2014.09.23.04.05
安部公房 (Kobo Abe) の関連記事は、彼の小説『砂の女
(The Woman In The Dunes
)』 [1962年刊行] を取り上げたこの記事に次いで2度目。
だけれども、おおきな違いがふたつある。
ひとつはその記事を書いている際は未見であった、その小説の映画化作品『砂の女
(The Woman In The Dunes)』 [監督:勅使河原宏 (Hiroshi Teshigahara) 脚本:安部公房 (Kobo Abe) 1964年制作] をこの間に体験した事だ。
そして、もうひとつはその続編とも謂うべき映画『他人の顔
(The Face Of Another)』 [監督:勅使河原宏 (Hiroshi Teshigahara) 脚本:安部公房 (Kobo Abe) 1966年制作] もそれに前後して体験したのでもあるけれども、その原作である安部公房 (Kobo Abe) の小説『他人の顔
(The Face Of Another
)』 [1964年刊行] は未読であると謂う事なのだ。
だから、基本的には映画『他人の顔
(The Face Of Another)』 [監督:勅使河原宏 (Hiroshi Teshigahara) 脚本:安部公房 (Kobo Abe) 1966年制作] について綴る事にもなるのだけれども、論旨の行方如何によっては原作者自身の事やそこから派生するいくつもの事にも触れる事にも成りかねない。
そうすると、何食わぬ顔で現時点でのぼくのなかにあるモノをそのまま汲み出していくと、幾つかの事が、これまで綴ってきた事と齟齬をきたしかねない。
いや、別にぼくと謂う個人の中の内心の揺らぎがどう表白しようと構わないモノだけれども、それを語る際に、未見である筈の映画の内容が、大手を振って登場してたら、読んでいるモノはあまり愉しいモノでもないだろう。
だから、これから先に綴る文章の中で、その映画作品がどの様な役割を演じるのかは解らないけれども、映画『砂の女
(The Woman In The Dunes)』 [監督:勅使河原宏 (Hiroshi Teshigahara) 脚本:安部公房 (Kobo Abe) 1964年制作] は観たよ、と一言断りを入れておいた方が良かろうと、思った次第なのだ。
小説『他人の顔
(The Face Of Another
)』 [1964年刊行] が未読のなのは、少なくともぼく個人にとっては、それなりの理由、読む事を躊躇わせる理由がある。
その理由の主たるモノは、既にこの記事に綴った様な気もする。
でも、それは幾つもある安部公房 (Kobo Abe) 作品を躊躇する理由でしかないし、さらに謂えば、一般論として、一般的な読者達がある種の書物を敬遠する理由でしかない。
と、謂う事は逆説的に、その小説を忌避したくなる理由がぼくの中にある、と謂う事なのだ。
ある人物が、故意もしくは事故によって、顔を喪い、その代わりとなる新たな顔、即ち、その人物にとっての仮面を得る。
以上を、その小説の動機 (Motivation) とするとしたら、あまりにも同趣向の物語が多すぎるのだ。
例えば、映画『顔のない眼
(Les Yeux sans visage)』 [ジョルジュ・フランジュ (Georges Franju) 監督作品 1959年制作] という作品もある。
また、小説『他人の顔
(The Face Of Another
)』 [1964年刊行] での、顔を喪った男を主人公とするのではなく、その妻を主人公とした物語を想定すれば、ほら、小説『犬神家の一族
(The Inugami Clan
)』 [作:横溝正史 (Seishi Yokomizo) 1972年刊行] にいくつも錯綜して登場する物語のなかのそのひとつがそうではないか。
ただ、ぼくが主張したいのは、そんなあら探しにもにたエピゴーネン (Epigonen) やシミュラクラ (Simulacra) やメタファー (Metaphora) の指摘ではない。
そうではない。
その動機 (Motivation) を基に、一体、どこへ脚を踏み出そうとしているのだろうか、と謂う事なのだ。
サスペンス (Suspence) にもホラー (Horror) にもサイエンスフィクション (Science Fiction) にもなりえる動機 (Motivation) を手にしながら、何故、文学 (Literature) と謂うモノであろうとするのか、そもそも、そんな事は一体、可能なのだろうか。

だけれども、ぼく自身はその疑問をもって、その小説を未だに体験していない。
体験しないままに、さきにその派生作品であるところの映画『他人の顔
(The Face Of Another)』 [監督:勅使河原宏 (Hiroshi Teshigahara) 脚本:安部公房 (Kobo Abe) 1966年制作] を観たのだ。
映画化する際には、上に挙げたぼくの疑義は、立ち所により具体的なかたちを帯びて顕われて来る。しかも、殆どの場合それは、もっとより下世話なかたちで観えてしまうのだ。
恐らく、物語前半の主要な舞台である診察室が、空虚な実態のない存在の様な描写に徹しているのは、そんなモノが観えて来ない様にする為の手段ではないだろうか。
そして、そんな事に気づき始めた観客にさらに念を押す為に登場するのが、岸田今日子 (Kyoko Kishida) 演じる看護婦 (Nurse) である。彼女は前作である映画『砂の女
(The Woman In The Dunes)』 [監督:勅使河原宏 (Hiroshi Teshigahara) 脚本:安部公房 (Kobo Abe) 1964年制作] 同様、誘惑するモノとして顕われるのだ。
だから本来ならば、もうひとりの"他人の顔 (The Face Of Another)"をつけた男の物語として、倦怠期 (Rough Patch) を迎えた夫妻 [演:平幹二朗 (Mikijiro Hira) and 阿部百合子 (Yuriko Abe)] の、その一方である医者 (Psychiatrist ) [演:平幹二朗 (Mikijiro Hira)] を誘惑する看護婦 (Nurse) [演:岸田今日子 (Kyoko Kishida)] との確執が描かれ始めてもいい様な気もするのだけれども、何故だか、そちらの方向へは舵を切らない。もうひとりの"他人の顔 (The Face Of Another)"をつけた女、即ち、ケロイドの女 (Girl With Scar) [演:入江美樹 (Miki Irie)] の物語がインサートされるのである。
そして、ケロイドの女 (Girl With Scar) [演:入江美樹 (Miki Irie)] の物語の存在を無視すれば、主人公 [演:仲代達矢 (Tatsuya Nakadai)] とその妻 [演:京マチ子 (Machiko Kyo)] は、如何にもありきたりな物語でしかない。
もしも、それがありきたりな物語に押し留まらないとしたら、それを可能としたのは、男が"他人の顔 (The Face Of Another)"をしているからだろうか。それとも、ふたりそれぞれが誘惑すべき相手を間違えているからだろうか。
いいや、そうではない。
本来ならば、曖昧なままに始まって曖昧なままに行われ曖昧なままに終る男女の営みが、このふたりには何故か、確たるモノがそこにあるからなのだ。
確信犯 (Uberzeugungsverbrechen) になれるのは、この物語独自の設定によるモノなのだろうか。
もしも、いまにもつうじる物語であろうとするのならば、まったく異なるモノが語られなければならないと、ぼくには想えて仕方ない。
と、この作品の中の京マチ子 (Machiko Kyo) の顔を憶い出す度に迷うのだ。
次回は「お」。
附記 1. :
後にTVシリーズ『家政婦はみた (Your Housekeeper Watches)』 [原作:松本清張 (Seicho Matsumoto) 1983~2008年 テレビ朝日系列放映] で、目撃者であり続ける女、石崎秋子 (Akiko Ishizaki) を演じる事になる市原悦子 (Etsuko Ichihara) がここでも、主人公のある行為の目撃者、ヨーヨーの娘 (Yo-Yo Girl) を演じる様に、この物語の主人公を演じた仲代達矢 (Tatsuya Nakadai) は後に、黒澤明 (Akira Kurosawa) の映画『影武者
(Kagemusha)』[1980年制作] の主人公を演じる。彼はその映画の中で演じた、武田信玄 (Takeda Shingen) に成り代わる影武者 (Kagemusha) を演じただけではない。当初、この映画の主役に選ばれながら降板した勝新太郎 (Shintaro Katsu) の影武者 (Kagemusha) でも彼はあるのだ。
他の映画作品ではいざ知らず、黒澤明 (Akira Kurosawa) 作品の中での彼ならば、少なくとも主役降板等と謂う不測の事態でもない限りは、映画『影武者
(Kagemusha)』[1980年制作] の中での様なキャスティングは、あり得なかった筈の、仲代達矢 (Tatsuya Nakadai) へのキャスティングなのである。
附記 2. :
そして、ケロイドの女 (Girl With Scar) [演:入江美樹 (Miki Irie)] の半分の顔と、一瞬だけ映るビヤホールのウェイトレス (Singer In Bar) [演:前田美波里 (Bibari Maeda)]の真正面の顔に、くらくらと目眩んだのは、事実です。
主人公である男を演じた仲代達矢 (Tatsuya Nakadai) の素顔が物語の前半、ぐるぐる巻の包帯である事をいい事に、ぼくはこの映画で、女の顔ばかりを観ていたのだろう。
だけれども、おおきな違いがふたつある。
ひとつはその記事を書いている際は未見であった、その小説の映画化作品『砂の女
そして、もうひとつはその続編とも謂うべき映画『他人の顔
だから、基本的には映画『他人の顔
そうすると、何食わぬ顔で現時点でのぼくのなかにあるモノをそのまま汲み出していくと、幾つかの事が、これまで綴ってきた事と齟齬をきたしかねない。
いや、別にぼくと謂う個人の中の内心の揺らぎがどう表白しようと構わないモノだけれども、それを語る際に、未見である筈の映画の内容が、大手を振って登場してたら、読んでいるモノはあまり愉しいモノでもないだろう。
だから、これから先に綴る文章の中で、その映画作品がどの様な役割を演じるのかは解らないけれども、映画『砂の女
小説『他人の顔
その理由の主たるモノは、既にこの記事に綴った様な気もする。
でも、それは幾つもある安部公房 (Kobo Abe) 作品を躊躇する理由でしかないし、さらに謂えば、一般論として、一般的な読者達がある種の書物を敬遠する理由でしかない。
と、謂う事は逆説的に、その小説を忌避したくなる理由がぼくの中にある、と謂う事なのだ。
ある人物が、故意もしくは事故によって、顔を喪い、その代わりとなる新たな顔、即ち、その人物にとっての仮面を得る。
以上を、その小説の動機 (Motivation) とするとしたら、あまりにも同趣向の物語が多すぎるのだ。
例えば、映画『顔のない眼
また、小説『他人の顔
ただ、ぼくが主張したいのは、そんなあら探しにもにたエピゴーネン (Epigonen) やシミュラクラ (Simulacra) やメタファー (Metaphora) の指摘ではない。
そうではない。
その動機 (Motivation) を基に、一体、どこへ脚を踏み出そうとしているのだろうか、と謂う事なのだ。
サスペンス (Suspence) にもホラー (Horror) にもサイエンスフィクション (Science Fiction) にもなりえる動機 (Motivation) を手にしながら、何故、文学 (Literature) と謂うモノであろうとするのか、そもそも、そんな事は一体、可能なのだろうか。

だけれども、ぼく自身はその疑問をもって、その小説を未だに体験していない。
体験しないままに、さきにその派生作品であるところの映画『他人の顔
映画化する際には、上に挙げたぼくの疑義は、立ち所により具体的なかたちを帯びて顕われて来る。しかも、殆どの場合それは、もっとより下世話なかたちで観えてしまうのだ。
恐らく、物語前半の主要な舞台である診察室が、空虚な実態のない存在の様な描写に徹しているのは、そんなモノが観えて来ない様にする為の手段ではないだろうか。
そして、そんな事に気づき始めた観客にさらに念を押す為に登場するのが、岸田今日子 (Kyoko Kishida) 演じる看護婦 (Nurse) である。彼女は前作である映画『砂の女
だから本来ならば、もうひとりの"他人の顔 (The Face Of Another)"をつけた男の物語として、倦怠期 (Rough Patch) を迎えた夫妻 [演:平幹二朗 (Mikijiro Hira) and 阿部百合子 (Yuriko Abe)] の、その一方である医者 (Psychiatrist ) [演:平幹二朗 (Mikijiro Hira)] を誘惑する看護婦 (Nurse) [演:岸田今日子 (Kyoko Kishida)] との確執が描かれ始めてもいい様な気もするのだけれども、何故だか、そちらの方向へは舵を切らない。もうひとりの"他人の顔 (The Face Of Another)"をつけた女、即ち、ケロイドの女 (Girl With Scar) [演:入江美樹 (Miki Irie)] の物語がインサートされるのである。
そして、ケロイドの女 (Girl With Scar) [演:入江美樹 (Miki Irie)] の物語の存在を無視すれば、主人公 [演:仲代達矢 (Tatsuya Nakadai)] とその妻 [演:京マチ子 (Machiko Kyo)] は、如何にもありきたりな物語でしかない。
もしも、それがありきたりな物語に押し留まらないとしたら、それを可能としたのは、男が"他人の顔 (The Face Of Another)"をしているからだろうか。それとも、ふたりそれぞれが誘惑すべき相手を間違えているからだろうか。
いいや、そうではない。
本来ならば、曖昧なままに始まって曖昧なままに行われ曖昧なままに終る男女の営みが、このふたりには何故か、確たるモノがそこにあるからなのだ。
確信犯 (Uberzeugungsverbrechen) になれるのは、この物語独自の設定によるモノなのだろうか。
もしも、いまにもつうじる物語であろうとするのならば、まったく異なるモノが語られなければならないと、ぼくには想えて仕方ない。
と、この作品の中の京マチ子 (Machiko Kyo) の顔を憶い出す度に迷うのだ。
次回は「お」。
附記 1. :
後にTVシリーズ『家政婦はみた (Your Housekeeper Watches)』 [原作:松本清張 (Seicho Matsumoto) 1983~2008年 テレビ朝日系列放映] で、目撃者であり続ける女、石崎秋子 (Akiko Ishizaki) を演じる事になる市原悦子 (Etsuko Ichihara) がここでも、主人公のある行為の目撃者、ヨーヨーの娘 (Yo-Yo Girl) を演じる様に、この物語の主人公を演じた仲代達矢 (Tatsuya Nakadai) は後に、黒澤明 (Akira Kurosawa) の映画『影武者
他の映画作品ではいざ知らず、黒澤明 (Akira Kurosawa) 作品の中での彼ならば、少なくとも主役降板等と謂う不測の事態でもない限りは、映画『影武者
附記 2. :
そして、ケロイドの女 (Girl With Scar) [演:入江美樹 (Miki Irie)] の半分の顔と、一瞬だけ映るビヤホールのウェイトレス (Singer In Bar) [演:前田美波里 (Bibari Maeda)]の真正面の顔に、くらくらと目眩んだのは、事実です。
主人公である男を演じた仲代達矢 (Tatsuya Nakadai) の素顔が物語の前半、ぐるぐる巻の包帯である事をいい事に、ぼくはこの映画で、女の顔ばかりを観ていたのだろう。
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