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2008.06.24.22.30

むざんやなかぶとのしたのきりぎりす

これは、松尾芭蕉(Matsuo Basho)が『奥の細道(Oku no Hosomichi / The Narrow Road to the Deep North / The Narrow Road to the Interior)』の途行きの過程、小松(Komatsu)で詠んだ作品。
この17文字(Haiku)を字義のまま捉えようとすると、なんの事やらさっぱり解らない。

むざんやな甲の下のきりぎりす


この句は、源"木曾"義仲によって、祈願状とともに多太神社に奉納されている、斉藤実盛の甲を観た感興を詠んだもの。斉藤実盛の最期への想いをきりぎりす(The Grasshopper)の鳴き声に共鳴させて、松尾芭蕉(Matsuo Basho)が詠んだ句である。

しかしながら、句が生成される過程やそこから発生する解釈をあえて、無視してみるとどうなるのか。
最初に感じる、そのさっぱり解らなさ加減に乗じて、そのまんま「甲の下に潜り込んでしまって、出るに出られない、囚われの身であるきりぎりす(The Grasshopper)の心情を詠んだ句」と解釈してしまうと、僕たちにはおなじみの金田一耕助シリーズ『獄門島』(著者はもちろん横溝正史)の物語が生成されるのだ。

あまり多くを語るとネタバレになってしまって、ミステリ読みの不興を買ってしまう怖れもあるので、適当にお茶を濁しておこうと思うのだけれども、映画やTVで何度となく映像化された作品だ。まぁ、すこしくらいの語り過ぎは多めに観てもらおう。

images
物語は、瀬戸内海にある小島、獄門島で起きる連続殺人事件を追ったもので、その事件の鍵を、松尾芭蕉(Matsuo Basho)の句が握っているというもの。
僕自身は、最初に古谷一行金田一耕助TV版[毎日放送系列放映 1977.07.30.~08.20.]で体験して、その後に原作にあたって、最期に石坂浩二金田一耕助映画版[市川崑(Kon Ichikawa)監督作品 東宝 1977.08.27.公開]の順番で体験していったと思う。
世は角川映画メディア・ミックス興隆期にあたり、角川書店が出版権を持つ文学作品を映像作品化(しかも映画とTVの両方)し、それに付随して主演女優を売り出して、あまつさえ主題歌をヒットさせようという(現在では極当たり前の)手法が確立されつつある時期だった。

ご多分にももれずにこの『獄門島』でも同じ手法がとられつつあったが、ここで大きな問題が起こる。映画版よりも先にTV版が放映されるのだ。しかも、映画公開初日はあろう事か、TV版放送終了日直後。
ミステリ作品の映像化作品であって、映画のヒットを目論む側から観れば、公開日直前に犯人が解ってしまっては都合が悪い。

と、いうことで、角川映画版は犯人が原作と異なっています。

僕個人の灰色の脳細胞(Grey Cells)、もしかしたらそれはピンクのそれ(Pink Cells)かもしれないけれども、その怪しげな脳細胞の推理によれば、角川映画としては推理サスペンス映画というよりも、女性客の動員をあてこんだ女性向け映画を狙っていた[だからこその市川崑(Kon Ichikawa)だ]。その為には、主人公は、探偵=金田一耕助でも犯人でもなくて、陰惨で不合理な事件の渦中に巻き込まれるヒロインでなければならない。
つまり、TV版の放映と映画版公開の日程云々というよりも、映画作品自体が、原作どおりの犯人では都合が悪かったのだ。
と解釈しているのだけれども。

さて?
果たして、「真実はいつもひとつ」だろうか?

おっと、ここでの決まり文句は「ジッチャンの名にかけて!」だった(苦笑)。

ところで、この金田一耕助シリーズを編み出した横溝正史という作家は、戦前は探偵小説=推理小説の専門誌『新青年』で編集長を担っていた人物で、当時の作品は大正デモクラシー大正浪漫の息吹を真っ向から浴びた作風だった。しかし肺結核との闘病のための隠棲と戦中の疎開の為に隠遁した結果、血縁と因習に呪われたヒトビトが織り成す、閉ざされた山深い地域での怪事件を描く事になる。

これは、誰か似ているなぁと思ったら、前回言及したトルーマン・カポーティ(Truman Garcia Capote)だった。
大都市ニュー・ヨーク(New York City)を舞台にした孤独な生を描いていた彼が、これまでの作風を一変させて、カンザス州(State Of Kansas)の片田舎で起こった陰惨な事件を克明に記録していった『冷血(In Cold Blood)』を発表した様な。

なお、掲載した画像は、映画『獄門島』公開前[って事は、TV版放映前でもあるのだけれども]の小説『獄門島』の表紙です。

次回は「」。

あぁ、最期にもうひとつだけ。
文頭で紹介した松尾芭蕉(Matsuo Basho)の句の、季語は「きりぎりす」
しかも、秋の季語なんです。
この梅雨空の鬱陶しい時季になんで、また?
この句を取り上げたのでしょうか?

いいですか! 一度だけしか言いませんよ。
きちがいじゃが仕方がない」とね。
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