2015.01.13.10.54
もしも、マンガ『おろち
(Orochi)』[作:楳図かずお (Kazuo Umezu) 1969〜1970年 週刊少年サンデー連載] の主人公である少女おろち (Orochi) が、不老不死 (Eternal Youth And Immortality) の運命から逃れ、死すべき肉体 (Mortality) となったその時、彼女が自己の体験で得たモノを創作物として発表したら、それは山岸凉子 (Ryouko Yamagishi) が描くマンガ作品群となるのではないだろうか。
凄く迂遠な論法を展開してしまった。
言い直す。
山岸凉子 (Ryouko Yamagishi) のマンガ作品の幾つかはまるで、おろち (Orochi) が体験したモノ、そのままではないだろうか。
敢えて謂うならば、山岸凉子 (Ryouko Yamagishi) こそ、おろち (Orochi) だ。
両者を知るモノならば、なんとなく納得がいく、もしくはいって欲しい言説を弄んだつもりに、ぼく自身はなっているのだけれども、それでも、やっぱり勿論の様に、このままでは説明不足だ。
おろち (Orochi) は少女の姿をしているが、不老不死 (Eternal Youth And Immortality) の肉体をもっていて永遠の生を生き続ける。何故、そうなのか、何故、そうなってしまったのかは殆ど、説明はない。
そして、そんな生命に付随する特殊な能力を身につけているが、それに関しても、全く同じだ。
では、その生命と特殊能力をつかって、彼女はなにをするのかと謂うと、実はなにもしない。
ただただ、傍観者 (Spectator) として眺めているだけだ。もしも、その特殊能力を使う時があったとしてもその際とは、傍観者 (Spectator) である己の地位が危うくなった場合だけである。
滅びるモノは滅びるがままに、死ぬべきモノは死ぬがままに、狂うべきモノは狂うがままに、彼女は放置してしまう。
そんなおろち (Orochi) の視点をそのまま物語を編む作者と謂う地位に移行させたとしたら、おろち (Orochi) を我が身として引き受けられる創作者 / 表現者がいるとしたら、ぼく個人の中では、山岸凉子 (Ryouko Yamagishi) と謂うマンガ家がすっぽりと収まってしまうのである。
以前にこちらで、彼女の代表作『天人唐草
(Tenjin Karakusa)』 [1979年 週刊少女コミック掲載] の事を綴ったのだけれども、もしもこの作品の中に、ひとりの傍観者 (Spectator) としての少女の存在を許したら、そのままマンガ『おろち
(Orochi)』[作:楳図かずお (Kazuo Umezu) 1969〜1970年 週刊少年サンデー連載] と謂う連作マンガの一挿話になり得るのではないだろうか。
ああ、駄目だ。さっきから同じところをぐるぐるぐると、駆け回っているだけだ。
"鶏 - 玉子"論 (Chicken Or The egg) よりも、タチが悪い。
ちょっと視点を切り替える。
全然、別の話題だ。
傍観者 (Spectator) としての少女と謂う存在を、怪奇 / ホラー (Ghost / Horror) と謂う枠組みの中で起用したのが、マンガ『おろち
(Orochi)』[作:楳図かずお (Kazuo Umezu) 1969~1970年 週刊少年サンデー連載] だ。
だが、それを空想科学 / サイエンス・フィクション (Science Fiction / Speculative Fiction) のナラトロジー (Narratology) に放り込むと小説『家族八景
(Kazoku Hakkei : Eight Family Scenes / What The Maid Saw
)』 [作筒井康隆 (Yasutaka Tsutsui) 1970~1971年 小説新潮連載] から始まる、火田七瀬 (Nanase Hida) の3部作 [残りの2篇は小説『七瀬ふたたび
(Nanase Futatabi : Nanase Once More
)』[1972~1974年 小説新潮連載] と小説『エディプスの恋人
(Edipusu no Koibito : Oedipus’ Lover)』[1977年 週刊読売連載] ] となる。
それと同時に、それを推理小説 / ミステリー (Detective Story / Mystery) のナラトロジー (Narratology) に放り込むと小説『熱い空気
(Hot Air) [作:松本清張 (Seicho Matsumoto) 1963年 週刊文春連載 ヒロイン:河野信子 (Nobuko Kawano)] となって、後のTVドラマシリーズ『家政婦は見た! (The housekeeper Witnessed)』[1983~2008年 テレビ朝日系列放映 ヒロイン:石崎秋子 (Akilo Ishizaki)] の原作となる。
それをそのまま引き受けて、おろち (Orochi) と火田七瀬 (Nanase Hida) と河野信子 (Nobuko Kawano) 〜石崎秋子 (Akilo Ishizaki) とを同格と看做せば、それらを演じた女優、谷村美月 (Mitsuki Tanimura) [映画『おろち
(Orochi)』監督:鶴田法男 (Norio Tsuruta) 2008年制作] と多岐川裕美 (Yumi Takigawa) [火田七瀬 (Nanase Hida)役] と市原悦子 (Etsuko Ichihara) [石崎秋子 (Akilo Ishizaki) 役] は同格になってしまう。
果たして、そんな結論で良いのか。
そうではない。
少なくとも、おろち (Orochi) を除く、火田七瀬 (Nanase Hida) と石崎秋子 (Akilo Ishizaki) は、物語が連作となるに従って、傍観者 (Spectator) からヒロイン (Hiroine) へと転化してしまっている。
問題は、おろち (Orochi) だけがその班を逃れているのかどうか、なのだが。果たして。
個人的には、原作マンガのここのつの物語のなかの最終話『血 (The Blood)』に於いて、おろち (Orochi) 自身の生命が危ぶまれてヒロイン化 (Hiroinezed) への道が開かれた様にみえる。
だから本来ならば、次の挿話が語られる事によって、おろち (Orochi) を主人公とした新たなステージが発露しても構わない筈なのだが、それはない。
と、謂うのは、最終話『血 (The Blood)』は第1話『姉妹 (Sisters)』の変奏作品だからなのだ。どちらも、おんなとおんなの確執、姉と妹のあらそいがテーマだ。
マンガ『おろち
(Orochi)』[作:楳図かずお (Kazuo Umezu) 1969~1970年 週刊少年サンデー連載] と謂う物語はつまり、大きな円環構造 (Ouroboros) を呈していて、ここで閉じている。
だから逆に最終話『血 (The Blood)』のひとつ前の物語である第8話『戦闘 (Battle)』の最終シーンが、ぼく達に永遠に強く印象付けられる。
そこでは、ふたりっきりで山にむかったある父子 [実質的にはこの物語の主人公達] の、帰りをひたすら待っているおろち (Orochi) がいるのだ。

第8話『戦闘 (Battle)』の扉絵のひとつ [掲載画像はこちらから]。
次回は「ち」。
附記 1. :
ぼく個人のマンガ体験記の中でこの作品を語ると、少年マンガ誌 (Boys' Comic Magazine) で初めて読んだ、女性が主人公であるマンガ作品だ。
勿論、学年誌の中には、男の子向けのマンガが連載されているのと同様に、女の子向けのマンガも連載されていた。幼馴染や親戚のうちで、少女漫画誌 (Girls' Comic Magazine) をペラペラと観た事もあるだろう。
だけれども、女性が主人公とされる連載マンガにきちんと向き合ったのは、恐らく、この作品が一緒だ。
ちなみに、マンガ『キューティーハニー
(Cutey Honey )』 [作:永井豪 (Go Nagai) 1973年 週刊少年チャンピオン連載] よりもマンガ『愛と誠
(Ai To Makoto)』 [原作:梶原一騎 (Ikki Kajiwara) 作画:ながやす巧 (Takumi Nagayasu) 1973~1976年 週刊少年マガジン連載] よりも早い。永井豪 (Go Nagai) 作品には悪馬尻菊の助 (Kikunosuke Abashiri) を実質上の主役とするマンガ『あばしり一家
(The Abashiri Family)』 [作:永井豪 (Go Nagai) 1969~1973年 週刊少年チャンピオン連載] もあるが、彼女が正しい意味で主役に躍り出るのは、連載開始時からではない。当初は、あくまでも彼女を含めた悪馬尻一家 (The Abashiri Family) のひとりとしての位置付けだった。
マンガの掲載誌を基準とした歴史を追った記事や文献を読んだ事はないけど、どうなのだろう。
女性を主人公に据えたマンガ作品で、なおかつ、少年マンガ誌 (Boys' Comic Magazine) に掲載された作品の、一番最初の作品とは謂えないにしても、かなり早い時期の作品ではないか、とは思うのだけれども?
附記 2.:
おろち (Orochi) は何故、おろち (Orochi) と謂うのか。通常は大蛇 (Serpent) の謂いだ。
映画『雄呂血
(Orochi) [監督:二川文太郎 (Buntaro Futagawa) 1925年制作] とそのリメイク作品『大殺陣 雄呂血
(Daisatsujin Orochi)』 [監督:田中徳三 (Tokuzo Tanaka) 1966年制作] と関係はあるのか否か。
附記 3.:
森若香織 (Kaori Moriwaka) のソロ・デヴュー作『ラヴ・オア・ダイ (Love Or Die)』[1996年発表] のアルバム・カヴァーはおろち (Orochi) の顔面アップで、これはいろいろな意味で、ショッキングでした。
凄く迂遠な論法を展開してしまった。
言い直す。
山岸凉子 (Ryouko Yamagishi) のマンガ作品の幾つかはまるで、おろち (Orochi) が体験したモノ、そのままではないだろうか。
敢えて謂うならば、山岸凉子 (Ryouko Yamagishi) こそ、おろち (Orochi) だ。
両者を知るモノならば、なんとなく納得がいく、もしくはいって欲しい言説を弄んだつもりに、ぼく自身はなっているのだけれども、それでも、やっぱり勿論の様に、このままでは説明不足だ。
おろち (Orochi) は少女の姿をしているが、不老不死 (Eternal Youth And Immortality) の肉体をもっていて永遠の生を生き続ける。何故、そうなのか、何故、そうなってしまったのかは殆ど、説明はない。
そして、そんな生命に付随する特殊な能力を身につけているが、それに関しても、全く同じだ。
では、その生命と特殊能力をつかって、彼女はなにをするのかと謂うと、実はなにもしない。
ただただ、傍観者 (Spectator) として眺めているだけだ。もしも、その特殊能力を使う時があったとしてもその際とは、傍観者 (Spectator) である己の地位が危うくなった場合だけである。
滅びるモノは滅びるがままに、死ぬべきモノは死ぬがままに、狂うべきモノは狂うがままに、彼女は放置してしまう。
そんなおろち (Orochi) の視点をそのまま物語を編む作者と謂う地位に移行させたとしたら、おろち (Orochi) を我が身として引き受けられる創作者 / 表現者がいるとしたら、ぼく個人の中では、山岸凉子 (Ryouko Yamagishi) と謂うマンガ家がすっぽりと収まってしまうのである。
以前にこちらで、彼女の代表作『天人唐草
ああ、駄目だ。さっきから同じところをぐるぐるぐると、駆け回っているだけだ。
"鶏 - 玉子"論 (Chicken Or The egg) よりも、タチが悪い。
ちょっと視点を切り替える。
全然、別の話題だ。
傍観者 (Spectator) としての少女と謂う存在を、怪奇 / ホラー (Ghost / Horror) と謂う枠組みの中で起用したのが、マンガ『おろち
だが、それを空想科学 / サイエンス・フィクション (Science Fiction / Speculative Fiction) のナラトロジー (Narratology) に放り込むと小説『家族八景
それと同時に、それを推理小説 / ミステリー (Detective Story / Mystery) のナラトロジー (Narratology) に放り込むと小説『熱い空気
それをそのまま引き受けて、おろち (Orochi) と火田七瀬 (Nanase Hida) と河野信子 (Nobuko Kawano) 〜石崎秋子 (Akilo Ishizaki) とを同格と看做せば、それらを演じた女優、谷村美月 (Mitsuki Tanimura) [映画『おろち
果たして、そんな結論で良いのか。
そうではない。
少なくとも、おろち (Orochi) を除く、火田七瀬 (Nanase Hida) と石崎秋子 (Akilo Ishizaki) は、物語が連作となるに従って、傍観者 (Spectator) からヒロイン (Hiroine) へと転化してしまっている。
問題は、おろち (Orochi) だけがその班を逃れているのかどうか、なのだが。果たして。
個人的には、原作マンガのここのつの物語のなかの最終話『血 (The Blood)』に於いて、おろち (Orochi) 自身の生命が危ぶまれてヒロイン化 (Hiroinezed) への道が開かれた様にみえる。
だから本来ならば、次の挿話が語られる事によって、おろち (Orochi) を主人公とした新たなステージが発露しても構わない筈なのだが、それはない。
と、謂うのは、最終話『血 (The Blood)』は第1話『姉妹 (Sisters)』の変奏作品だからなのだ。どちらも、おんなとおんなの確執、姉と妹のあらそいがテーマだ。
マンガ『おろち
だから逆に最終話『血 (The Blood)』のひとつ前の物語である第8話『戦闘 (Battle)』の最終シーンが、ぼく達に永遠に強く印象付けられる。
そこでは、ふたりっきりで山にむかったある父子 [実質的にはこの物語の主人公達] の、帰りをひたすら待っているおろち (Orochi) がいるのだ。

第8話『戦闘 (Battle)』の扉絵のひとつ [掲載画像はこちらから]。
次回は「ち」。
附記 1. :
ぼく個人のマンガ体験記の中でこの作品を語ると、少年マンガ誌 (Boys' Comic Magazine) で初めて読んだ、女性が主人公であるマンガ作品だ。
勿論、学年誌の中には、男の子向けのマンガが連載されているのと同様に、女の子向けのマンガも連載されていた。幼馴染や親戚のうちで、少女漫画誌 (Girls' Comic Magazine) をペラペラと観た事もあるだろう。
だけれども、女性が主人公とされる連載マンガにきちんと向き合ったのは、恐らく、この作品が一緒だ。
ちなみに、マンガ『キューティーハニー
マンガの掲載誌を基準とした歴史を追った記事や文献を読んだ事はないけど、どうなのだろう。
女性を主人公に据えたマンガ作品で、なおかつ、少年マンガ誌 (Boys' Comic Magazine) に掲載された作品の、一番最初の作品とは謂えないにしても、かなり早い時期の作品ではないか、とは思うのだけれども?
附記 2.:
おろち (Orochi) は何故、おろち (Orochi) と謂うのか。通常は大蛇 (Serpent) の謂いだ。
映画『雄呂血
附記 3.:
森若香織 (Kaori Moriwaka) のソロ・デヴュー作『ラヴ・オア・ダイ (Love Or Die)』[1996年発表] のアルバム・カヴァーはおろち (Orochi) の顔面アップで、これはいろいろな意味で、ショッキングでした。
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