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2014.09.16.03.52

つくばねのうた

その歌は、あのねのね (Anonenone) が絶大な人気を誇っていた頃に出版された大ベストセラー『あのねのね : 今だから愛される本 (Anonenone : Why And How We Love Them)』 [1974年刊行] に、他のいくつものあのねのね (Anonenone) の代表曲と共に掲載されていた。
この本と、当時彼らがレギュラー出演していた『あのねのねのオールナイトニッポン (Anonenone Presents All Night NIppon)』 [19731976 ニッポン放送制作] をほぼそのまんま音盤化したエルピー・レコード (LP : Long Play Record) 『あのねのね いつまでもあると思うな人気と仕事 (Anonenone : Don' t Beliebe We Can Work For And We Are Popular At Show Biz Eternity)』 [1974年発表] は、当時小学校6年生 (Primary School Sixth Grader) だったぼくの、ギャグ・ネタのひとつであった。

あのねのね (Anonenone) のメジャー・デヴュー曲である『赤とんぼの唄 (A Song For A Red Dragonfly)』 [1973年発表] とそのB面曲『魚屋のオッサンの唄 (A Song For A Fishmonger)』 [1973年発表] やそれに続く『空飛ぶ円盤の唄 (Flying Saucers Come)』 [1974年発表] は、どこでどうやって憶えたのか、ぼく達 小学校6年生 (Primary School Sixth Grader) でもそらでも唄えた。それ程、ヒットしていたとも謂えるし、それ程、馬鹿馬鹿しい唄でもあるとも謂える [とは謂うモノの前者に関しては既にこんな記事をぼくは書いてしまっている]。
何故ならば、彼らのその曲を唄う姿を殆ど観た覚えはないからだ。ブラウン管 (CRT : Cathode Ray Tube) や雑誌に映る彼らの姿の殆どは、他のテレビタレントやお笑い芸人達と一緒の時なのだ。

それと同様に、先に紹介したベストセラーも、殆どが馬鹿馬鹿しい限りの事を尽くしていたと謂う記憶がある [とは謂うモノの繰返しにはなるけれども、既にこんな記事をぼくは書いてしまっている] 上に、先に紹介したエルピー・レコード (LP : Long Play Record) も、ただただ番組内でのふたりの雑談を記録したモノで、申し訳程度に、彼らの代表曲が織り込まれているモノだ。

ただひとつ、その本やエルピー・レコード (LP : Long Play Record) で伺うモノが他で触れる彼らの笑いと違う事があるとしたら、TVや雑誌等では、触れたくても触れられない、否、触れているのかもしれないけれども決して小学校6年生 (Primary School Sixth Grader) がそれに触れる事には困難な状況を態々作った上で触れている場合ばかりなのだ。
持って廻った表現を思わずしてしまったが、一言で謂えばそれは性、性表現、性の笑い、つまり、下ネタ (Dirty Joke) なのである。

下ネタ (Dirty Joke) を笑いに転嫁していたのは、なにも、あのねのね (Anonenone) だけの事ではない。
当時で謂えば、ザ・ドリフターズ (The Drifters) の『8時だョ! 全員集合 (Hachiji Dayo Zenin Shugo : It's Eight O'Clock! Let's Get Together!)』 [19691985 TBS系列放映] の殆どは、そればかりである。土曜夜8時台 (Saturday Night At 8 O'clock) と謂う放映時間帯を考えれば、大胆な所作にも想えるが、冷静に考えれば、彼らの下ネタ (Dirty Joke) の殆どは、V感覚 (V Sense) [(C) 1954 稲垣足穂 (Taruho Inagaki)] の方ではなくて、A感覚 (A Sense) [(C) 1954 稲垣足穂 (Taruho Inagaki)] の方である。
V感覚 (V Sense) [(C) 1954 稲垣足穂 (Taruho Inagaki)] に訴えるべき下ネタ (Dirty Joke)、例えば『タブー (Taboo)』 [こちらを参照の事] も、A感覚 (A Sense) [(C) 1954 稲垣足穂 (Taruho Inagaki)] の発展系の様な気がする。つまり、何をここでは謂いたいのかと謂うと、当時、ピー・ティー・エー (PTA : Parent-Teacher Association) に批判を浴びた、"ぼく達の"スカートめくり (Lifting Skirts) やお医者さんごっこ (Playing Doctor) は、V感覚 (V Sense) [(C) 1954 稲垣足穂 (Taruho Inagaki)] への欲求と謂うよりもA感覚 (A Sense) [(C) 1954 稲垣足穂 (Taruho Inagaki)] の顕現と看做すべきなんぢゃあないか、と謂う様な主張なのだ [この辺りは大分、根深い問題なので、別のところで改めて考えよう]。

と、謂う様な当時のお笑いの風潮を考えれば、あのねのね (Anonenone) は、純粋な意味での下ネタ (Dirty Joke) 、性を笑いに据えた作品ばかりを発表していた様に想える。
だから、第二次成徴期 (Secondary Sex Characteristic) のまっさかりであるところの小学校6年生 (Primary School Sixth Grader) であるところのぼく達にとってはそれは未知の笑いでもあるし、新鮮な笑いでもあった。

と、書いたけれども、どこまで当時のぼくがそれを意識していたのかはよく解らない。笑うべきツボもあるのかないのか解らない最中にあって、知識や体験とは無関係な、溢れることばの勢いや強さに惑わされていた様な気がする。
これが彼らの後に登場して『笑福亭鶴光のオールナイトニッポン (Shofukutei Tsuruko II Presents All Night NIppon)』 [19741985 ニッポン放送制作] で席巻する笑福亭鶴光 (Shofukutei Tsuruko II) だと、明らかに違っている、自分達自身では処理しきれないありとあらゆるモノを彼の提供する笑いで、自覚的に発散 (Divergence) / 昇華 (Sublimation) していた筈なのだから。
ただ、単純に、どこが面白いんだか解らないのだけれども、あのねのね (Anonenone) の2人、清水國明 (Kuniaki Shimizu) と原田伸郎 (Noburo Harada) の喋りを模倣していたのだから、多分、クラスの中では人気者だったぼくは、彼らの周りの大人達には顰蹙を買ってばかりだったんだろうなぁと、今頃になって、赤面してしまったりする。

そんな彼らのそんなベストセラー本の中にその歌『つくばねの唄 (Song At Tsukubane)』 (1975年発表) の歌詞 [歌詞全文はこちら] が掲載されていた。
基本的に、そんな文字の羅列だけを読んだとしてもこの歌は面白くもなんともない。
一夜の宿を所望するおとことそのおとこに懇願されて困惑している宿の主であるおんなのやりとりが綴られているだけだ。しかも、そのふたりのやりとりの最初の部分だけを読めば、オチはなんとなく推測がついてしまう。
おんなのエゲツナさと狡さと欲深さと、 … [以下、いつまでも続きそうなので略] を笑う歌なのである。

尤も、実際にその曲をライブ音源で聴けば[ここで聴ける]、この歌の面白さは別のところにある事が解る。
公衆の面前では発話してはいけない言葉を如何に発話しないで、しかも、誰にも解る様に伝えなければならない事や、既に誰でも知っている物語 [この歌の殆どは落語 (Rakugo) の『欣弥め (Kinyame : Kinya, Yes I do)』に拠っている] を如何にさも初めて語る物語であるかの様に語らなければならない所作や、そして、既に馴染の聴衆にとっては、如何にそれを先回りして笑いを奪うのか、そんな駆け引きだらけの歌なのだ。謂わば、聴衆と歌手の間に暗黙の了解 (Unspoken Agreement) があって初めて成立する様な歌なのである。

そして、勿論、この歌の主眼は、物語上のふたりの話者であるおとことおんなに、暗黙の了解 (Unspoken Agreement) が既に成立している事にある。

ところで、この歌、歌詞冒頭に「つくばねの 峰から峰への 渡り鳥 (At Tsukuba Mountains / Along The Ridges / Like A Bird Of Passage)」 [歌詞全文はこちら] と登場しているから『つくばねの唄 (Song At Tsukubane)』 (1975年発表) としているのだろうけれども、そもそも「つくばね (Tsukubane)」とは一体なんなのか。

後年、『小倉百人一首 (100 Poems By 100 Poets)』 [撰:藤原定家 (Fujiwara no Teika) 13世紀前半に成立] のひとつでもある『筑波嶺の 峰より落つる 男女川 恋ぞつもりて 淵となりぬる (From Tsukuba's peak / Falling waters have become / Mina's still, full flow : / So my love has grown to be / Like the river's quiet deeps. )』 [作:陽成院 (Emperor Yozei)] を学んだ折りにその歌はよりによって、あのねのね (Anonenone) の『つくばねの唄 (Song At Tsukubane)』 (1975年発表) のイメージに引き摺られて、極めて、下卑た、卑猥な歌の様に響いて聴こえてしまったのである。

images
勿論、「つくばね」は筑波嶺、つまり筑波山 (Mount Tsukuba) であって、モノによれば恋に掛かる枕詞 (Makurakotoba : Pillow Words) とされている言葉だ。
筑波嶺、つまり筑波山 (Mount Tsukuba) は、西側に聳る男体山 (Nantai-san) と東側に臥せる女体山 (Nyotai-san) で構成されている上に、陽成院 (Emperor Yozei) の歌にもある様に男女川 (Minano River) が流れている。つまり、それらの類推から枕詞 (Makurakotoba : Pillow Words) としての「つくばね」が産まれたのだろう。
[上記掲載画像は、鈴木春信 (Suzuki Harunobu) の『百人一首 陽成院 (Yozei no In)』。]

だけれども、「つくばね」を語順を並べ替えると「ねばつく」となって、その語感がそのままふたりの男女のやりとりである『つくばねの唄 (Song At Tsukubane)』 (1975年発表) を主導している様にも響く。

もしかしたら、文字通りのまくらことば (Pillow Talk)、と謂うべきモノなのかもしれない。

ああ、でもこの歌ははじめる前の歌か [まくらことば (Pillow Talk) は、おわったあとにするものよ]。

仮令、前提としてふたりの間に暗黙の了解 (Unspoken Agreement) があったとしても、態々、ことのあとさきには発話して意思表示する必要があるんだよなぁ。

次回は「」。

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