2015.11.10.10.02
ひょんな事から、よせばいいのにつまらないいざこざにでしゃばった結果でやくざ者達に詰め寄られている珍念が、困った拍子でふとこんな台詞を発っしてしまう。
「おれにはつぇえ用心棒がついているんだい」
そんないる筈もない架空の用心棒を拵えて、相手の悪党どもを煙に巻こうとしたが、うまくはいかない。彼らから詰め寄られるのは珍念曰くの「つぇえ用心棒」の風袋だ。
彼が今時分の、2次元創作大好きなアニメ小僧ならば、こんな事は屁でもない。馴染みのキャラクターからその「つぇえ用心棒」をでっち上げるまでだ。だが、残念ながらこの時代は江戸時代、アニメもなければ2次元創作と謂う概念すらない。だから、普段から顔見知りを素材にして、それを如何にも恐ろしげで強そうなさむらいへと無理矢理、仕立て上げる事になる。
「かおがだな、こぉんなにながくて、人参を差し出せば悦んで喰らいつく」
なんの事はない、さっきまで一緒に道中を供にしていた無宿者の風采だ。さっきそこでいつもの様に喧嘩別れしたばかりだ。珍念を救いに来る訳がない。いや、それ以前にそんな馬面、へのつっぱりにもならない。必死の珍念の説明も、薄ら笑いを誘うだけなのだ。
と、謂う様な駆け引きが続いている最中、絶体絶命の珍念のところへひょいと時次郎が姿を顕したからいけない。
先程から笑いの許になっている、みてくれだけは馬面だが珍念曰くの「つぇえ用心棒」がこの世に実際にいる事になった。やくざ者達は、這々の体で逃げ出してゆく。
「憶えていやがれ」
ここで時次郎がひとこと。
「俺がこんなに強いのも、あたり前田のクラッカー!」
件名に掲げた"嘘から出た誠 (Many A True Word Is Spoken In Jest.)"と謂う語句から想い起こすのはそんなエピソード、TV番組『てなもんや三度笠 (Tenamon-ya Sandogasa)』 [1962~1968年 ABCテレビ系列放映] の冒頭場面だ。
だからと謂って、TV番組『てなもんや三度笠 (Tenamon-ya Sandogasa)』 [1962~1968年 ABCテレビ系列放映] でそんなシーンが実際にあったかと問われるとうすらとぼけるしかない。
単純にその番組の主人公であるあんかけの時次郎 (Ankake No Tokijiro) を演じたのが藤田まこと (Makoto Fujita) であると謂う地口にひっかけた駄洒落でしかない。つまり上の挿話の中の珍念 (Cin-nen) [演:白木みのる (Minoru Shiraki)] のそれと同様、単なるでっち上げだ。
但し、それが理由で、珍念 (Cin-nen) [演:白木みのる (Minoru Shiraki)] 曰くの「つぇえ用心棒」のもうひとりの候補、蛇口一角 (Ikkaku Hebiguchi) [演:財津一郎 (Ichiro Zaitsu)] が登場してはこの挿話では具合が悪い。それにつきているのである。
尤も、この番組、当時は生放送 (Live Broadcasting) で映像の記録も殆どないから、さもあった様な素振りをしても誰も確認しようがない。
いっその事、知らぬ存ぜぬの嘘をつきとおした方がこの際、いいのだろうか。
藤田まこと (Makoto Fujita) と謂えば、この番組を体験した幼少期のぼく達世代からみれば彼はあんかけの時次郎 (Ankake No Tokijiro) 以外の何者でもないが、時代が下れば、彼は中村主水 (Mondo Nakamura) [TV番組『必殺シリーズ (Series Hissatsu)』 1972年~2009年 ABCテレビ系列放映] であり、安浦吉之助 (Yoshinosuke Yasuura) [TV番組『はぐれ刑事純情派 (Hagure Keiji : Junjoha)』 1988~2009年 テレビ朝日系列放映] であり、アレクシス・ゾルバ (Alexis Zorba) [演劇『その男ゾルバ (Zorba The Greek)』原作:ニコス・カザンザキス (Nikos Kazantzakis) 1986年日本初演] なのである。
[自らを代表する作品が幾つもある様にもみえるが、あれだけ永いキャリアがありながらこれだけしかないとも謂える。]

この番組から発生した流行語のひとつに「俺がこんなに強いのも、あたり前田のクラッカー!」があるが、この台詞の映画的引用ならぬCM的引用である"当たり前田の敦子ちゃん"が放映されたのが2011年。もう、4年も前だ。
恐らく誰もが忘れている事であろう。
[画像はこちらから]
だから、記事冒頭に掲げた様なエピソードがさもあった様な素振りをするのは大変簡単な事ではあるのかもしれないけど、そこからどんなに逆さに振ったとしても"嘘から出た誠 (Many A True Word Is Spoken In Jest.)"が出て来る気配はない。
どんなに頑張ってもそこにあるのは"口からでまかせ (Say The First Thing That comes To Mind)"の"見てきた様な嘘 (To Tell Circumstantial Lies)"なのだ。
次回は「と」。
附記 1.:
"嘘から出た誠 (Many A True Word Is Spoken In Jest.)"の、字義的な解釈をみれば、『イソップ寓話 (Aesop's Fables)』の説話『狼少年 (The Boy Who Cried Wolf)』はその寓意である様に解釈出来そうな気がするが、それを肯定する様な文面に辿り着いたと謂う記憶がない。
体感上、うそからまことは、ハッピーエンド (Happy End) な結果を欲している様に思える。
附記 2.:
そおゆう意味では、TV番組『水戸黄門 (Mito Komon)』 [1969年~2003年 TBS系列放映] の全43部の中のどのシリーズにも必ず登場する偽黄門様 (Fake Komon) の挿話が、"嘘から出た誠 ( Many A True Word Is Spoken In Jest.)"の寓意としては完成されている様な気がする。
と、謂うのも、水戸光圀 (Tokugawa Mitsukuni) が越後の縮緬問屋の隠居 (The Retired From Crape Dealer At Echigo) に身をやつすのが嘘ならば、彼によく似た風体の老人が水戸光圀 (Tokugawa Mitsukuni) の名を騙るのも嘘。その嘘と嘘とが出逢った上に、双方が雁字搦め (Binded Firmly) に絡まったその結果を利用して、その地にある難問を解決すると同時に悪党を一網打尽 (Make A Wholesale Arrest)、つまり"嘘から出た誠 ( Many A True Word Is Spoken In Jest.)"にしてしまうからだ。
「おれにはつぇえ用心棒がついているんだい」
そんないる筈もない架空の用心棒を拵えて、相手の悪党どもを煙に巻こうとしたが、うまくはいかない。彼らから詰め寄られるのは珍念曰くの「つぇえ用心棒」の風袋だ。
彼が今時分の、2次元創作大好きなアニメ小僧ならば、こんな事は屁でもない。馴染みのキャラクターからその「つぇえ用心棒」をでっち上げるまでだ。だが、残念ながらこの時代は江戸時代、アニメもなければ2次元創作と謂う概念すらない。だから、普段から顔見知りを素材にして、それを如何にも恐ろしげで強そうなさむらいへと無理矢理、仕立て上げる事になる。
「かおがだな、こぉんなにながくて、人参を差し出せば悦んで喰らいつく」
なんの事はない、さっきまで一緒に道中を供にしていた無宿者の風采だ。さっきそこでいつもの様に喧嘩別れしたばかりだ。珍念を救いに来る訳がない。いや、それ以前にそんな馬面、へのつっぱりにもならない。必死の珍念の説明も、薄ら笑いを誘うだけなのだ。
と、謂う様な駆け引きが続いている最中、絶体絶命の珍念のところへひょいと時次郎が姿を顕したからいけない。
先程から笑いの許になっている、みてくれだけは馬面だが珍念曰くの「つぇえ用心棒」がこの世に実際にいる事になった。やくざ者達は、這々の体で逃げ出してゆく。
「憶えていやがれ」
ここで時次郎がひとこと。
「俺がこんなに強いのも、あたり前田のクラッカー!」
件名に掲げた"嘘から出た誠 (Many A True Word Is Spoken In Jest.)"と謂う語句から想い起こすのはそんなエピソード、TV番組『てなもんや三度笠 (Tenamon-ya Sandogasa)』 [1962~1968年 ABCテレビ系列放映] の冒頭場面だ。
だからと謂って、TV番組『てなもんや三度笠 (Tenamon-ya Sandogasa)』 [1962~1968年 ABCテレビ系列放映] でそんなシーンが実際にあったかと問われるとうすらとぼけるしかない。
単純にその番組の主人公であるあんかけの時次郎 (Ankake No Tokijiro) を演じたのが藤田まこと (Makoto Fujita) であると謂う地口にひっかけた駄洒落でしかない。つまり上の挿話の中の珍念 (Cin-nen) [演:白木みのる (Minoru Shiraki)] のそれと同様、単なるでっち上げだ。
但し、それが理由で、珍念 (Cin-nen) [演:白木みのる (Minoru Shiraki)] 曰くの「つぇえ用心棒」のもうひとりの候補、蛇口一角 (Ikkaku Hebiguchi) [演:財津一郎 (Ichiro Zaitsu)] が登場してはこの挿話では具合が悪い。それにつきているのである。
尤も、この番組、当時は生放送 (Live Broadcasting) で映像の記録も殆どないから、さもあった様な素振りをしても誰も確認しようがない。
いっその事、知らぬ存ぜぬの嘘をつきとおした方がこの際、いいのだろうか。
藤田まこと (Makoto Fujita) と謂えば、この番組を体験した幼少期のぼく達世代からみれば彼はあんかけの時次郎 (Ankake No Tokijiro) 以外の何者でもないが、時代が下れば、彼は中村主水 (Mondo Nakamura) [TV番組『必殺シリーズ (Series Hissatsu)』 1972年~2009年 ABCテレビ系列放映] であり、安浦吉之助 (Yoshinosuke Yasuura) [TV番組『はぐれ刑事純情派 (Hagure Keiji : Junjoha)』 1988~2009年 テレビ朝日系列放映] であり、アレクシス・ゾルバ (Alexis Zorba) [演劇『その男ゾルバ (Zorba The Greek)』原作:ニコス・カザンザキス (Nikos Kazantzakis) 1986年日本初演] なのである。
[自らを代表する作品が幾つもある様にもみえるが、あれだけ永いキャリアがありながらこれだけしかないとも謂える。]

この番組から発生した流行語のひとつに「俺がこんなに強いのも、あたり前田のクラッカー!」があるが、この台詞の映画的引用ならぬCM的引用である"当たり前田の敦子ちゃん"が放映されたのが2011年。もう、4年も前だ。
恐らく誰もが忘れている事であろう。
[画像はこちらから]
だから、記事冒頭に掲げた様なエピソードがさもあった様な素振りをするのは大変簡単な事ではあるのかもしれないけど、そこからどんなに逆さに振ったとしても"嘘から出た誠 (Many A True Word Is Spoken In Jest.)"が出て来る気配はない。
どんなに頑張ってもそこにあるのは"口からでまかせ (Say The First Thing That comes To Mind)"の"見てきた様な嘘 (To Tell Circumstantial Lies)"なのだ。
次回は「と」。
附記 1.:
"嘘から出た誠 (Many A True Word Is Spoken In Jest.)"の、字義的な解釈をみれば、『イソップ寓話 (Aesop's Fables)』の説話『狼少年 (The Boy Who Cried Wolf)』はその寓意である様に解釈出来そうな気がするが、それを肯定する様な文面に辿り着いたと謂う記憶がない。
体感上、うそからまことは、ハッピーエンド (Happy End) な結果を欲している様に思える。
附記 2.:
そおゆう意味では、TV番組『水戸黄門 (Mito Komon)』 [1969年~2003年 TBS系列放映] の全43部の中のどのシリーズにも必ず登場する偽黄門様 (Fake Komon) の挿話が、"嘘から出た誠 ( Many A True Word Is Spoken In Jest.)"の寓意としては完成されている様な気がする。
と、謂うのも、水戸光圀 (Tokugawa Mitsukuni) が越後の縮緬問屋の隠居 (The Retired From Crape Dealer At Echigo) に身をやつすのが嘘ならば、彼によく似た風体の老人が水戸光圀 (Tokugawa Mitsukuni) の名を騙るのも嘘。その嘘と嘘とが出逢った上に、双方が雁字搦め (Binded Firmly) に絡まったその結果を利用して、その地にある難問を解決すると同時に悪党を一網打尽 (Make A Wholesale Arrest)、つまり"嘘から出た誠 ( Many A True Word Is Spoken In Jest.)"にしてしまうからだ。
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