2014.09.25.19.05
中村汀女『花そこに白き夜窓に夜の看護』とO. ヘンリー『最後の一葉』
件名が総てを物語ってしまっているが、最初にこの作品を読んだ時に、まるでオー・ヘンリー (O. Henry) の短編『最後の一葉 (The Last Leaf)』 [1907年発表] みたいな俳句だなと想ったのだった。
つまり、どちらの創作物にも、病人ないしは怪我人と、その人物のやすまる部屋の窓が大事なモチーフとして登場しているからだ。
この句を知ったのは、『「花そこに白き夜窓に夜の看護 中村汀女」の「読み」について』という記事での事だから、実は句の作者の事はよく知らない。
ぢゃあ一方の小説の作者はどうなのかと謂われると、あらたまって考えてみれば、決して、詳しい訳ではない。この短編小説に代表される数編を読んだ事があるくらいだ。
作品の傾向としては同じ様な短編小説作家では彼よりも、サキ (Saki) やアンブローズ・ビアス (Ambrose Bierce) の方が好みと謂えば好みだ。
だから、彼の代表作のひとつであるこの短編は、正篇よりもむしろ、パロディやなんかの方が馴染があるくらいだ。
それでも、この作品を知っているのは、教科書かさもなければ学年誌で読んだのだろう。サキ (Saki) 的な、アンブローズ・ビアス (Ambrose Bierce) 的な、ぼく自身の好みから謂えば、積極的には読まない作品ではあるし、むしろ積極的に避けている様な作品でもある。
と、綴ってはいるが、本題は短編の方にはなくて俳句の方にある。
さきにあげたTogetherまとめで語られている議論が興味深いからだ。
この句に登場する「花」はどこにあるのか、と謂う議題から始まって、作者の視点のありどころ、そして、解釈におけるその位置までへも言及されているようだ。
俳句の技術論的な事は一切、解らないから、技術的な視点から立ち上がる解釈に関しては、ぼく自身の理解の及ばないモノがある。
だけれども、そこでは如実に言及されていない、少なくともふたつの事がぼくには気がかりだ。
ひとつは「白き夜窓に」の読み。
これを"しろきよまどに"と読む方法と"しろきやそうに"と読む方法のふたとおりが存在しうる事、と同時に、その読みの違いによって、句の切れ目や解釈が大幅に左右される可能性がある事なのだ。
ここでの議論での発言者は、いずれの読みによって、解釈しているのだろうか。
もうひとつは、俳句を語る事、その作品を語る事は、俳句のなかの言語で語り得るのだろうか、もしくは、語るべきなのだろうか、と謂う疑問。
勿論、そのなかだけで流通している言語で語る事は出来るのではあろうが、そうすべき事なのだろうか、そうあらざるを得べきでない事なのだろうか。
一方で、議論の行方の散漫さや曖昧さを併発する可能性もあるのではあるが、と、同時に、作品の解釈や理解の自由度を妨げる事にもなり得るだろう。
ちなみに、どの解釈がどうこう、だれの発言がどうこう、と謂う事ではない。
作者の作風を知らなければ語る事の出来ない解釈もあり得るだろうし、俳句の潮流も知らなければ語る事の出来ない解釈もあるだろう、と謂う事はここでの議論を読めば、薄々、感づかされる事ではあるが、だからと謂って、必ずしも、そうではない事が排除されている訳ではない。
俳句ではあっても、他のジャンルの文法で解釈する事も、自由なのだ。
それは、直接的な治療行為以外の方法が、病人の治癒にとって最も必要なモノかもしれない、と謂う様にも読めてしまうあの短編小説の様なモノなのかもしれない。
最後に、ぼく自身の、『花そこに白き夜窓に夜の看護』の解釈を書いておく。
俳句や、中村汀女 (Nakamura Teijo) 自身や、彼女の作風を知るヒトにとっては受け入れ難いモノかもしれない。
つまりは単なる印象論だ。
作者の眼の前に実際にあるのは、一体、なんなのだろうか。そして、今、はいつなのだろうか。
なんだか、今が「夜」である事も、花がそこにある事も、眼前に病室がある事も、一切、保証していない様な気がするのだ。
それは「白き夜窓に」と謂う幻想的な修辞が登場するからであって、それが結果的に、ぼくには、この句自体が、回想シーンの様にも、幻想シーンの様にも、読めてしまうのだ。
例えば、こんな光景だ。
日中、ある建物の窓のひとつから白い花が置かれているのが観える。そこから、昨夜の看護の情景が、自ずと推し量られるのだ、と謂う様な。
だから、その窓からは看護されるべき人物の姿は観得ず、もしかしたら、その部屋は無人かもしれない。
そして、そんな解釈は、作者が部屋の中にはいっていたとしても、成立する。
花だけがそこにある。昨夜の白い夜を偲ばせるのだ。
これで、ぼくがオー・ヘンリー (O. Henry) ではなくて、サキ (Saki) やアンブローズ・ビアス (Ambrose Bierce) が好きな事も理解してもらえるかもしれない。
つまり、どちらの創作物にも、病人ないしは怪我人と、その人物のやすまる部屋の窓が大事なモチーフとして登場しているからだ。
この句を知ったのは、『「花そこに白き夜窓に夜の看護 中村汀女」の「読み」について』という記事での事だから、実は句の作者の事はよく知らない。
ぢゃあ一方の小説の作者はどうなのかと謂われると、あらたまって考えてみれば、決して、詳しい訳ではない。この短編小説に代表される数編を読んだ事があるくらいだ。
作品の傾向としては同じ様な短編小説作家では彼よりも、サキ (Saki) やアンブローズ・ビアス (Ambrose Bierce) の方が好みと謂えば好みだ。
だから、彼の代表作のひとつであるこの短編は、正篇よりもむしろ、パロディやなんかの方が馴染があるくらいだ。
それでも、この作品を知っているのは、教科書かさもなければ学年誌で読んだのだろう。サキ (Saki) 的な、アンブローズ・ビアス (Ambrose Bierce) 的な、ぼく自身の好みから謂えば、積極的には読まない作品ではあるし、むしろ積極的に避けている様な作品でもある。
と、綴ってはいるが、本題は短編の方にはなくて俳句の方にある。
さきにあげたTogetherまとめで語られている議論が興味深いからだ。
この句に登場する「花」はどこにあるのか、と謂う議題から始まって、作者の視点のありどころ、そして、解釈におけるその位置までへも言及されているようだ。
俳句の技術論的な事は一切、解らないから、技術的な視点から立ち上がる解釈に関しては、ぼく自身の理解の及ばないモノがある。
だけれども、そこでは如実に言及されていない、少なくともふたつの事がぼくには気がかりだ。
ひとつは「白き夜窓に」の読み。
これを"しろきよまどに"と読む方法と"しろきやそうに"と読む方法のふたとおりが存在しうる事、と同時に、その読みの違いによって、句の切れ目や解釈が大幅に左右される可能性がある事なのだ。
ここでの議論での発言者は、いずれの読みによって、解釈しているのだろうか。
もうひとつは、俳句を語る事、その作品を語る事は、俳句のなかの言語で語り得るのだろうか、もしくは、語るべきなのだろうか、と謂う疑問。
勿論、そのなかだけで流通している言語で語る事は出来るのではあろうが、そうすべき事なのだろうか、そうあらざるを得べきでない事なのだろうか。
一方で、議論の行方の散漫さや曖昧さを併発する可能性もあるのではあるが、と、同時に、作品の解釈や理解の自由度を妨げる事にもなり得るだろう。
ちなみに、どの解釈がどうこう、だれの発言がどうこう、と謂う事ではない。
作者の作風を知らなければ語る事の出来ない解釈もあり得るだろうし、俳句の潮流も知らなければ語る事の出来ない解釈もあるだろう、と謂う事はここでの議論を読めば、薄々、感づかされる事ではあるが、だからと謂って、必ずしも、そうではない事が排除されている訳ではない。
俳句ではあっても、他のジャンルの文法で解釈する事も、自由なのだ。
それは、直接的な治療行為以外の方法が、病人の治癒にとって最も必要なモノかもしれない、と謂う様にも読めてしまうあの短編小説の様なモノなのかもしれない。
最後に、ぼく自身の、『花そこに白き夜窓に夜の看護』の解釈を書いておく。
俳句や、中村汀女 (Nakamura Teijo) 自身や、彼女の作風を知るヒトにとっては受け入れ難いモノかもしれない。
つまりは単なる印象論だ。
作者の眼の前に実際にあるのは、一体、なんなのだろうか。そして、今、はいつなのだろうか。
なんだか、今が「夜」である事も、花がそこにある事も、眼前に病室がある事も、一切、保証していない様な気がするのだ。
それは「白き夜窓に」と謂う幻想的な修辞が登場するからであって、それが結果的に、ぼくには、この句自体が、回想シーンの様にも、幻想シーンの様にも、読めてしまうのだ。
例えば、こんな光景だ。
日中、ある建物の窓のひとつから白い花が置かれているのが観える。そこから、昨夜の看護の情景が、自ずと推し量られるのだ、と謂う様な。
だから、その窓からは看護されるべき人物の姿は観得ず、もしかしたら、その部屋は無人かもしれない。
そして、そんな解釈は、作者が部屋の中にはいっていたとしても、成立する。
花だけがそこにある。昨夜の白い夜を偲ばせるのだ。
これで、ぼくがオー・ヘンリー (O. Henry) ではなくて、サキ (Saki) やアンブローズ・ビアス (Ambrose Bierce) が好きな事も理解してもらえるかもしれない。
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