して逝くのである(踏む踏まざるに関わらず)。



だから、僕もここではこれ以上、この曲々の事に言及しない。興味があったのならば、実際に曲を聴いて、出来れば歌詞をじっくりと読んでみて下さい。前者はここで、後者はここで原詞にあたれます。

次回は「」。

大友克洋(Katsuhiro Otomo)の、その後の『童夢(Domu : A Child's Dream)』や『AKIRA(AKIRA)』も極論をいえば、ヒトビトとモノモノとの遭遇の物語である。但し、それがSFとか超能力対決とか、少年や少女と老人や老婆の物語という、嚥下しやすいマテリアルでオブラート(Oblaat)されているだけに過ぎない。
と、僕は今でも思っている。
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