2014.12.16.11.22
えっぷ (Eppu) とは、穢れ (Kegare) や禁忌 (Taboo)、もしくは不浄 (Unclean) のモノを指し示すことばである。
とは、謂うモノの、このことばが流通可能なのは、ごく限られた地域での事であって、しかも、ごく限られた世代間だけのモノなのかもしれない。つまり、現在では死語 (Obsolete Words) に近い存在である可能性もある。
えっぷ (Eppu) に相応することばとして、標準語 (Standard Japanese) に該当するモノとしては、えんがちょ (Engacyo) を考える事は可能ではあるが、総ての語句がそうである様に、必ずしも、1対1対応 (One-to-one Correspondence) しているとは限らない。
揺れもあれば、はみだしもあれば、リンクがきれている場合 (Dead Link) もあるだろう。
穢いモノや触ってはいけないモノに触れたモノはえっぷ (Eppu) と周囲のモノに看做される。一体、なにを穢いモノとするのか、触ってはいけないモノとするのかは、その現場に立ち遭ったモノの何れかの判断による。
例えば、衛生的な基準や健康的な基準と謂う、具体的だったり客観的だったりな価値判断がうごく場合は多々あるモノの、殆どの場合は当事者達の誰かの一方的な主張に準拠するのだ。
つまり、糞便や屎尿や排出物もあれば、大きな綿塵や泥塗れや油塗れの品々の場合もあれば、得体の知れない蟲の類や不気味な植物もあれば、理科室や音楽室や図書室や体育用具室の奥底にある見慣れない教材や器具用具の場合もあれば、みずしらずの老人老婆の皺だらけの掌の場合もあれば、どの教室にも必ずひとりやふたりはいる嫌われモノやいぢめられっこが所有しているモノの場合もあれば、さらに上げ連ねるのならば、そんな風に扱われている彼自身や彼女自身の場合すらもある。
多岐に渡るのだ。
ここまで書いてきて書き忘れた事がひとつある。
上に揚げた事例を読めば類推可能だと思うが、このえっぷ (Eppu) と謂うことばが流通するのは、恐らく幼児や児童の間での事だ。
中学校 (Junior High School) に進学すれば、もう、その時点でほぼ、その様な語句は忘れ去られてしまう。
それはそのことばを起用する事自体に潜む幼稚性が原因かもしれないがもうひとつ、このことばを流通可能とする制度が極めて狭いからなのだ。
あるひとつの集団で流通するえっぷ (Eppu) の規範なり規則がそのまま、異なる集団で通用する可能性は殆どないからである。
それまで所属していた地縁的な関係性や、小学校のその学年のそのクラスの中で培われてきた関係性が一旦、中学校 (Junior High School) への進学によって解体されてしまう。その結果、えっぷ (Eppu) を成り立たせる土壌が喪失されてしまうのである。
えっぷ (Eppu) と宣言されたモノはどうしたらよいのか。その周縁にいる他の何者かに触れさえすれば良い。そうすれば、自身はえっぷ (Eppu) から解放されて、触れられたモノが新たにえっぷ (Eppu) となる。
そうしてえっぷ (Eppu) が次から次へと新たなモノへと伝播する事によって、当初に存在した穢いモノや触ってはいけないモノに触れたモノは忘却されて、最初にえっぷ (Eppu) と断罪されたモノは浄化される。
あとは時間の問題で、休み時間終了を告げるチャイムや帰宅を告げるサイレンの音等によって、強制終了されてしまう。その場合、次の休み時間や翌日の放課後、このえっぷ (Eppu) の所在が蒸し返される事は先ずない。誰もが皆、都合よく忘れ去ってしまうのだ。
えっぷ (Eppu) を防ぐ方法は多々あるが、その際に宣言されることばは恐らくたったひとつだ。
「えっぷきった (Eppu Kitta)」と謂う。

映画『千と千尋の神隠し
(Spirited Away)』 [宮崎駿 (Hayao Miyazaki) 監督作品 2001年制作] より [掲載画像はこちらより]。
自身の両手の人差し指 (Index Finger) を繋ぎ、それを切り離す事だ。膝蹴り (Knee Kick) をする様に、自身の腿でその繋ぎ目を切り離す場合もあれば、第三者の手刀 (Chopping) で切り離してもらう場合もある。但し、後者の場合、その手刀 (Chopping) の入刀 (Chopping) の仕方次第では、あらたにえっぷ (Eppu) になってしまう場合もある。
そして、ふたつの親指 (Thumb) を人差し指 (Index Finger) と中指 (Middle Finger) の間に挟み握り拳 (Clenched Fist) をつくって、えっぷ (Eppu) な存在から逃げる。えっぷ (Eppu) がえっぷ (Eppu) でなくなる為には、そんな風にして逃げる彼らの親指 (Thumb) を触らなければならない。だから、時には取っ組み合いの喧嘩もどきがそこで始まってしまう場合がある。
さらに謂えば、安全地帯 (Safety Zone) と称される場所が存在する場合もある。そこに逃げ込んでしまえばもう、えっぷ (Eppu) は手出しが出来ない。殆どの場合は、校庭や児童公園にある遊具のひとつであったり、教室内にある担任の机であったりするが、いつ誰がそこを安全地帯 (Safety Zone) と宣言するかはその場その時の状況においてだ。恐らく、その時のえっぷ (Eppu) が出来する以前にあった環境に応じて、発生する様に思われる。
そんな風に臨機応変に規範や規則は随時変わる。前の休み時間や昨日の放課後とは全く異なる規範や規則がそこにあって、しかも意外な事にそれに異を唱えるモノは殆どいない。
いるとしたら、その外にいる大人達や教師、違う学年や違うクラスの園児児童生徒達であって、しかも彼らは決してえっぷ (Eppu) にはならないし、また、彼らを生贄 (Scapegoat) にしてもいけない。
無言の暗黙の了解 (Unspoken Agreement) がそこにはあるのだ。
猶、個人的な事だが、えんがちょ (Engacyo) と謂うことばを知ったのは随分、後の事であって、上京後とは謂わないまでも、年齢的にはその辺りの出来事だ。
恐らく、江口寿史 (Eguchi Hisashi) か誰かの、世代間の共通認識そのものを笑いに転化するマンガ作品での様な記憶がある。
最初は全く意味不明の語句として響き、いくつかの類推によってそれがえっぷ (Eppu) と同種のモノを指し示すだろうと謂う結論に達した。
だが、結論に達したと謂っても、その作品を描く作家の出身地のことば、つまり、えんがちょ (Engacyo) を一方言 (Dialect Words) として、長らく捉えていた。
えっぷ (Eppu) の方こそ、極めて狭い世界でしか通用しないモノだと謂う認識を得るのは、もっともっと後になってからの事だ。
次回は「ぷ」。
とは、謂うモノの、このことばが流通可能なのは、ごく限られた地域での事であって、しかも、ごく限られた世代間だけのモノなのかもしれない。つまり、現在では死語 (Obsolete Words) に近い存在である可能性もある。
えっぷ (Eppu) に相応することばとして、標準語 (Standard Japanese) に該当するモノとしては、えんがちょ (Engacyo) を考える事は可能ではあるが、総ての語句がそうである様に、必ずしも、1対1対応 (One-to-one Correspondence) しているとは限らない。
揺れもあれば、はみだしもあれば、リンクがきれている場合 (Dead Link) もあるだろう。
穢いモノや触ってはいけないモノに触れたモノはえっぷ (Eppu) と周囲のモノに看做される。一体、なにを穢いモノとするのか、触ってはいけないモノとするのかは、その現場に立ち遭ったモノの何れかの判断による。
例えば、衛生的な基準や健康的な基準と謂う、具体的だったり客観的だったりな価値判断がうごく場合は多々あるモノの、殆どの場合は当事者達の誰かの一方的な主張に準拠するのだ。
つまり、糞便や屎尿や排出物もあれば、大きな綿塵や泥塗れや油塗れの品々の場合もあれば、得体の知れない蟲の類や不気味な植物もあれば、理科室や音楽室や図書室や体育用具室の奥底にある見慣れない教材や器具用具の場合もあれば、みずしらずの老人老婆の皺だらけの掌の場合もあれば、どの教室にも必ずひとりやふたりはいる嫌われモノやいぢめられっこが所有しているモノの場合もあれば、さらに上げ連ねるのならば、そんな風に扱われている彼自身や彼女自身の場合すらもある。
多岐に渡るのだ。
ここまで書いてきて書き忘れた事がひとつある。
上に揚げた事例を読めば類推可能だと思うが、このえっぷ (Eppu) と謂うことばが流通するのは、恐らく幼児や児童の間での事だ。
中学校 (Junior High School) に進学すれば、もう、その時点でほぼ、その様な語句は忘れ去られてしまう。
それはそのことばを起用する事自体に潜む幼稚性が原因かもしれないがもうひとつ、このことばを流通可能とする制度が極めて狭いからなのだ。
あるひとつの集団で流通するえっぷ (Eppu) の規範なり規則がそのまま、異なる集団で通用する可能性は殆どないからである。
それまで所属していた地縁的な関係性や、小学校のその学年のそのクラスの中で培われてきた関係性が一旦、中学校 (Junior High School) への進学によって解体されてしまう。その結果、えっぷ (Eppu) を成り立たせる土壌が喪失されてしまうのである。
えっぷ (Eppu) と宣言されたモノはどうしたらよいのか。その周縁にいる他の何者かに触れさえすれば良い。そうすれば、自身はえっぷ (Eppu) から解放されて、触れられたモノが新たにえっぷ (Eppu) となる。
そうしてえっぷ (Eppu) が次から次へと新たなモノへと伝播する事によって、当初に存在した穢いモノや触ってはいけないモノに触れたモノは忘却されて、最初にえっぷ (Eppu) と断罪されたモノは浄化される。
あとは時間の問題で、休み時間終了を告げるチャイムや帰宅を告げるサイレンの音等によって、強制終了されてしまう。その場合、次の休み時間や翌日の放課後、このえっぷ (Eppu) の所在が蒸し返される事は先ずない。誰もが皆、都合よく忘れ去ってしまうのだ。
えっぷ (Eppu) を防ぐ方法は多々あるが、その際に宣言されることばは恐らくたったひとつだ。
「えっぷきった (Eppu Kitta)」と謂う。

映画『千と千尋の神隠し
自身の両手の人差し指 (Index Finger) を繋ぎ、それを切り離す事だ。膝蹴り (Knee Kick) をする様に、自身の腿でその繋ぎ目を切り離す場合もあれば、第三者の手刀 (Chopping) で切り離してもらう場合もある。但し、後者の場合、その手刀 (Chopping) の入刀 (Chopping) の仕方次第では、あらたにえっぷ (Eppu) になってしまう場合もある。
そして、ふたつの親指 (Thumb) を人差し指 (Index Finger) と中指 (Middle Finger) の間に挟み握り拳 (Clenched Fist) をつくって、えっぷ (Eppu) な存在から逃げる。えっぷ (Eppu) がえっぷ (Eppu) でなくなる為には、そんな風にして逃げる彼らの親指 (Thumb) を触らなければならない。だから、時には取っ組み合いの喧嘩もどきがそこで始まってしまう場合がある。
さらに謂えば、安全地帯 (Safety Zone) と称される場所が存在する場合もある。そこに逃げ込んでしまえばもう、えっぷ (Eppu) は手出しが出来ない。殆どの場合は、校庭や児童公園にある遊具のひとつであったり、教室内にある担任の机であったりするが、いつ誰がそこを安全地帯 (Safety Zone) と宣言するかはその場その時の状況においてだ。恐らく、その時のえっぷ (Eppu) が出来する以前にあった環境に応じて、発生する様に思われる。
そんな風に臨機応変に規範や規則は随時変わる。前の休み時間や昨日の放課後とは全く異なる規範や規則がそこにあって、しかも意外な事にそれに異を唱えるモノは殆どいない。
いるとしたら、その外にいる大人達や教師、違う学年や違うクラスの園児児童生徒達であって、しかも彼らは決してえっぷ (Eppu) にはならないし、また、彼らを生贄 (Scapegoat) にしてもいけない。
無言の暗黙の了解 (Unspoken Agreement) がそこにはあるのだ。
猶、個人的な事だが、えんがちょ (Engacyo) と謂うことばを知ったのは随分、後の事であって、上京後とは謂わないまでも、年齢的にはその辺りの出来事だ。
恐らく、江口寿史 (Eguchi Hisashi) か誰かの、世代間の共通認識そのものを笑いに転化するマンガ作品での様な記憶がある。
最初は全く意味不明の語句として響き、いくつかの類推によってそれがえっぷ (Eppu) と同種のモノを指し示すだろうと謂う結論に達した。
だが、結論に達したと謂っても、その作品を描く作家の出身地のことば、つまり、えんがちょ (Engacyo) を一方言 (Dialect Words) として、長らく捉えていた。
えっぷ (Eppu) の方こそ、極めて狭い世界でしか通用しないモノだと謂う認識を得るのは、もっともっと後になってからの事だ。
次回は「ぷ」。
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