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2014.08.05.05.08

たにけいのいっぱつげい

一発芸 (Stunt) と書いてしまうとちょっと失礼な物謂いに聴こえるかもしれないが、他意はない。単純に、韻を踏みたかっただけである。

つまり、これから綴ってみようと想うのは、谷啓 (Kei Tani) がいくつも産み出したギャグのあれこれ。
すなわち、「ガチョーン (Gachoon)」 とか「ビローン (Biroon)」とか「ムヒョー (Muhyoo)」とか「ハラホロヒレハレ (Harahorehirehare)」とか「谷だァ! (Tani Here Is!)」 とか「あんた誰? (Who You Are?)」について、薬袋もない事を綴ってみようと想う次第、なのである。

と、こうやっていろいろと彼のお笑いネタを書き出してみると、オノマトペ・ネタ (Onomatopee Gag) が多いなぁと、改めて想う。
うえのむっつのうち、少なくとも、おしまいのふたつに関しては、オノマトペ (Onomatopee) ではない、通常の日本語 (Japanese Language) の文脈に照らした意味が存在する筈なのだけれども、この羅列に従って発話してみると、その意味の存在も極めて危うくなる様な気がする。

ここであらためて声に出して、発してみよう。

「ガチョーン (Gachoon)」
「ビローン (Biroon)」
「ムヒョー (Muhyoo)」
「ハラホロヒレハレ (Harahorehirehare)」
「谷だァ! (Tani Dah!)」
「あんた誰? (An Ta Dare?)」

いやいやいや、一発芸 (Stunt) と謂うモノは元来、そういうものでしょう?
意味 / 無意味の二元論 (Dualism) が通用しない場所で顕われるモノなのでしょう?
しかも、もし仮に頑然たるかたちでもって意味がある語句であったとしても、際限のない繰返しによって、その意味性が剥奪された場所で聴こえて来るモノなのでしょう?

と、ひとりでボケ (Funny Man) とツッコミ (Straight Man) の二役をして自身が述べた論述に対して疑義を発してしまった訳だけれども、それに対しては、お約束通りに自身でその疑義に対する回答をするしかない。
文章を綴ると謂う事はそういう宿命を背負っているのである。と、謂うよりも、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル (Georg Wilhelm Friedrich Hegel) 以来の弁証法 (Dialektik) と謂う論の建て方に従えば、嫌でもそうならざるを得ない。
アリストテレス (Aristoteles) の三段論法 (Syllogismus) ならば、そんな煩雑な手間は不必要だけれども、あれは結構、面倒臭いのだ。何故ならば、大前提 (Obersatz) が大前提 (Obersatz) として誰しもが認め得るモノを大前提 (Obersatz) として設定して初めて通用する論考だからなのだ。こんな極めておのれの存在が危うい現代社会に於いて、そんな牧歌的な空論が通用する様な事は、そんじょそこらに転がっている訳がない。
だから、この先、この手のひとりボケツッコミ (Double Role As A Funny Man And A Straight Man) は何度か登場する筈だ。申し訳ないけれども、事前に覚悟と謂うか、つまり、あれだな、諦めていてもらいたい。

例えば、本来はオノマトペ (Onomatopee) ではない「谷だァ! (Tani Here Is!)」 とか「あんた誰? (Who You Are?)」は、上に綴った一発芸 (Stunt) の生成の常道に沿ったモノだ。

前者の「谷だァ! (Tani He is!)」に関しては、元来が、青島幸男 (Yukio Aoshima) のギャグ「青島だァ! (Aoshima Here Is!)」をそのまま自家薬籠中のモノ (Master ; Be At Home ) にしてしまったのも謂うに及ばない。
本来は青島幸男 (Yukio Aoshima) 自身が自ら「青島だァ! (Aoshima He is!)」と名乗らざるを得ない状況を設定した上で成立するギャグなのだけれども、それが人気を呼んで「青島だァ! (Aoshima Here Is!)」が一人歩きしてしまったが結果、誰もが「青島だァ! (Aoshima He Is!)」と名乗って笑いを誘う、そんな「青島だァ! (Aoshima Here Is!)」のインフレーション (Inflation) が定着した事を前提にしての谷啓 (Kei Tani) 自らが発する「谷だァ! (Tani Here Is!)」であるのだから。

後者の「あんた誰? (Who You Are?)」に関しては、元来が、そのギャグが発せられるコントの場面設定が強固なモノであって、そこに登場する谷啓 (Kei Tani) ともう一方の話者との関係性が、誰にとっても疑いのない場面のいよいよな状況下で突然に、その環境とその関係性への疑義の発露として発せられていたのだ。
と、抽象的な表現をしてしまうと、何が何だか解らない。
例えば、店鋪の経営者とその客と謂うコントの中で、売る売らない / 買う買わないと謂うちいさな細かいギャグの応酬の涯に発せられるのが、経営者たる谷啓 (Kei Tani) の「あんた誰? (Who You Are?)」なのだ。
それがいろいろなコントのヴァリエーションの中でその都度、幾度も笑いを誘い、ありとあらゆるシチュエーションで数限りない「あんた誰? (Who You Are?)」が谷啓 (Kei Tani) によって発せられていくとある日、あるギャグで、その冒頭、脈絡のないところから「あんた誰? (Who You Are?)」が登場してしまうのである。
一発芸 (Stunt) としての「あんた誰? (Who You Are?)」とはそおゆう類いの生成を経たモノと、ぼくは認識している。

笑いと謂うモノは、何も謂わないところで何も語らない時点で共有されて初めてその効力が発揮されるモノだから、こんな風に解説したり叙述したりすると、凄まじく疲弊してしまう。
書いている方がそんなだから、きっと恐らく、読んでいる側はそれ以上だと推測出来る。

だけれども、谷啓 (Kei Tani) のギャグに関しては、オノマトペ・ネタ (Onomatopee Gag) ではないこのふたつのネタに関する叙述はあくまでも傍論であって、本題ではない。本題はオノマトペ・ネタ (Onomatopee Gag) の方にあるのだ。

とは謂え、本題ではない傍論の方でもうひとつだけ指摘すれば、その傍論の存在であるギャグ・ネタのふたつともが自己と他者とのアイデンティティ (Identity) に関するネタである事は、注目した方が良い。
何故ならば、そこで主張されるもしくはそこで問われるアイデンティティ (Identity) こそが、一発芸 (Stunt) が一発芸 (Stunt) として生成する過程に於いて問われる意味 / 無意味の二元論 (Dualism) が崩壊する直前の場所だからなのである。換言すれば、最早アイデンティティ (Identity) を問う事すらその価値を喪った場所に辿り着いて初めて、一発芸 (Stunt) と謂うモノが待ち構えている筈なのだ。
だから、すんでのところで踏みとどまっていた筈のふたつのギャグ「谷だァ! (Tani Here Is!)」 とか「あんた誰? (Who You Are?)」を越えたところ、その向こうにオノマトペ・ネタ (Onomatopee Gag) である「ガチョーン (Gachoon)」 とか「ビローン (Biroon)」とか「ムヒョー (Muhyoo)」とか「ハラホロヒレハレ (Harahorehirehare)」とかが、待ち構えているのだ。

と、とってもなく、ややこしく綴ってみたが、なんの事はない、「ガチョーン (Gachoon)」 とか「ビローン (Biroon)」とか「ムヒョー (Muhyoo)」とか「ハラホロヒレハレ (Harahorehirehare)」とかには意味がない、ただ単に、そういう事を謂いたいだけなのだ。

ただ考えなければならないのは、この無意味な言語が単なる無駄な発話以上の存在感をもつのは何故なんだろう、と謂う事だ。

そして、ぼくはそれはこれらのギャグの生成の過程にあるのでは、と想うのだ。

例えば、ウィキペディア日本語版 (Japanese Wikipedia)での谷啓の項でのここでは、次の様な考察が為されている。
「谷の一連のギャグの多くは、主に仲間とマージャンで、谷が牌をツモる時に発する奇声が起源になっている」
それはそうなのかもしれない。多分、おそらく、そうなのであろう。
だけれども、それが何故、可笑しいのか。だけれども、何故そこで谷啓 (Kei Tani) が発し得たのか。

と、さも重大問題の様に書いてしまったが、結論としては単純なのだ。

谷啓 (Kei Tani) の担当楽器はトロンボーン (Trombone)。総てがそこから出発しているのではないだろうか。

「ガチョーン (Gachoon)」 とか「ビローン (Biroon)」とか「ムヒョー (Muhyoo)」とか「ハラホロヒレハレ (Harahorehirehare)」とか単純に発話だけ綴ってしまうと観えるモノも観えない。
だから、「ガチョーン (Gachoon)」 とか「ビローン (Biroon)」とか「ムヒョー (Muhyoo)」とか「ハラホロヒレハレ (Harahorehirehare)」とか発している際の、谷啓 (Kei Tani) の挙動をも思い起してもらいたいのだ。
つまり、そこで発せられる言語以上に、能動的に物語ろうとする身体の動き、無意味に過剰な腕の伸縮、あれはそのまま、トロンボーン (Trombone) 吹きの、演奏中の身体の動きそのままぢゃあないだろうか。

「ガチョーン (Gachoon)」と発すると同時に、右掌はなにかを虚空で掴み、それを自身の手許に引き寄せる様に腕は収縮する。よく聴けば、その発話は音程が上がると同時に、微妙にデクレシェンド (Decrescendo) している。
それはトロンボーン (Trombone) での、スライド (Slide) を手許に引く事によって、高い音程を奏でられるのと、一緒だ。
そして、そんな類推はそのままその他のギャグ、「ビローン (Biroon)」とか「ムヒョー (Muhyoo)」とか「ハラホロヒレハレ (Harahorehirehare)」とかにも援用出来るのではないだろうか。

ぼくが謂いたいのこれだけだ。これを謂いたいが為に、ここまで引っ張ってきた。
だからここで終ってもいいのだけれども、もう少し続ける。

谷啓 (Kei Tani) が何故、こんな自身の演奏楽器での能動を許に、ギャグ・ネタをいくつも連発出来たのかと謂うと、彼がそもそもがコメディアン指向だったから、ではないだろうか。
少なくとも、彼が所属していたバンド、他のハナ肇とクレージーキャッツ (Hajime Hana AndThe Crazy Cats) の面々とは明らかに逆だ。彼らは元来がミュージシャン指向なのだ。
つまり、雑な謂回しをしてしまえば、ミュージシャン崩れのコメディアンの集団の中に独り、コメディアン崩れのミュージシャンである谷啓 (Kei Tani) が紛れ込んでいた、これがハナ肇とクレージーキャッツ (Hajime Hana AndThe Crazy Cats) だ。
例えば、アルト・サックス (Alto Saxophone) の安田伸 (Shin Yasuda) には、頭でブリッジ (Bridge) をしながら自身の楽器を奏でると謂う大ネタがあるけれども、それはどんなにギャグのシュティエーションを考えても、コンサート・ステージと謂う場所が設定されてなければ披露出来ない。少なくとも、彼らの拠点であったテレビ番組『シャボン玉ホリデー (The Bubbles Holiday)』 [19611972日本テレビ系列放送] で観る事が出来たのかどうか。ぼくが彼のそのネタを知っているのは、『ザ・オフィシャル・クレージーキャッツ・グラフィティ (The official Crazy Cats Graffiti)』 [1993年刊行] と謂う彼らの写真集での事なのである。
谷啓 (Kei Tani) の「ガチョーン (Gachoon)」 とか「ビローン (Biroon)」とか「ムヒョー (Muhyoo)」とか「ハラホロヒレハレ (Harahorehirehare)」とか謂うギャグは、安田伸 (Shin Yasuda) のブリッジ (Bridge) 演奏とは全く逆の方向性を持っているのだ。

そして、ハナ肇とクレージーキャッツ (Hajime Hana AndThe Crazy Cats) の後継で、結果的に彼らの存在を脅かしたふたつのコント集団での音楽ネタとも、谷啓 (Kei Tani) の「ガチョーン (Gachoon)」 とか「ビローン (Biroon)」とか「ムヒョー (Muhyoo)」とか「ハラホロヒレハレ (Harahorehirehare)」とか謂うギャグとは、また違う場所にあるのだ。

コント55号 (Conto 55) は、演歌歌手もかくやと想われる絶大な歌唱力をもつ坂上二郎 (Jiro Sakagami) と、まったくの音痴である [実際はどうなのか知らないつまりそう謂う設定の] 萩本欽一 (Kinichi Hagimoto) との落差と謂う形でしか演出出来なかった。
ザ・ドリフターズ (The Drifters) には音楽ネタは多く、しかも、志村けん (Ken Shimura) の時代 [1974年以降] になってから俄然に増えたが、傾向としてはふたつしかない。ひとつは『タブー (Taboo)』 [既にこちらで書いた] や『ヒゲダンス (DancIng With Moustache)』の様にある楽曲を素材として起用する場合、ひとつは歌唱のなかにギャグを織り込む場合 [『カラスの勝手でしょ (Never Mind The Bollocks, Here's The Ravens)』の様に既存楽曲の場合もあれば『東村山音頭 (Higashi-Murayama Ondo)』の様に全くのオリジナルの場合もある]、このふたつだ。

それらと谷啓 (Kei Tani) の「ガチョーン (Gachoon)」 とか「ビローン (Biroon)」とか「ムヒョー (Muhyoo)」とか「ハラホロヒレハレ (Harahorehirehare)」とか謂うギャグとの差異の最も大きな特徴は、その元ネタが歌詞でも主旋律でもない、と謂う事なのだ。

コントのオチとして、出演者全員が「「ハラホロヒレハレ (Harahorehirehare)」と叫びながら崩れ倒れるそのネタも、例えば、4ビートか8ビートの速いテンポの中で、短いパッセージとして「ハラホロヒレハレ (Harahorehirehare)」と繰返し唄えば、ちょっとは格好いいオブリガード (Obbligato) として機能するのだ。[例えば往年のテレビ番組『イレヴン・ピーエム (11PM)』 [1965~1990日本テレビ系列放送] のオープニング『11PMのテーマ (11PM Theme)』での印象的なスキャット (Scat) を「ハラホロヒレハレ (Harahorehirehare)」と差し替えて唄ってみれば良い。]

結局、谷啓 (Kei Tani) の「ガチョーン (Gachoon)」 とか「ビローン (Biroon)」とか「ムヒョー (Muhyoo)」とか「ハラホロヒレハレ (Harahorehirehare)」とか謂うギャグは総て、トロンボーン (Trombone) と謂う楽器の特性から、端を発しているのだ。
楽器の構造上、音程の高低は、スライド (Slide) の伸縮によって為されるがために、徐々に音程を上げたり徐々に音程を下げる演奏、つまりグリッサンド (Glissando) には向いているが、低音部から高音部への飛躍やその逆は難しい。主旋律を奏でるのには不向きな楽器なのだ。その代わりに、主旋律に相対する形で、対位法 (Kontrapunkt) 的な旋律を奏でるのには、絶好な楽器なのである。

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それはそのままハナ肇とクレージーキャッツ (Hajime Hana AndThe Crazy Cats) と謂う集団が主演した映画シリーズ『クレージー映画 (Crazy Series )』 [19621972年 全26作品] でも同じ事が謂える。常に自由奔放で豪放磊落で素っ頓狂な主役を演じる植木等 (Hitoshi Ueki) による大きな笑いに対して、こ狡くてせせこましくて小市民的でそしてそれが結果的に微妙な笑いを誘う谷啓 (Kei Tani) の小さな笑い、このふたつの笑いの対比なのである。
そうして以降、谷啓 (Kei Tani) は出演する映画の中で、そんなどこにでもいるつましいヒトビトだけから生じ得るおかしみを産み出してきた。
上に掲載するのは、そんな谷啓 (Kei Tani) の演技をフィーチャーし彼を主役に据えた映画『クレージーだよ奇想天外 (Kureji Da Yo: Kisotengai)』 [坪島孝 (Takashi Tsuboshima) 監督作品 1966年制作] のポスターである。

次回は「」。

附記:
上で、植木等 (Hitoshi Ueki) と谷啓 (Kei Tani) の笑いの差異をあげつらってみたけど、実際には、それぞれが演じてきたヒトビトとは全く逆の指向をもった人物だった様だ。
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