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2014.11.18.13.12

うにどろ

うにどろ (Unidoro) とは、漢字で書けば"海胆泥" ないしは"海栗泥"である。いやいや、ここで謂う"うに (Uni)" は、海洋生物であるところの海胆 (Sea Urchin) ないしは海栗 (Sea Urchin) であるよりも、そこから採れる食品としての雲丹 (Sea Urchin Eggs) だから、むしろ雲丹泥 (Unidoro) と書くのが最も相応しい表記の様に思える。
いずれしても英語 (English) で綴れば"Sea Urchin Eggs With Mud"だ。

ここで本来ならば図に乗って、仏語 (Francais) や独語 (Deutsche) や伊語 (L'italiano) や他の言語での言い換えのあらん限りを尽くすべきなのかもしれないが、そこまで語彙が豊富な訳ではない。さも自慢気に綴った英語 (English) 表記でのそれも、妖しい事この上ない。
だからもし万一、海外等で、ここで紹介した謂い回しを使いたい場合は、存分に注意された方がいいだろう。

と、普段からもってまわった表現ばかりで綴られているこの連載にも関わらずに、それに輪をかける様にもってまわった表現をしたのには、それなりの理由がある。
何故ならば、今回の主要なテーマがこの、もってまわる表現に他ならないからだ。

雲丹泥 (Unidoro) とは、赤瀬川原平 (Genpei Akasegawa) による彼独自の謂い回しであって、しかも、この謂い回しは、ぼくの記憶が正しければ、彼の著作物には登場していない筈だ。
南伸坊 (Minami Shinbo) 辺りの著述に赤瀬川原平 (Genpei Akasegawa) にまつわる一挿話として登場していて、それを読んだぼくが記憶しているのはほぼ間違いはない。
と、断言したわりには、その著作物名ははっきりとしていない。自宅にいくつもある彼の作品のどここかにあるのは間違いないのだけれども、それを捜し出して、ここに掲示する労力も時間もない。

だから、もし万が一、どこかの誰かがその書物名を教えてくれれば素直にお礼を謂うであろうし、もし万が一、南伸坊 (Minami Shinbo) ではなくて他の誰かの著作物の中にあるのだとしたら、素直にお詫びをするだろう。
つまりそれだけいい加減な記憶であると同時に、どの書籍にその名称が登場したのかと謂うのは、少なくともこの件に関する限りは、ぼく自身の中ではおおきな問題ではないのだ。

雲丹泥 (Unidoro) とは、次の様な意味を持った語句である。
赤瀬川原平 (Genpei Akasegawa) の好物のひとつが雲丹 (Sea Urchin Eggs) だ。そして、その好物を美味しく頂こうとすると、その雲丹 (Sea Urchin Eggs) に泥が塗られていて喰うに喰えない。非常に残念であると同時に、非常に悔しくもある。
そんな感情の面持ちを表現した言葉がこの雲丹泥 (Unidoro) と謂う比喩 (Metaphor) なのである。

と、謂う上の文章は要点を非常にかいつまんで整理整頓を試みた結果のモノであって、実際はもう少しややこしい経緯もあるし、その言葉に込められた感情ももう少しややこしい。
そしてそれをそのまま説明するのはぼくにはとっても億劫なモノなのだ。

だから、こちらのサイトで雲丹泥 (Unidoro) と謂う語句を、懇切丁寧に紹介し解説してあるからそちらの方を、興味のある方は読んでもらいたい。

つまり、本来ならばこの頁でぼくが為すべき事は、そちらのサイトでの解説された内容を、もう少しかいつまんでわかりやすく、しかも要点を絞って綴るべき行為なのであるが、それを放棄したいとぼくがここで綴っているのだ。

なにやら自己言及の物語 (Narrativity Of Self-reference) にも陥りそうな様相を呈しているが、そうではなくて、ぼくが果たすべき責務を放棄したいと謂うのは、「もう少しかいつまんでわかりやすく、しかも要点を絞って綴る」事によって喪われてしまうモノが遥かにおおきいからなのである。

「もう少しかいつまんでわかりやすく、しかも要点を絞って綴」らない事それ自体が、雲丹泥 (Unidoro)という語句の解説には最も相応しいモノではあるが、それは難しい。
本来ならば、いけしゃあしゃあと全文引用すべきモノなのかもしれないが、流石にそれは憚られる。
そんな、二者択一のいずれをも選択しえないその結果としての判断が、「こちらのサイトで」云々と謂う選択をぼくにせしめたと、思ってもらいたい。

と、自身の台所事情の様な、他者に知らしめる必要すらないモノを延々と述べて、結局のとどのつまりが非常に矮小である様な思考形式を経てみたのは、雲丹泥 (Unidoro) と謂う語句が成立した過程と、実は同じ様な道筋で、このくだくだしい謂訳が生成されている可能性があるからだ。

雲丹泥 (Unidoro) は比喩 (Metaphor) でありながら比喩 (Metaphor) としての機能を持ち得ていないと、指摘したのは藤森照信 (Terunobu Fujimori) だ。
確かに、この語句の成立過程をそのまま綴ったモノ [こちらのサイトを参照の事] を読めば、相当に、そこで赤瀬川原平 (Genpei Akasegawa) が表現したいモノをそのまま受容するのには、並大抵の努力では足らない。

だが冷静に考えれば比喩 (Metaphor) と謂うモノが一朝一夕でその意味するところのモノを獲得できたのかと問えば、それはそれで充分に疑わしき問題でもあるのだ。
それらの語句が、一対一対応で、ある意味に結び付けられる為には、永い年月も要するだろうし、それと同時に、その語句をその意味で使い続けていく不断の行為も必要だろう。
歴史や文化を共通のモノとした上で、使用する言語が共通のモノであって、初めて、その語句が意味したいモノを意味させる事が出来る。比喩 (Metaphor) とはそおゆうモノなのだ。

だから、極端な表現をすれば、赤瀬川原平 (Genpei Akasegawa) が雲丹泥 (Unidoro) と謂う語句を起用して、その意味するところを一生懸命に説明しようとする姿は、比喩 (Metaphor) が生成される瞬間そのモノの様にも思える。

と、謂う様な感慨にぼくが辿り着いたその先にあるのは、赤瀬川原平 (Genpei Akasegawa) の作品や著作物は皆、同じ様な生成過程を経ているのではないだろうか、と謂う事なのだ。

つまり、既存のモノや所与のモノをそのまま受容し使用するのではなくて、一度、そのモノの存在が発生するそれ以前のモノへと回帰して、いちいちひとつひとつ、その生成の現場をもう一度、現時点まで辿り直す事。

それが赤瀬川原平 (Genpei Akasegawa) の手法の、すくなくともひとつではないのかなぁ、と思うのだ。

images
上に掲載するのは、新宿駅ワンデーストリート (Shinjyuku Oneday Street) [京王新線新宿駅 (Keio New Line Shinjyuku Dtation) から甲州街道 (Koshu Kaido) 沿いに初台 (Hatsudai) 方面に向かう地下道] にある無用階段 (Useless Stairways)。謂うまでもなく赤瀬川原平 (Genpei Akasegawa) が提唱したトマソン (Tomason) の一種。
地下を走る路線をくぐるかたちで造られた地下道が、その後、バリアフリー (Universal Design) の一環としてそのすぐ脇にゆるいスロープが増築された結果、昇り降りの大変な階段を誰も使用しなくなったモノと、思われる。
[写真右側が階段で左側がスロープ:掲載画像はこちらから。]

次回は『』。
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