2008.05.06.13.07
「キリング・アン・アラブ(Killing an Arab)」はザ・キュアー(The Cure)のデヴュ-・シングル(1978年発表)であって、彼らの米国でのファースト・アルバム『ボーイズ・ドント・クライ(Boys Don't Cry)
』で聴く事が出来る。

チャート・アクションも殆どなく、非常に地味なデヴューであった。
いなくなったイアン・カーティス(Ian Curtis)の衣鉢を継ぐかの様に、ポスト・パンクの動向の中で重要な動きを魅せるとは、当時誰も想いもよらなかった。
こと日本においては、バンドのリーダー、ロバヲことロバート・スミス(Robert Smith)が、アイドル並みの人気を誇るとは考えさえつかなかった。(くりいむしちゅー有田を観る度に、当時の彼を思い出すのは僕だけだろうか?)。しかも、そんなカルト人気はともかくとしても、それらを軽く通り越して、現在ではビッグなスタジアム級のバンドになるとは。
でも、それは後々のお話であって、彼らの地味なデヴューが、ある種のヒトビトにだけ通用する、ある種の印象を与えた事は否定出来ない。
そしておそらく、そのデヴュー・シングルがアルベール・カミュ(Albert Camus)の『異邦人
(L' Etranger)』にインスパイアされた事が、陰い重い澱みの様に、ココロの奥底に沈殿んでいった、そんな事もあるのだろう。
掲載画像は、そのジャケット・デザインです。
さてと、僕はと言えば、いまさらアルベール・カミュ(Albert Camus)ですかとせせら笑ってしまった記憶がある。
なんせ「今日ママンが死んだ(maman est morte)」「太陽が眩しかったから(c'etait à cause du soleil)」「きりんぐあんあらぶ」な主人公ムルソー(Meursault)の物語だから。
それは、高校の倫理社会での授業での事だった。その作品の存在を初めて知ったのは。恐らく、現代の疎外(Alienation)を主題とした授業の流れの中である。その薄い冊子の粗筋を、その年の春、教師になったばかりの若いオトコの口から聴いたのだ。
丁度、ザ・キュアー(The Cure)がデヴューした頃だ。
それでそのまま聞き流してしまったのならば、ザ・キュアー(The Cure)との出会いも異なったものになったのだろう。
しかし、そうもいかなかった。と、いうのは、その若い教師は中間試験の代わりに、読書感想文の提出をクラス全員に要求したのだ。授業中に紹介したいくつもの書物の中から、任意の一作品を選び、その感想なり批評なりを期日までに提出せよ、と。
僕達のとった作戦はこうだ。
「薄いヤツがいい。何が、薄い?」
そうだ。間違っても、ドストエフスキー(Fyodor Dostoevsky)や『経済学・哲学草稿(Okonomisch-philosophische Manuskripte)』なんか選ぶ訳にはいかない。
と、言う訳で、僕達はフランツ・カフカ(Franz Kafka)派かアルベール・カミュ(Albert Camus)派に別れる事となった。勿論、フランツ・カフカ(Franz Kafka)ならば、グレゴール・ザムザの物語(Die Verwandlung)だ。
中には、文学好きのクラスメートにその短い物語をさらに短く粗筋だけ書かせたり、彼の稚拙な感想(というか批評というか)をさらに水で薄める様な真似をしたモノもいた。
そして一方の僕はと言えば。
事もあろうに、その薄い冊子のさらに半分、第一部のみだけを読んで、適当に感想文をでっちあげて提出してやった。つまり、「きりんぐあんあらぶ」の事件の顛末だけで、物語を終えてしまったのだ。
その感想文がどんな内容だったのかは、書く必要もないだろう。
結論だけ言えば、僕はきちんと及第点をもらい、他の間抜けなクラスの連中の様な、再提出の憂き目にはあわなかった。
それはきっと、その教師が早大出身でなかったせいだろう。なぜって松岡正剛曰く「早稲田ではカミュはちょっとした英雄だった」から。
以上が、「きりんぐあんあらぶ」に関する、僕の顛末だ。
どうでもよい事だけれども、この際、ついでだから書いておく。
一般人にとって、理解不能で不条理な異常事件が起きて、容疑者 / 被告の内心を推し量りかねる度に、「今日ママンが死んだ(maman est morte)」「太陽が眩しかったから(c'etait à cause du soleil)」「きりんぐあんあらぶ」を持ち出して、安心立命していないかい?
次回は「ぶ」。

チャート・アクションも殆どなく、非常に地味なデヴューであった。
いなくなったイアン・カーティス(Ian Curtis)の衣鉢を継ぐかの様に、ポスト・パンクの動向の中で重要な動きを魅せるとは、当時誰も想いもよらなかった。
こと日本においては、バンドのリーダー、ロバヲことロバート・スミス(Robert Smith)が、アイドル並みの人気を誇るとは考えさえつかなかった。(くりいむしちゅー有田を観る度に、当時の彼を思い出すのは僕だけだろうか?)。しかも、そんなカルト人気はともかくとしても、それらを軽く通り越して、現在ではビッグなスタジアム級のバンドになるとは。
でも、それは後々のお話であって、彼らの地味なデヴューが、ある種のヒトビトにだけ通用する、ある種の印象を与えた事は否定出来ない。
そしておそらく、そのデヴュー・シングルがアルベール・カミュ(Albert Camus)の『異邦人
掲載画像は、そのジャケット・デザインです。
さてと、僕はと言えば、いまさらアルベール・カミュ(Albert Camus)ですかとせせら笑ってしまった記憶がある。
なんせ「今日ママンが死んだ(maman est morte)」「太陽が眩しかったから(c'etait à cause du soleil)」「きりんぐあんあらぶ」な主人公ムルソー(Meursault)の物語だから。
それは、高校の倫理社会での授業での事だった。その作品の存在を初めて知ったのは。恐らく、現代の疎外(Alienation)を主題とした授業の流れの中である。その薄い冊子の粗筋を、その年の春、教師になったばかりの若いオトコの口から聴いたのだ。
丁度、ザ・キュアー(The Cure)がデヴューした頃だ。
それでそのまま聞き流してしまったのならば、ザ・キュアー(The Cure)との出会いも異なったものになったのだろう。
しかし、そうもいかなかった。と、いうのは、その若い教師は中間試験の代わりに、読書感想文の提出をクラス全員に要求したのだ。授業中に紹介したいくつもの書物の中から、任意の一作品を選び、その感想なり批評なりを期日までに提出せよ、と。
僕達のとった作戦はこうだ。
「薄いヤツがいい。何が、薄い?」
そうだ。間違っても、ドストエフスキー(Fyodor Dostoevsky)や『経済学・哲学草稿(Okonomisch-philosophische Manuskripte)』なんか選ぶ訳にはいかない。
と、言う訳で、僕達はフランツ・カフカ(Franz Kafka)派かアルベール・カミュ(Albert Camus)派に別れる事となった。勿論、フランツ・カフカ(Franz Kafka)ならば、グレゴール・ザムザの物語(Die Verwandlung)だ。
中には、文学好きのクラスメートにその短い物語をさらに短く粗筋だけ書かせたり、彼の稚拙な感想(というか批評というか)をさらに水で薄める様な真似をしたモノもいた。
そして一方の僕はと言えば。
事もあろうに、その薄い冊子のさらに半分、第一部のみだけを読んで、適当に感想文をでっちあげて提出してやった。つまり、「きりんぐあんあらぶ」の事件の顛末だけで、物語を終えてしまったのだ。
その感想文がどんな内容だったのかは、書く必要もないだろう。
結論だけ言えば、僕はきちんと及第点をもらい、他の間抜けなクラスの連中の様な、再提出の憂き目にはあわなかった。
それはきっと、その教師が早大出身でなかったせいだろう。なぜって松岡正剛曰く「早稲田ではカミュはちょっとした英雄だった」から。
以上が、「きりんぐあんあらぶ」に関する、僕の顛末だ。
どうでもよい事だけれども、この際、ついでだから書いておく。
一般人にとって、理解不能で不条理な異常事件が起きて、容疑者 / 被告の内心を推し量りかねる度に、「今日ママンが死んだ(maman est morte)」「太陽が眩しかったから(c'etait à cause du soleil)」「きりんぐあんあらぶ」を持ち出して、安心立命していないかい?
次回は「ぶ」。
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