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2015.11.03.09.53

とんぷう


東から吹く風、東風 (Wind From The East) と綴って、"東風:こち (Wind From The East : Kochi)"と読む。
それをぼくに教えてくれたのは、小説『吾輩は猫である (I Am A Cat)』 [作:夏目漱石 (Natsume Soseki) 1905年発表] の登場人物のひとり、越智東風 (Tofu Ochi) である。
その小説の中で彼は、自身の名前を越智東風 (Kochi Ochi) と読まれる事を所望しているのだ。
当該の小説を読んだ小学校高学年 (Higher Classes Of Elementary School) の頃である。

国語 (Japanese (National) Language) の時間、担任 (Home Room Teacher) が幾人かの近現代の小説家 (Weiters In Japanese Modern Literature) とその代表作 [小学生児童 (Elementary School Students) にも理解可能な] を列挙した。
例えば、芥川龍之介 (Ryunosuke Akutagawa) ならば小説『歯車 (Spinning Gears)』[1927年発表] は伏せて、小説『杜子春 (Tu Tze-chun)』[1920年発表] とか小説『蜘蛛の糸 (The Spider's Thread)』[1918年発表]。小説『羅生門 (Rashomon)』[1915年発表] はまだ難しいだろう。そんな案配だ。
そして、そのままクラスを図書室 (Library) に引率したのだ。
「さっき教えたモノはここにあるから、ひとり一冊借りて読みなさい」と、謂う訳だ。
しかも、その図書室 (Library) にはまるで誂えてあるかの様に、小説『杜子春 (Tu Tze-chun)』とか小説『蜘蛛の糸 (The Spider's Thread)』だけで1冊の書籍となっている、みてくれだけは今で謂う薄い本 (Thin Book : Doujinshi) が、数10冊は揃っているのだ。
殆どのクラスメイトはその中の1冊を借受たのだが、それを良しとしないモノ数名 [いや、単純に全員に行き渡る冊数がなかったせいだ] が、件の小説家群のどれかの名作選 (Anthology) を借り受ける。ぼくはそちらの方に組していたのだ。
宿題 (Home Work) として課せられた感想文 (Book Report) は小説『羅生門 (Rashomon)』のそれにした。借り受けた名作選 (Anthology) の巻頭にそれが集録されていたからである。

それがきっかけとなり、モーリス・ルブラン (Maurice Leblanc) やアーサー・コナン・ドイル (Arthur Conan Doyle) や江戸川乱歩 (Edogawa Rampo) やジュール・ヴェルヌ (Jules Verne) は卒業する事になった。丁度、一渡り、めぼしい作品を読み終えた頃だった。
担任 (Home Room Teacher) が列挙した作家群の作品を、図書室 (Library) から借り始める様になったのは、それが理由だ。

担任 (Home Room Teacher) が薦めた夏目漱石 (Natsume Soseki) のそれに関しては、彼曰くの解りやすいし第一面白いと謂う講釈を一切、無視した。だから小説『坊つちゃん (Botchan)』[1906年発表] を読んだのは、高校生 (High School Students) くらいの時分だ。それまでにも何度か読む機会はあったと思うが、物語冒頭に登場する清 (Kiyo : The Family's Elderly Maidservant) の態度が気に喰わないから、いつも2階から飛び降りたあたりで投げ出した。いまでも最期まで読んだか記憶は妖しい。冒頭の1文「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている (Because of an hereditary recklessness, I have been playing always a losing game since my childhood)」と最文末の1文「だから清の墓は小日向の養源寺にある (So Kiyo's grave is in the Yogen temple at Kobinata.)」だけ繋げてみて、それで良しとしている様な気がしないでもない。
その小説はそれで充分だ。
主人公と清 (Kiyo : The Family's Elderly Maidservant) の物語であって、彼の赴任先で起きる幾つかの挿話はあくまでもついでだ。

つまり、彼の作品で初めて読んだ小説が『吾輩は猫である (I Am A Cat)』と謂う事になるのだ。

images
そんないきさつもあって、越智東風 (Tofu Ochi) が自身の名前を越智東風 (Kochi Ochi) と読ませたいとその小説の中で語られてもなんの事やら解らない。
ただ、物語の構成上、この場面では彼の主張を、その場にいる登場人物達があざ笑うシーンだから、一緒になってくすくすと嗤っていればよい。
越智東風 (Kochi Ochi) なんて変な名前、と。
[上掲画像は近藤浩一路 (Kouichiro Kondo) 描く越智東風 (Tofu Ochi) 。『画譜 吾輩は猫である (Sketchbook For I Am A Cat)』[1954年発表] 掲載。こちらから]

小学生児童 (Elementary School Students) が小説『吾輩は猫である (I Am A Cat)』を読んで非常にシュールな (Surrealisme) 読後感を抱くのは、その小説の背景に必要とされる、英文学 (English Literature) や漢籍 (Chinese Literature) や戯作文学 (Gesaku : Japanese Literature In Edo Period) 等の知識が一切ないからだ。
作者である夏目漱石 (Natsume Soseki) はそんな蓄積を背景にして、それらを知るモノとそれらを知らないモノの齟齬を描写しているだから、単純に謂えば、その登場人物達の一方の側と同様な扱いを夏目漱石 (Natsume Soseki) から受けている様なモノだ。

なんの知識もなければ、越智東風 (Tofu Ochi) の主張は無闇出鱈目の我儘なモノにしか理解出来ずに、その場面の登場人物達と同様に、彼を嗤うだけだ。
だが、少なからぬ知識や事前情報をもっていれば、彼を嗤う登場人物達を嘲る事も出来る。
つまり、その小説では、夏目漱石 (Natsume Soseki) は自身の読者を試しているとも謂えるし、自身の読者を選んでいるとも謂える。

しかもこの場合、そんなに高尚な知識を望まれている訳でもない。

菅原道真 (Sugawara no Michizane) のあの有名な短歌を憶い起こせれば良いのだ。

東風吹かば匂ひおこせよ梅の花主なしとて春を忘るな (When the east wind blows, / Let it seed your fragrance, / Oh, plum blossoms. / Although your master is gone / Do not forget the spring.)」 [拾遺和歌集 (Shui Wakashu) 1006年頃成立]。

勿論、それは最低限度であって、それを上回るモノが読者に備わっていれば、もう少しべつの可笑しみをも、そこに見いだす事も可能であろう。

次回は「」。

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