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2014.10.28.05.35

ひがきげんのすけ

檜垣源之助 (Gennosuke Higaki) は小説『姿三四郎 (Sanshiro Sugata)』 [作:富田常雄 (Tsuneo Tomita) 19421945年発表] の登場人物。
主人公である姿三四郎 (Sanshiro Sugata) の最初にして最大のライバルである。

この物語が小説『宮本武蔵 (Miyamoto Musashi)』 [作:吉川英治 (Eiji Yoshikawa) 19351939年発表] をなぞる様に語られながら、それと全く違った展開を魅せているのは、そのそれぞれの語られる物語のツールが、剣術 (Kenjutsu) と柔道 (Judo) との差異にあるからだ。
と、大胆にも断言してしまうと、ふたつの物語の読者はどう思うだろうか。

前者が真剣勝負の殺し合いでありながら、後者はあくまでも武術 (Bujyutsu : Martial Arts) ではない武道 (Budo) たらん、つまり一種のスポーツ (Sports) であろうとする。
その結果、前者における敗者は一敗地にまみれるや否や、物語からの退場を余儀なくされてしまうのに対し、後者は例え敗者であろうとも、後に続く物語にも継続して登場するばかりか、その方向性をおおきく左右する存在にもなり得る。
つまり、巌流佐々木小次郎 (Sasaki Kojiro) にとって主人公宮本武蔵 (Miyamoto Musashi) との対決が最大にして最後のクライマックスであるのに対し、檜垣源之助 (Gennosuke Higaki) にとっては主人公姿三四郎 (Sanshiro Sugata) との対決は最初のクライマックスでしかない。
敗れた檜垣源之助 (Gennosuke Higaki) は、敗れた事によって大きく変わり、物語での重要度はさらに高まるのだ。

檜垣源之助 (Gennosuke Higaki) が姿三四郎 (Sanshiro Sugata) の前に大きく立ちはだかるのは、師村井半助 (The Master Hansuke Murai) の敗北が原因であり、彼の主張も彼らの流派の再興にあるとする。しかし、それとは別のおおきな理由が彼にはある。師村井半助 (The Master Hansuke Murai) の娘乙美 (The Daughter Otomi) を巡る姿三四郎 (Sanshiro Sugata) との対立である。

この物語が何度となく別のメディア作品へと翻案されたのは、多分に、おとこ同士の争いを描く他に、常に女性の存在が物語の行方を左右するからだろう。だけれども、その点に関しては、ここでは深く追求しない。
ただ一言、この物語の主人公が何故、小説『三四郎 (Sanshiro)』 [作:夏目漱石 (Natsume Soseki) 1908年発表] の主人公小川三四郎 (Sanshiro Ogawa) と同じ名前を当てがわれたのかと謂う事は考えてもいい問題ではないか、とぼくは想っている。

つまり、主人公姿三四郎 (Sanshiro Sugata) はそれだけ、絶えず、自己の葛藤の中にあって、常に揺らいでいる。

それに乗じて、彼の闘いの場も左右される。
村井半助 (Hansuke Murai) との対決は、警視庁 (Metropolitan Police Department) での武術 (Bujyutsu : Martial Arts) 大会、名称こそ武術 (Bujyutsu : Martial Arts) と謂う語句が躍っているがその実が武道 (Budo) ≒スポーツ (Sports) の場であるのに対し、檜垣源之助 (Gennosuke Higaki) との対決は完全な私怨 (Personal Grudge) のモノ、前時代的な果し合いの決闘 (Duel) だ。

この物語は、旧来的なイデオロギー (Ideologie) と最新のイデオロギー (Ideologie)、日本的な伝統に準ずるイデオロギー (Ideologie) と西欧渡来のイデオロギー (Ideologie) が対峙する物語であって、登場人物たちはいずれかの主張を帯びて物語に登場する。
だが独り、主人公である姿三四郎 (Sanshiro Sugata) だけは、自己の中に確たるモノを持たぬが故に、ふたつのモノが混沌として渦巻いているのだ。
その渦巻きを止揚 (Aufheben) する場が、彼の闘いの場なのであり、しかもその殆どの場合が、旧来的なイデオロギー (Ideologie) や日本的な伝統に準ずるイデオロギー (Ideologie) が要請する場であるのだ。

しかも、その結果として、檜垣源之助 (Gennosuke Higaki) は姿三四郎 (Sanshiro Sugata) に敗れる事によって新たなステージへと向かう事になるのだが、姿三四郎 (Sanshiro Sugata) 自身は、未だにその場から解放されない。
彼に対峙する新たな人物たちがまるで、かつての檜垣源之助 (Gennosuke Higaki) を想起させるような面持ちで物語に登場するからなのだ。

例えば、檜垣源之助 (Gennosuke Higaki) のふたりの実弟、檜垣鉄心 (Teshin Higaki) と檜垣源三郎 (Genzaburo Higaki) だ。
彼らはかつて檜垣源之助 (Gennosuke Higaki) が敗れた師村井半助 (The Master Hansuke Murai) に不甲斐なさを感じる様に実兄を凝視め、実兄の敵討ちと称して、姿三四郎 (Sanshiro Sugata) に挑むのだ。

と、ここまで書いてみたのは単なる (Makura) 、落語 (Rakugo) における前説 (Introduction) だ。
[本来の語法からみれば、あやまりとも思われかねない語句の起用だが、前後を違えたのはわざとだ。]

ぼくがこの物語を知ったのは『週刊少年マガジン (Weekly Shonen Magazine)』でみなもと太郎 (Minamoto Taro) が同名小説を翻案したマンガ作品『姿三四郎 (Sanshiro Sugata)』 [1972年連載] を連載したからだ。
主人公、姿三四郎 (Sanshiro Sugata) はマンガ『ホモホモ7 (Homohomo 7)』[19701971週刊少年マガジン (Weekly Shonen Magazine) 連載] で主役をはったあのおとこが演じていて、この駄文の主人公檜垣源之助 (Gennosuke Higaki) はあのおとこが演じている。

と、書いてもみなもと太郎 (Minamoto Taro) 作品を知らないモノからみれば、なにがなにやら解らない文章になってしまっている。
それはつまり、みなもと太郎 (Minamoto Taro) が自身の作品において、手塚治虫 (Tezuka Osamu) と同様にスターシステム (Star System) を導入しているのにも関わらず、キャスティングされたキャラクター達には一切、固有の名称が与えられていないからだ。
と、謂うか、手塚治虫 (Tezuka Osamu) 作品では、そのキャラクターが初登場した際の名称が引き続き、その後の作品に登場した際も継承されるのが慣行であるのに対して、みなもと太郎 (Minamoto Taro) 作品には、その様な配慮がなされていないからなのだ。
それは、手塚治虫 (Tezuka Osamu) が自身のオリジナル・ストーリーを多く手掛けている一方で、みなもと太郎 (Minamoto Taro) 作品は過去の文芸作品や歴史的事件を題材にしている事によるからなのだろう。
純粋な意味で、マンガのキャラクター達がそれらの登場人物達を演じているのだ。

images
檜垣源之助 (Gennosuke Higaki) を演じたあの男は、例えばマンガ『冗談新撰組 (Joudan Shinsengumi)』 [1972週刊少年マガジン (Weekly Shonen Magazine) 連載] では新選組局長近藤勇 (Kondo Isami, The Commander Of The Shinsengumi) を演じ、マンガ『レ・ミゼラブル (Les miserables)』[原作:ヴィクトル・ユーゴー (Victor Hugo) 19731974希望の友連載] ではジャベール警部 (Inspecteur Javert) を演じた。
ちなみにマンガ『ホモホモ7 (Homohomo 7)』[19701971週刊少年マガジン (Weekly Shonen Magazine) 連載] の主人公ホモホモ7 (Homo Homo 7) でもある姿三四郎 (Sanshiro Sugata) を演じたあの男は、前者では新選組副長土方歳三 (Hijikata Toshizo, The Vice-commander Of The Shinsengumi) を、後者ではジャン・ヴァルジャン (Jean Valjean) を演じた。
[上記掲載画像はみなもと太郎 (Minamoto Taro) のマンガ評論集『お楽しみはこれもなのじゃ (Also You Ain't Read Nothin' Yet!)』[19761979月刊マンガ少年連載] の文庫初版表紙を飾ったジャベール警部 (Inspecteur Javert)。檜垣源之助画像 (Images Of Gennosuke Higaki) がどうしてもみつからないので、これでお茶を濁すのだ (Do In A Halfhearted)。]

檜垣源之助 (Gennosuke Higaki) であり新選組局長近藤勇 (Kondo Isami, The Commander Of The Shinsengumi) でありジャベール警部 (Inspecteur Javert) であるこの男、さだめし、手塚治虫 (Tezuka Osamu) 作品でのアセチレン・ランプ (Acetylene Lamp) と同格の様な存在と思うが如何だろうか。
小説『姿三四郎 (Sanshiro Sugata)』 [作:富田常雄 (Tsuneo Tomita) 19421945年発表] の最初の映像作品である映画『姿三四郎 (Sanshiro Sugata)』[黒澤明 (Akira Kurosawa) 監督作品 1943年制作] では月形龍之介 (Ryunosuke Tsukigata) が檜垣源之助 (Gennosuke Higaki) を演じている。

次回は「」。

附記:
みなもと太郎 (Minamoto Taro) のマンガ『姿三四郎 (Sanshiro Sugata)』 を連載している丁度その頃、掲載誌『週刊少年マガジン (Weekly Shonen Magazine)』でのマンガ『あしたのジョー (Ashita no Joe)』 原作:高森朝雄 [梶原一騎] (Ikki Kajiwara) 画:ちばてつや (Tetsuya Chiba) 19681973週刊少年マガジン連載] には、主人公矢吹丈 (Joe Yabuki) のライバルとして、野生児 (Wild Boy) ハリマオ (Harimau) が登場していた。
檜垣三兄弟 (Three Brothers Of Higakis) の末弟、檜垣源三郎 (Genzaburo Higaki) はあたかもそのハリマオ (Harimau) を彷彿とさせる様な野生児 (Wild Boy) であって、これは一見、みなもと太郎 (Minamoto Taro) 得意のパロディ (Parody) の様に思える。
だが、しかし、原作小説『姿三四郎 (Sanshiro Sugata)』 [作:富田常雄 (Tsuneo Tomita) 19421945年発表] に登場する檜垣源三郎 (Genzaburo Higaki) こそが、真の意味での野生児 (Wild Boy) であったのである。
こうなると、誰が誰を****したのか、皆目、見当がつかない [自己検閲 (Self-censorship ) の結果、伏字 (Unprintable Words) にしました]。
みなもと太郎 (Minamoto Taro) のマンガ『姿三四郎 (Sanshiro Sugata)』を読んだ高森朝雄 [梶原一騎] (Ikki Kajiwara) が矢吹丈 (Joe Yabuki) の好敵手 (Rival) のひとりとして、野生児 (Wild Boy) ハリマオ (Harimau) を創造した可能性がないわけではないのだ [時系列を丹念に追えばすぐに解決する問題ではあるのだか、このまま放置しておいたほうが面白いだろう]。
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