2015.06.30.18.42
ザ・フー (The Who) の楽曲に『クイック・ワン (A Quick One While He's Away)』と謂う作品がある。
彼らの第2作『ア・クイック・ワン (A Quick One)
』 [1966年発表] に収録されたタイトル楽曲でもある。
楽曲の中で語られる物語の登場人物達を、メンバー個々のキャラクターに振り分け、場面場面で楽曲の音楽性が次から次へと変転する構成は、彼ら初のロック・オペラ (Rock Opera) とも謂える楽曲だ。
後に発表されるアルバム『ロック・オペラ "トミー" (Tommy)
』 [1969年発表] や『四重人格 (Quadrophenia)
』 [1973年発表] のプロト・タイプ (Prototype)とも謂える楽曲なのである。
と、同時に、彼らの音楽性の中にある起爆力や破壊力をも内包した楽曲であって、ザ・ローリング・ストーンズ (The Rolling Stones) 主催のTV番組『ロックンロール・サーカス (The Rolling Stones Rock And Roll Circus)
』 [マイケル・リンゼイ=ホッグ (Michael Lindsay-Hogg) 監督作品 1968年末放送予定 1996年発売] がお蔵入りになって放送中止になったのも、ザ・フー (The Who) のここでの演奏が一因であると謂われている。
彼らの演奏が素晴らしく、結果的に、主役であるザ・ローリング・ストーンズ (The Rolling Stones) のそれを上回ってしまったからだそうだ。
つまりこの楽曲で、ザ・フー (The Who) がザ・ローリング・ストーンズ (The Rolling Stones) を喰っちまった、と。
ところでその楽曲『クイック・ワン (A Quick One While He's Away)』の後半、佳境に入ったその瞬間に「チェロ・チェロ・チェロ・チェロ … (Cello Cello Cello Cello …)」と謂うコーラスが聴こえてくる。
当初、このパートにチェロ (Cello) の演奏をフィーチャリングするアイデアがバンドにあったのに対し、当時のマネージャー (Maneger) 兼プロデューサー (Producer) のキット・ランバート (Kit Lambert) に却下された結果によって、このコーラス・パートとそのフレーズが産まれた。
楽曲自身に備わっている逸話のひとつとして聴く分には面白いエピソードではあるが、冷静に考えると幾つも納得のいかない点がある。
いやいや、その納得のいかなさがこの挿話を面白くさせてはいるのだ、と主張する事も勿論、可能ではあるのだけれども。
先ず、何故、チェロ (Cello) なのか、と謂う事。
そして、何故それが却下されたのか、と謂う事。
さらには、その代案として何故、わざわざ「チェロ・チェロ・チェロ・チェロ … (Cello Cello Cello Cello …)」と謂うコーラスにしたのか、と謂う事。
しかも、にも関わらずに、そのコーラス案がそのまま採用されて、今現在、ぼく達がそれを聴く事が出来るのか、と謂う事。
なんの衒いもなくまっさきに回答出来そうなのが、2番目の疑問だ。
予算の問題と制作スケジュールの問題と、マネージャー (Maneger) 兼プロデューサー (Producer) のキット・ランバート (Kit Lambert) の中にあるザ・フー (The Who) と謂うバンドのイメージだ。
1番最後の点に関しては、当時の音楽シーン全体の動向と、その中に於けるバンドの置かれた立ち位置とを検証しなければ、あり得べき解答を得られるか否かは難しい問題ではあるのだけれども、それ以外の点に関しては深く考えなければならないモノではないだろう。
資金繰りとスケジュール調整、マネージャー (Maneger) でもプロデューサー (Producer) でも、どちらの立場であろうと第一に考慮しなければならない点だ。
だから、「そんな金どこにあるんだ」とか「発売に間に合わないよ」とか、そんな台詞を吐かせておけば、架空の再現フィルムとしては、誰にも納得がいく様な物語をつくって辻褄を合わせる事が出来るだろう。
だけれども、それ以外の疑問点は、ちょっとやそっとの発想や気転で解決出来る様な代物ではない。

少なくともぼくに浮かぶのは、当時のキット・ランバート (Kit Lambert) の立場で聴いても、そのパートには、バンドのアンサンブル以外の何かが必要だったと謂う事なのだ。さもなければ、そこに「チェロ・チェロ・チェロ・チェロ … (Cello Cello Cello Cello …)」と謂うコーラスを現在、聴く事は出来ない筈だ。
だから、キット・ランバート (Kit Lambert) にも、なにかが必要だったのだ。そして、それがバンド・メンバー自身のコーラスならば、予算の問題と制作スケジュールの問題をクリアする事は可能だ。
そんな判断が彼にはあったのではないか。
結果的にコーラスが採用されて、そのヴァージョンを現在のぼく達が聴く事の出来る理由は、おそらくそんな様なモノだろう。
[掲載画像はこちらから:クリス・スタンプ (Chris Stamp) [マネージャー (Maneger)]、ピート・タウンゼント (Pete Townshend) [ザ・フー (The Who)] そしてキット・ランバート (Kit Lambert) [左から右へ] 1966年撮影]
でも、だからと謂って、単なる意趣返し以外の何物でもない「チェロ・チェロ・チェロ・チェロ … (Cello Cello Cello Cello …)」と謂う歌詞を許容した事も解せないモノだ [だってこの楽曲を聴く度に、バンドを失望させてしまったかもしれないその時の有様がキット・ランバート (Kit Lambert) の脳内には再現されてしまうんだぜ?]。
と、同時に、1番最初の疑問である、何故、チェロ (Cello) なのか、と謂う疑問は永遠に解決される事もない。
彼らは一体、どんなサウンドを想定していたのだろうか。しかも、バンド側自身もこれまでにおのれの理想型での演奏形態を再現した事がないからだ。
勿論、冒頭に紹介した『ロックンロール・サーカス (The Rolling Stones Rock And Roll Circus)
』 [マイケル・リンゼイ=ホッグ (Michael Lindsay-Hogg) 監督作品 1968年末放送予定 1996年発売] 出演の際に、チェロ (Cello) をフィーチャリングする術もなく、後にこの楽曲の発展系である『ロック・オペラ "トミー" (Tommy)
』 [1969年発表] や『四重人格 (Quadrophenia)
』 [1973年発表] の楽曲が全曲再現されるのに対して、そのプロト・タイプ (Prototype) であるこの楽曲は、忘れ去られたかたちにある。
次回は「ろ」。
附記:
チェロ (Cello) と謂う楽器にまつわる、個人的なよくわからなさについて、機会を改めて続けてみたい。
例えば、チコ・ハミルトン・クインテット (Chico Hamilton Quitet) における編曲面に於けるその楽器の役割や、童話『セロ弾きのゴーシュ (Gauche The Cellist)』 [宮沢賢治 (Kenji MIyazawa) 作 1934年発表] でのその楽器の果たした物語上での役割についてを。
彼らの第2作『ア・クイック・ワン (A Quick One)
楽曲の中で語られる物語の登場人物達を、メンバー個々のキャラクターに振り分け、場面場面で楽曲の音楽性が次から次へと変転する構成は、彼ら初のロック・オペラ (Rock Opera) とも謂える楽曲だ。
後に発表されるアルバム『ロック・オペラ "トミー" (Tommy)
と、同時に、彼らの音楽性の中にある起爆力や破壊力をも内包した楽曲であって、ザ・ローリング・ストーンズ (The Rolling Stones) 主催のTV番組『ロックンロール・サーカス (The Rolling Stones Rock And Roll Circus)
彼らの演奏が素晴らしく、結果的に、主役であるザ・ローリング・ストーンズ (The Rolling Stones) のそれを上回ってしまったからだそうだ。
つまりこの楽曲で、ザ・フー (The Who) がザ・ローリング・ストーンズ (The Rolling Stones) を喰っちまった、と。
ところでその楽曲『クイック・ワン (A Quick One While He's Away)』の後半、佳境に入ったその瞬間に「チェロ・チェロ・チェロ・チェロ … (Cello Cello Cello Cello …)」と謂うコーラスが聴こえてくる。
当初、このパートにチェロ (Cello) の演奏をフィーチャリングするアイデアがバンドにあったのに対し、当時のマネージャー (Maneger) 兼プロデューサー (Producer) のキット・ランバート (Kit Lambert) に却下された結果によって、このコーラス・パートとそのフレーズが産まれた。
楽曲自身に備わっている逸話のひとつとして聴く分には面白いエピソードではあるが、冷静に考えると幾つも納得のいかない点がある。
いやいや、その納得のいかなさがこの挿話を面白くさせてはいるのだ、と主張する事も勿論、可能ではあるのだけれども。
先ず、何故、チェロ (Cello) なのか、と謂う事。
そして、何故それが却下されたのか、と謂う事。
さらには、その代案として何故、わざわざ「チェロ・チェロ・チェロ・チェロ … (Cello Cello Cello Cello …)」と謂うコーラスにしたのか、と謂う事。
しかも、にも関わらずに、そのコーラス案がそのまま採用されて、今現在、ぼく達がそれを聴く事が出来るのか、と謂う事。
なんの衒いもなくまっさきに回答出来そうなのが、2番目の疑問だ。
予算の問題と制作スケジュールの問題と、マネージャー (Maneger) 兼プロデューサー (Producer) のキット・ランバート (Kit Lambert) の中にあるザ・フー (The Who) と謂うバンドのイメージだ。
1番最後の点に関しては、当時の音楽シーン全体の動向と、その中に於けるバンドの置かれた立ち位置とを検証しなければ、あり得べき解答を得られるか否かは難しい問題ではあるのだけれども、それ以外の点に関しては深く考えなければならないモノではないだろう。
資金繰りとスケジュール調整、マネージャー (Maneger) でもプロデューサー (Producer) でも、どちらの立場であろうと第一に考慮しなければならない点だ。
だから、「そんな金どこにあるんだ」とか「発売に間に合わないよ」とか、そんな台詞を吐かせておけば、架空の再現フィルムとしては、誰にも納得がいく様な物語をつくって辻褄を合わせる事が出来るだろう。
だけれども、それ以外の疑問点は、ちょっとやそっとの発想や気転で解決出来る様な代物ではない。

少なくともぼくに浮かぶのは、当時のキット・ランバート (Kit Lambert) の立場で聴いても、そのパートには、バンドのアンサンブル以外の何かが必要だったと謂う事なのだ。さもなければ、そこに「チェロ・チェロ・チェロ・チェロ … (Cello Cello Cello Cello …)」と謂うコーラスを現在、聴く事は出来ない筈だ。
だから、キット・ランバート (Kit Lambert) にも、なにかが必要だったのだ。そして、それがバンド・メンバー自身のコーラスならば、予算の問題と制作スケジュールの問題をクリアする事は可能だ。
そんな判断が彼にはあったのではないか。
結果的にコーラスが採用されて、そのヴァージョンを現在のぼく達が聴く事の出来る理由は、おそらくそんな様なモノだろう。
[掲載画像はこちらから:クリス・スタンプ (Chris Stamp) [マネージャー (Maneger)]、ピート・タウンゼント (Pete Townshend) [ザ・フー (The Who)] そしてキット・ランバート (Kit Lambert) [左から右へ] 1966年撮影]
でも、だからと謂って、単なる意趣返し以外の何物でもない「チェロ・チェロ・チェロ・チェロ … (Cello Cello Cello Cello …)」と謂う歌詞を許容した事も解せないモノだ [だってこの楽曲を聴く度に、バンドを失望させてしまったかもしれないその時の有様がキット・ランバート (Kit Lambert) の脳内には再現されてしまうんだぜ?]。
と、同時に、1番最初の疑問である、何故、チェロ (Cello) なのか、と謂う疑問は永遠に解決される事もない。
彼らは一体、どんなサウンドを想定していたのだろうか。しかも、バンド側自身もこれまでにおのれの理想型での演奏形態を再現した事がないからだ。
勿論、冒頭に紹介した『ロックンロール・サーカス (The Rolling Stones Rock And Roll Circus)
次回は「ろ」。
附記:
チェロ (Cello) と謂う楽器にまつわる、個人的なよくわからなさについて、機会を改めて続けてみたい。
例えば、チコ・ハミルトン・クインテット (Chico Hamilton Quitet) における編曲面に於けるその楽器の役割や、童話『セロ弾きのゴーシュ (Gauche The Cellist)』 [宮沢賢治 (Kenji MIyazawa) 作 1934年発表] でのその楽器の果たした物語上での役割についてを。
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