2015.07.28.12.00
「あっというまに息ができなくなって、からだもうごかせない。もう、死ぬかとおもった」
どう謂う文脈でこの台詞が登場したのかは憶えていない。
父はその昔、おしよせる土砂で胸までつかった、その体感を語ったことばだ。文脈は正確なモノではない。
その後に続いている筈の、彼の体験談も記憶からすっぽりと抜け落ちている。憶えているのは、「息ができない」「からだもうごかない」「死ぬ」これらのことばだけだ。
落盤 (Cave-in) と謂う事故が物語の主流をなすモノは当時、いくつもあったと思う。
TBS (Tokyo Broadcasting System Television) 系列のTV番組ウルトラシリーズ (Ultra Series)で謂えば、『ウルトラQ (Ultra Q)』 [1966年放映] にも『ウルトラマン
(UltraMan)』 [1966~1967年放映] にも『ウルトラセブン
(Ultra Seven)』 [1967~1968年放映] にもある。
順番に挙げていけば第1話『ゴメスを倒せ! (Defeat Gomess!)』[監督:円谷一 (Hajime Tsuburaya) 脚本:千束北男 (Kitao Senzoku) 特技監督:小泉一 (Hajime Koizumi)] と第29話『地底への挑戦 (The Challenge Into Subterra)』[監督:野長瀬三摩地 (Samaji Nonagase) 脚本:南川竜 (Ryu Minamikawa)、金城哲夫 (Tetsuo Kinjo) 特技監督:高野宏一 (Koichi Takano)] と第17話『地底GO! GO! GO! (Underground : Go! Go! Go!)』[監督:円谷一 (Hajime Tsuburaya) 脚本:上原正三 (Shozo Uehara) 特技監督:大木淳 (Jun Oki)] とだ。
映画『大脱走
(The Great Escape)』 [ジョン・スタージェス (John Sturges) 監督作品 1963年制作] で謂えば、トンネル堀りの名人、通称"トンネル王 (The Tunnel King)" のダニエル・ヴェリンスキー英国空軍大尉 (Flt. Lt. Danny Velinski) [演:チャールズ・ブロンソン (Charles Bronson)] は、かつての落盤事故 (Cave-in Incident) がトラウマ (Psychological Trauma) となっており、その時の心象と対峙しそれを克服していく様が、この映画の中にある幾つもの物語のひとつとなっている。
監視するドイツ兵に如何に発見されないかと謂う外部からの緊張感と、作戦決行の為の日時に如何に間に合わせるかと謂う時間の問題と、このふたつにもうひとつ、実際に作業をする人間の恐怖が、サスペンス (Suspense) をもたらすのだ。
だが、恐らく、父のその台詞は、そんな虚構をみていた際での発言ではないと思う。
実際にあった事故の映像を観ながらなのではなかったか。各地の鉱山 (Mine) が閉山 (Abandoned Mine) される、その最期の日が当時、毎日の様に報道されていた頃だ。
それを一緒に観ていた当時のぼくが、安易な発言をしたのだろう。何故ならば、そんな落盤 (Cave-in) の物語を幾つも観てきたぼくにとっては、生き埋め (Burial Alive) とは必ず救出される物語だからだ。
そして恐らく、それを前提としたぼくの発言を打ち消すモノとして、父は自らの体験を語り始めたのではないだろうか。
生き埋め (Burial Alive) と謂う語句のいやなところは、暗に埋める (Burry) と謂う語句が死 (Death) と謂う概念を包摂しているからだ。
難しい事はなにもここでは謂ってはいない。
もしも埋める (Burry) と謂う語句に、生きたまま (Alive) と謂う条件が所与のモノとして備わっているのならば、わざわざ生き埋め (Burial Alive) とことわるまでもないのだ。
埋める (Burry) のは死んだモノ (The Dead) である、これがデフォルト (Default) だ。だからこそ、生き埋め (Burial Alive) と修辞される訳であって、同時に、生きて埋められた (Burried Alive) モノが辿るべき命運をも暗示しているのだ。

生き埋め (Burial Alive) は必ずしも早すぎた埋葬 (The Premature Burial) ではない。概念上は、狭義の生き埋め (Burial Alive) が早すぎた埋葬 (The Premature Burial) ではあるが、広義の早すぎた埋葬 (The Premature Burial) が生き埋め (Burial Alive) であるとは、限らない。
だけれども、ぼく達の連想の赴くところは、いつもそれらを曖昧なままにした方向へと進む。
[掲載画像はアントワーヌ・ヴィールツ / Antoine Wiertz画『早すぎた埋葬 / De overhaaste begrafenis』]
2分冊の『トマソン大図鑑 (Encyclopedia Hyperart Tomason)』 [赤瀬川原平 (Genpei Akasegawa) 編] のうちの1分冊『空の巻 (Volume In The Sky)』には、「生き埋め」 (Premature Burial) と謂う項目がある。全部で21項目あるトマソン (Hyperart Tomason) の分類のそのうちの1つだ。
そこには次の様に定義がなされている。
「主としてマンホールの蓋や道路標示などの路上物件が、道路工事や再開発などで一部を埋め立てられて機能を失した状態のもの。見た目に半身不随的なものが多く、トマソン特有の侘びとか寂びとかいう心情よりも、むしろ残酷で痛ましい感じを受ける。路上は常に何かおかれたりするところだから、路上固定の不動産的物件はいずれも生き埋めの危険にさらされている。系統としては地層物件につながっている。」
[こちらに掲載されている。]
そこでは9物件が紹介されているが、そのどれもが「機能を失し」「半身不随的」で「侘びとか寂びとかいう」よりも「残酷で痛ましい」様におもえる。
だが、その9物件を順番にみていくと、次第に「残酷で痛ましい」筈のモノが次第に「侘びとか寂びとかいう」よりももっと不思議な情緒を醸し出してくるから不思議だ。
例えば、「後輪だけの自転車が走り去」っていく物件7や、「痰が生き埋めにされている」物件8、そして「『森の小人用の鉄棒』とメルヘンチック」な物件9をみるとよい。
個人的には、物件8からは、いしいひさいち (HIsaichi Ishii) のマンガ『死闘 地底人対最低人 (Mortal Combat! The Underground Vs The Under-undergoroud)』[漫画誌『スーパーフィクション』 1979年発表『地底人の逆襲 (The Revenge From The Underground)』所収] を思い出してしまう。
まるで、"天に唾する (Who Spits Against Heaven, It Falls In His Face)"の反意語 (Antonym) の様な。
いや、なんの脈絡も論理的な裏付けも一切ないんだけど。
次回は「め」。
どう謂う文脈でこの台詞が登場したのかは憶えていない。
父はその昔、おしよせる土砂で胸までつかった、その体感を語ったことばだ。文脈は正確なモノではない。
その後に続いている筈の、彼の体験談も記憶からすっぽりと抜け落ちている。憶えているのは、「息ができない」「からだもうごかない」「死ぬ」これらのことばだけだ。
落盤 (Cave-in) と謂う事故が物語の主流をなすモノは当時、いくつもあったと思う。
TBS (Tokyo Broadcasting System Television) 系列のTV番組ウルトラシリーズ (Ultra Series)で謂えば、『ウルトラQ (Ultra Q)』 [1966年放映] にも『ウルトラマン
順番に挙げていけば第1話『ゴメスを倒せ! (Defeat Gomess!)』[監督:円谷一 (Hajime Tsuburaya) 脚本:千束北男 (Kitao Senzoku) 特技監督:小泉一 (Hajime Koizumi)] と第29話『地底への挑戦 (The Challenge Into Subterra)』[監督:野長瀬三摩地 (Samaji Nonagase) 脚本:南川竜 (Ryu Minamikawa)、金城哲夫 (Tetsuo Kinjo) 特技監督:高野宏一 (Koichi Takano)] と第17話『地底GO! GO! GO! (Underground : Go! Go! Go!)』[監督:円谷一 (Hajime Tsuburaya) 脚本:上原正三 (Shozo Uehara) 特技監督:大木淳 (Jun Oki)] とだ。
映画『大脱走
監視するドイツ兵に如何に発見されないかと謂う外部からの緊張感と、作戦決行の為の日時に如何に間に合わせるかと謂う時間の問題と、このふたつにもうひとつ、実際に作業をする人間の恐怖が、サスペンス (Suspense) をもたらすのだ。
だが、恐らく、父のその台詞は、そんな虚構をみていた際での発言ではないと思う。
実際にあった事故の映像を観ながらなのではなかったか。各地の鉱山 (Mine) が閉山 (Abandoned Mine) される、その最期の日が当時、毎日の様に報道されていた頃だ。
それを一緒に観ていた当時のぼくが、安易な発言をしたのだろう。何故ならば、そんな落盤 (Cave-in) の物語を幾つも観てきたぼくにとっては、生き埋め (Burial Alive) とは必ず救出される物語だからだ。
そして恐らく、それを前提としたぼくの発言を打ち消すモノとして、父は自らの体験を語り始めたのではないだろうか。
生き埋め (Burial Alive) と謂う語句のいやなところは、暗に埋める (Burry) と謂う語句が死 (Death) と謂う概念を包摂しているからだ。
難しい事はなにもここでは謂ってはいない。
もしも埋める (Burry) と謂う語句に、生きたまま (Alive) と謂う条件が所与のモノとして備わっているのならば、わざわざ生き埋め (Burial Alive) とことわるまでもないのだ。
埋める (Burry) のは死んだモノ (The Dead) である、これがデフォルト (Default) だ。だからこそ、生き埋め (Burial Alive) と修辞される訳であって、同時に、生きて埋められた (Burried Alive) モノが辿るべき命運をも暗示しているのだ。

生き埋め (Burial Alive) は必ずしも早すぎた埋葬 (The Premature Burial) ではない。概念上は、狭義の生き埋め (Burial Alive) が早すぎた埋葬 (The Premature Burial) ではあるが、広義の早すぎた埋葬 (The Premature Burial) が生き埋め (Burial Alive) であるとは、限らない。
だけれども、ぼく達の連想の赴くところは、いつもそれらを曖昧なままにした方向へと進む。
[掲載画像はアントワーヌ・ヴィールツ / Antoine Wiertz画『早すぎた埋葬 / De overhaaste begrafenis』]
2分冊の『トマソン大図鑑 (Encyclopedia Hyperart Tomason)』 [赤瀬川原平 (Genpei Akasegawa) 編] のうちの1分冊『空の巻 (Volume In The Sky)』には、「生き埋め」 (Premature Burial) と謂う項目がある。全部で21項目あるトマソン (Hyperart Tomason) の分類のそのうちの1つだ。
そこには次の様に定義がなされている。
「主としてマンホールの蓋や道路標示などの路上物件が、道路工事や再開発などで一部を埋め立てられて機能を失した状態のもの。見た目に半身不随的なものが多く、トマソン特有の侘びとか寂びとかいう心情よりも、むしろ残酷で痛ましい感じを受ける。路上は常に何かおかれたりするところだから、路上固定の不動産的物件はいずれも生き埋めの危険にさらされている。系統としては地層物件につながっている。」
[こちらに掲載されている。]
そこでは9物件が紹介されているが、そのどれもが「機能を失し」「半身不随的」で「侘びとか寂びとかいう」よりも「残酷で痛ましい」様におもえる。
だが、その9物件を順番にみていくと、次第に「残酷で痛ましい」筈のモノが次第に「侘びとか寂びとかいう」よりももっと不思議な情緒を醸し出してくるから不思議だ。
例えば、「後輪だけの自転車が走り去」っていく物件7や、「痰が生き埋めにされている」物件8、そして「『森の小人用の鉄棒』とメルヘンチック」な物件9をみるとよい。
個人的には、物件8からは、いしいひさいち (HIsaichi Ishii) のマンガ『死闘 地底人対最低人 (Mortal Combat! The Underground Vs The Under-undergoroud)』[漫画誌『スーパーフィクション』 1979年発表『地底人の逆襲 (The Revenge From The Underground)』所収] を思い出してしまう。
まるで、"天に唾する (Who Spits Against Heaven, It Falls In His Face)"の反意語 (Antonym) の様な。
いや、なんの脈絡も論理的な裏付けも一切ないんだけど。
次回は「め」。
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