2014.08.12.04.43
"三丁目の夕日的 (Like Sunset On Third Street)"と謂う形容句を時折、みかける。"三丁目の夕日症候群 (Sunset On Third Street Syndrome)"なる言葉もある。
ある特定の時代を指す言葉であろうし、その時代から感じられるある雰囲気を指す言葉であろうし、そして同時に、その時代に寄せる眼差しをも指す言葉である。
勿論、この言葉の出典は、マンガ『三丁目の夕日
(Sunset On Third Street)』 [作:西岸良平 (Ryohei Saigan) 1974年~ ビッグコミックオリジナル連載] であろうし、その作品を原作とするみっつの映画作品 [『ALWAYS 三丁目の夕日 (Always - Sunset On Third Street)』 [2005年制作]、『ALWAYS 続・三丁目の夕日 (Always - Sunset On Third Street 2)』[2007年制作]、『ALWAYS 三丁目の夕日 '64 (Always - Sunset On Third Street 1964)』 [2012年制作] いずれも山崎貴 (Takashi Yamazaki) 監督作品] なのだろう。
そして、この創作物とそこからの派生作品群が、上に記した様な、形容句としての機能を托されたのは、安倍晋三 (Shinzo Abe) が自著『美しい国へ
(Beautiful Country)』 [2006年刊行] で、『映画『三丁目の夕日』が描いたもの』として記述してから以来の事らしい。
その真偽を問う事は、この拙稿では目論んではいない。
そうではなくて、本来ならば上掲の形容句が担うべき役割を引き受けるのに、それ以上に相応しい作品があったのではないのだろうか。そして、何故、その作品が"三丁目の夕日的 (Like Sunset On Third Street)"と謂う様な形容句に祀ろわれる事を忌避出来たのだろうか。
そんな事を考えてみたいのである。
謂うまでもなく、その作品とはアニメ番組『サザエさん (Sazae-san)』 [原作:長谷川町子 (Machiko Hasegawa) 1969年~ フジテレビ系列放送] の事だ。この番組こそ、上掲の形容句が担う役割を引き受けるのに、最も相応しい創作物である様に想えるのだが、如何だろうか。
だが、それと同時に、アニメ番組『サザエさん (Sazae-san)』 [原作:長谷川町子 (Machiko Hasegawa) 1969年~ フジテレビ系列放送] は巧妙に、そんな形容句が充てがわれる事を回避している様にも想える。
それは、アニメ番組『サザエさん (Sazae-san)』 [原作:長谷川町子 (Machiko Hasegawa) 1969年~ フジテレビ系列放送] と謂う物語の、時代設定 / 舞台設定が極めてあやふやだから、なのだ。
少なくとも、2014年の日本 (Japan) と謂ういま、を描いた作品でない事はすぐに解る。あり得べきテクノロジーの幾つかがそこにはないからだ。日常、見渡せば否が応でも眼にせざるを得ない、通信機器、情報端末、電気製品が一切、登場しないのだ。
だからと謂って、ある特定の時代の日本 (Japan)、を舞台にしたモノとも謂えない。例えば、番組改編期に逢わせて放送されるスペシャル枠に、本人役でゲスト出演する面々を観てみればいい。直近の27時間TV『武器はテレビ。SMAP×FNS 27時間テレビ (Television Is Our Arms Smap vs FNS 27 Hours TV Show)』ではスマップ (Smap) の5人がそれぞれ本人役でゲスト出演した。つまり、彼らの存在だけに注目すると、アニメ番組『サザエさん (Sazae-san)』 [原作:長谷川町子 (Machiko Hasegawa) 1969年〜 フジテレビ系列放送] は現代の日本 (Japan) が舞台の物語なのである。
ここで、アニメ番組 (TV Animation) だから、その手の曖昧な物語設定は、ありがちなモノでしょう、と謂う様な、許容をみせる感慨も可能かもしれない。
でも、アニメ番組『サザエさん (Sazae-san)』 [原作:長谷川町子 (Machiko Hasegawa) 1969年〜 フジテレビ系列放送] の、同じ放送局の、前の放送時間枠のアニメ番組 (TV Animation) を観れば、そんな許容はそう簡単には受け入れられないと解る筈だ。
アニメ番組『ちびまる子ちゃん (Chibi Maruko-chan)』 [原作:さくらももこ (Momoko Sakura) 1995年〜 フジテレビ系列放送] の物語は、時代と舞台設定は昭和50年代 [1975~1984年] の、今はもう既に存在しない清水市 (Shimizu City) である。一時は現代の物語へと改変された時季もあった様だが、それは現在では元のモノへと戻されている。
ゲスト声優も本人役で登場するのは、当時既に人気のあった俳優や歌手やコメディアンやスポーツ選手であって、現在活躍中のモノであっても当時は無名であったり出生前であったりすれば本人役は充てがわれない。
つまり、当たり前の事が当たり前に出来ているのである。
ここで謂う当たり前の事とは、時代考証と謂い換えてもいいのかもしれない。
では、何故、アニメ番組『サザエさん (Sazae-san)』 [原作:長谷川町子 (Machiko Hasegawa) 1969年~ フジテレビ系列放送] は、その当たり前の事が当たり前に出来ていないのか。もしくは、当たり前の事を当たり前にしないのか。時代考証と謂う作業を蔑ろにしている、もしくは出来るのだろうか。
その答えのひとつとして今のぼくが用意出来るモノは、番組提供枠つまり、スポンサーの問題がかつてあった、と謂う事だ。
1969年の放送開始から1998年までは、この番組枠は東芝 (Toshiba) の一社提供だった。
その結果、この30年弱のこの時代、なにがあったかと謂うと、物語の時代設定や舞台設定にはなんら変更がない代わりに、磯野家 (The Isons) の家電機器は常に最新のモノが常備されていたのだ。
第二次大戦後 (After World War II) の昭和のある時代にぴたりと時間軸が停まってしまった様な、佇まいをみせる光景のなかでただひとつ、家電機器だけは進化と深化を遂げているのである。

番組エンディングの次回予告のコーナーで、フグ田サザエ (Sazae Fuguta) がリモコン (Re-mote Controller) をテレビ(TV Set) に向けるしぐさをするのは、その名残だ。
だから、もしも仮に、未だに東芝 (Toshiba) 一社提供という枠組みが遺されていたとしたら、御用聴きを口実に油を売っている三河屋のサブちゃんこと三郎 (Sabu From Mikawaya's aka Saburo) のポケットの携帯が鳴り出したり、泥酔している [と謂う設定の] 穴子 (Anago) の身代りにフグ田マスオ (Masuo Fuguta) が彼の細君にお詫びのメールを打ったりしているかもしれないのだ。
だが、実際にはそんなモノは番組内 / 作品内には登場しない。
一社提供が潰えてしまったが故に、番組内 / 作品内でスポンサーの顔色を伺う必要性はなくなった。
だからと謂って、本来ならば、アニメ番組『サザエさん (Sazae-san)』 [原作:長谷川町子 (Machiko Hasegawa) 1969年〜 フジテレビ系列放送] と謂う物語が一際映える様な時代設定 / 舞台設定に改変すべきところを、この番組は敢えてそれをしない。
消えたのは最新の家電機器だけであって、番組内 / 作品内に漂う、あやふやな時代はそのまま存続する。
むしろ、そんな時代設定 / 舞台設定を、積極的に肯定したところで物語を創ろうとしている。つまり、最新の家電製品が登場しなくても、現代の日本の物語である様なアトモスフィアを常に湛えている様な、そんな作劇術を、採用しているのである。
その結果、少なくとも永遠に「かもめ第三小学校5年3組」に磯野カツヲ (Katsuwo Isono) が在籍し続ける事は容易くなったとは想うのだけれども、果たして、その狙いと効果はそれだけなのだろうか。
他の長寿アニメ番組、例えば『ドラえもん (Doraemon)』 [原作:藤子・F・不二雄(Fujiko・F・Fujio) 1979年~ テレビ朝日系列] や『クレヨンしんちゃん (Crayon Shin-chan)』 [原作:臼井儀人 (Yoshito Usui) 1992年~ テレビ朝日系列] と比較してどうなのか。
はたまた、当初は実写版磯野カツヲ (Katsuwo Isono) の様な役回りを想定していた筈なのに番組の長寿化によって、図らずもフランソワ・トリュフォー (Francois Truffaut) 監督の一連のシリーズ『アントワーヌ・ドワネル (Antoine Doinel)』で主役アントワーヌ・ドワネル (Antoine Doinel) [演:ジャン=ピエール・レオ (Jean-Pierre Leaud)] の様な立場を与えられてしまった小島眞 (Shin Kojima) [演:えなりかずき (Kazuki Enari)] が登場する実写ドラマ『橋田壽賀子ドラマ 渡る世間は鬼ばかり (Sugako Hashida Drama Wataru Seken Wa Oni Bakari )』[1990~2013年 TBS系列放送] と比較してどうなのか。
現代を舞台にした虚構作品における、その時代設定と舞台設定、そしてそれを巡る時代考証と謂う問題は、とっても大きいと想うのだが、ぼくの中には答えはまだない。
ちなみにアニメ番組『サザエさん (Sazae-san)』 [原作:長谷川町子 (Machiko Hasegawa) 1969年~ フジテレビ系列放送] にも、"サザエさん症候群 (Blue Monday)"なる言葉は存在するが、それは拙稿冒頭に登場した"三丁目の夕日症候群 (Sunset On Third Street Syndrome)"とは似て非なるモノである。
次回は「き」。
ある特定の時代を指す言葉であろうし、その時代から感じられるある雰囲気を指す言葉であろうし、そして同時に、その時代に寄せる眼差しをも指す言葉である。
勿論、この言葉の出典は、マンガ『三丁目の夕日
そして、この創作物とそこからの派生作品群が、上に記した様な、形容句としての機能を托されたのは、安倍晋三 (Shinzo Abe) が自著『美しい国へ
その真偽を問う事は、この拙稿では目論んではいない。
そうではなくて、本来ならば上掲の形容句が担うべき役割を引き受けるのに、それ以上に相応しい作品があったのではないのだろうか。そして、何故、その作品が"三丁目の夕日的 (Like Sunset On Third Street)"と謂う様な形容句に祀ろわれる事を忌避出来たのだろうか。
そんな事を考えてみたいのである。
謂うまでもなく、その作品とはアニメ番組『サザエさん (Sazae-san)』 [原作:長谷川町子 (Machiko Hasegawa) 1969年~ フジテレビ系列放送] の事だ。この番組こそ、上掲の形容句が担う役割を引き受けるのに、最も相応しい創作物である様に想えるのだが、如何だろうか。
だが、それと同時に、アニメ番組『サザエさん (Sazae-san)』 [原作:長谷川町子 (Machiko Hasegawa) 1969年~ フジテレビ系列放送] は巧妙に、そんな形容句が充てがわれる事を回避している様にも想える。
それは、アニメ番組『サザエさん (Sazae-san)』 [原作:長谷川町子 (Machiko Hasegawa) 1969年~ フジテレビ系列放送] と謂う物語の、時代設定 / 舞台設定が極めてあやふやだから、なのだ。
少なくとも、2014年の日本 (Japan) と謂ういま、を描いた作品でない事はすぐに解る。あり得べきテクノロジーの幾つかがそこにはないからだ。日常、見渡せば否が応でも眼にせざるを得ない、通信機器、情報端末、電気製品が一切、登場しないのだ。
だからと謂って、ある特定の時代の日本 (Japan)、を舞台にしたモノとも謂えない。例えば、番組改編期に逢わせて放送されるスペシャル枠に、本人役でゲスト出演する面々を観てみればいい。直近の27時間TV『武器はテレビ。SMAP×FNS 27時間テレビ (Television Is Our Arms Smap vs FNS 27 Hours TV Show)』ではスマップ (Smap) の5人がそれぞれ本人役でゲスト出演した。つまり、彼らの存在だけに注目すると、アニメ番組『サザエさん (Sazae-san)』 [原作:長谷川町子 (Machiko Hasegawa) 1969年〜 フジテレビ系列放送] は現代の日本 (Japan) が舞台の物語なのである。
ここで、アニメ番組 (TV Animation) だから、その手の曖昧な物語設定は、ありがちなモノでしょう、と謂う様な、許容をみせる感慨も可能かもしれない。
でも、アニメ番組『サザエさん (Sazae-san)』 [原作:長谷川町子 (Machiko Hasegawa) 1969年〜 フジテレビ系列放送] の、同じ放送局の、前の放送時間枠のアニメ番組 (TV Animation) を観れば、そんな許容はそう簡単には受け入れられないと解る筈だ。
アニメ番組『ちびまる子ちゃん (Chibi Maruko-chan)』 [原作:さくらももこ (Momoko Sakura) 1995年〜 フジテレビ系列放送] の物語は、時代と舞台設定は昭和50年代 [1975~1984年] の、今はもう既に存在しない清水市 (Shimizu City) である。一時は現代の物語へと改変された時季もあった様だが、それは現在では元のモノへと戻されている。
ゲスト声優も本人役で登場するのは、当時既に人気のあった俳優や歌手やコメディアンやスポーツ選手であって、現在活躍中のモノであっても当時は無名であったり出生前であったりすれば本人役は充てがわれない。
つまり、当たり前の事が当たり前に出来ているのである。
ここで謂う当たり前の事とは、時代考証と謂い換えてもいいのかもしれない。
では、何故、アニメ番組『サザエさん (Sazae-san)』 [原作:長谷川町子 (Machiko Hasegawa) 1969年~ フジテレビ系列放送] は、その当たり前の事が当たり前に出来ていないのか。もしくは、当たり前の事を当たり前にしないのか。時代考証と謂う作業を蔑ろにしている、もしくは出来るのだろうか。
その答えのひとつとして今のぼくが用意出来るモノは、番組提供枠つまり、スポンサーの問題がかつてあった、と謂う事だ。
1969年の放送開始から1998年までは、この番組枠は東芝 (Toshiba) の一社提供だった。
その結果、この30年弱のこの時代、なにがあったかと謂うと、物語の時代設定や舞台設定にはなんら変更がない代わりに、磯野家 (The Isons) の家電機器は常に最新のモノが常備されていたのだ。
第二次大戦後 (After World War II) の昭和のある時代にぴたりと時間軸が停まってしまった様な、佇まいをみせる光景のなかでただひとつ、家電機器だけは進化と深化を遂げているのである。

番組エンディングの次回予告のコーナーで、フグ田サザエ (Sazae Fuguta) がリモコン (Re-mote Controller) をテレビ(TV Set) に向けるしぐさをするのは、その名残だ。
だから、もしも仮に、未だに東芝 (Toshiba) 一社提供という枠組みが遺されていたとしたら、御用聴きを口実に油を売っている三河屋のサブちゃんこと三郎 (Sabu From Mikawaya's aka Saburo) のポケットの携帯が鳴り出したり、泥酔している [と謂う設定の] 穴子 (Anago) の身代りにフグ田マスオ (Masuo Fuguta) が彼の細君にお詫びのメールを打ったりしているかもしれないのだ。
だが、実際にはそんなモノは番組内 / 作品内には登場しない。
一社提供が潰えてしまったが故に、番組内 / 作品内でスポンサーの顔色を伺う必要性はなくなった。
だからと謂って、本来ならば、アニメ番組『サザエさん (Sazae-san)』 [原作:長谷川町子 (Machiko Hasegawa) 1969年〜 フジテレビ系列放送] と謂う物語が一際映える様な時代設定 / 舞台設定に改変すべきところを、この番組は敢えてそれをしない。
消えたのは最新の家電機器だけであって、番組内 / 作品内に漂う、あやふやな時代はそのまま存続する。
むしろ、そんな時代設定 / 舞台設定を、積極的に肯定したところで物語を創ろうとしている。つまり、最新の家電製品が登場しなくても、現代の日本の物語である様なアトモスフィアを常に湛えている様な、そんな作劇術を、採用しているのである。
その結果、少なくとも永遠に「かもめ第三小学校5年3組」に磯野カツヲ (Katsuwo Isono) が在籍し続ける事は容易くなったとは想うのだけれども、果たして、その狙いと効果はそれだけなのだろうか。
他の長寿アニメ番組、例えば『ドラえもん (Doraemon)』 [原作:藤子・F・不二雄(Fujiko・F・Fujio) 1979年~ テレビ朝日系列] や『クレヨンしんちゃん (Crayon Shin-chan)』 [原作:臼井儀人 (Yoshito Usui) 1992年~ テレビ朝日系列] と比較してどうなのか。
はたまた、当初は実写版磯野カツヲ (Katsuwo Isono) の様な役回りを想定していた筈なのに番組の長寿化によって、図らずもフランソワ・トリュフォー (Francois Truffaut) 監督の一連のシリーズ『アントワーヌ・ドワネル (Antoine Doinel)』で主役アントワーヌ・ドワネル (Antoine Doinel) [演:ジャン=ピエール・レオ (Jean-Pierre Leaud)] の様な立場を与えられてしまった小島眞 (Shin Kojima) [演:えなりかずき (Kazuki Enari)] が登場する実写ドラマ『橋田壽賀子ドラマ 渡る世間は鬼ばかり (Sugako Hashida Drama Wataru Seken Wa Oni Bakari )』[1990~2013年 TBS系列放送] と比較してどうなのか。
現代を舞台にした虚構作品における、その時代設定と舞台設定、そしてそれを巡る時代考証と謂う問題は、とっても大きいと想うのだが、ぼくの中には答えはまだない。
ちなみにアニメ番組『サザエさん (Sazae-san)』 [原作:長谷川町子 (Machiko Hasegawa) 1969年~ フジテレビ系列放送] にも、"サザエさん症候群 (Blue Monday)"なる言葉は存在するが、それは拙稿冒頭に登場した"三丁目の夕日症候群 (Sunset On Third Street Syndrome)"とは似て非なるモノである。
次回は「き」。
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