2014.06.17.09.10
表題に掲げたのは、森鴎外 (Mori Ogai) の短編小説『最後の一句 (The Last Words)』 [1915年発表] からの一節。
主人公いちの発した文字通りの”最後の一句 (The Last Words)”「お上の事には間違はございますまいから」からである。
ぼくの記憶に間違いがなければ、中学の国語の授業で出逢った作品だ。
これからこの小説に関して綴る事になると想うが、その様な作品であるので、既に既読であると謂う前提で書き進めて行く。万が一、未読な方は、上記の小説タイトルのリンク先からこの小説に接する事が可能なので、先ずは当該の作品を味わってもらいたい。
なぁに、教科書にまるまる全文が掲載される程の長さだ。すぐに読了出来ると想う。
物語の粗筋はいたってシンプルなもので、もしも仮に、登場人物の内面に加担さえしなければ、まるで、その昔、TBS系列月曜夜8時台 [ナショナル劇場 [旧:ナショナル ゴールデン・アワー] 1956〜2008年放映] に放映していた時代劇 (Costume Play) の一篇であっても不思議ではない様な作品だ。
勧善懲悪 (Poetic Justice) の物語。
不遇な幼いきょうだい達が幼い智慧を絞って、おのれの父親の命と減刑を願う為に、自らの命を引き換えに差し出そうと謂う物語だ。
その物語がハッピーエンドの目出度し目出度しで終る為には、幼い孝行娘の意を汲み上げる、お上の御慈悲とやらが登場しなければならない筈で、その為に、TBS系列月曜夜8時台 [ナショナル劇場 [旧:ナショナル ゴールデン・アワー] 1956〜2008年放映] の主人公である水戸黄門 (Mito Komon) [演;東野英治郎 (Eijiro Tono)〜西村晃 (Ko Nishimura)〜佐野浅夫 (Asao Sano)〜石坂浩二 (Koji Ishizaka)〜里見浩太朗 (Kotaro Satomi)]や大岡越前 (Ooka Echizen) [演:加藤剛 (Go Kato)]や遠山金四郎 (Toyama Kagemoto) [演:西郷輝彦 (Teruhiko Saigo)〜里見浩太朗 (Kotaro Satomi)] が、明になり暗になり、東奔西走する。そして、万事が恙無く語り終えられる頃には、幼いきょうだいを中心として、家族満面の笑みを観る事になるのだ。
恐らく、そんな構造の物語は、かつてのその時間枠であるのならば、手を変え品を変えて登場しているのに違いない。
ただ、1時間と謂う放送時間枠を考慮に入れれば、本来のこの小説の中の様に、すべてが幼い少女の描いたシナリオ、とはなり得ないのかもしれない。
そう、むしろ、西町奉行 (Osaka Nishimachi--bugyo) が最初に推理した様に、それは誰かおとなの差し金であって、それもこの事件を裏で操る黒幕の存在がそう仕向けた、そんな結構を必要とするのかもしれない。
[お約束 (Cliche) としての名台詞「お主も悪よのう (You Are As Bad As Me, Aren't You?)」は誰もが聴きたい訳だから。]
しかも冷静に考えれば、江戸時代 (Edo Period) を舞台にした時代劇 (Costume Play) であって、その根底に勧善懲悪 (Poetic Justice) の符牒があるのならば、必ずしもTBS系列月曜夜8時台 [ナショナル劇場 [旧:ナショナル ゴールデン・アワー] 1956〜2008年放映] と謂う放送枠でなければならない訳ではない。
NET〜テレビ朝日系列での、遠山金四郎 (Toyama Kagemoto) [演:四代目中村梅之助 (Nakamura Umenosuke IV)〜四代目市川段四郎 (Ichikawa Danshiro IV)〜橋幸夫 (Yukio Hashi)〜杉良太郎 (Ryotaro Sugi)〜高橋英樹 (Hideki Takahashi)〜松方弘樹 (Hiroki Matsukata)〜松平健 (Ken Matsudaira)]の物語でもいいのであるし、大岡越前 (Ooka Echizen) [演:加藤剛 (Go Kato)] の物語では脇役のひとりであった、徳川吉宗 (Yoshimune Tokugawa) [演:松平健 (Ken Matsudaira)] が主人公の物語でもいいのかもしれない。
ただ、同じNET〜テレビ朝日系列でも、ピカレスク・ロマン (Novela picaresca) を気取っている必殺シリーズ (Hissatsu) では流石に、この物語の構造をそのまま流用出来ないと謂うのは、念を押しておくべきなのか。
尤も、父親の命と減刑を嘆願した幼いきょうだい達が、お上を怖れも知れぬ不届き者と謂う、ただそれだけの咎で処刑され、その恨み辛みを彼女達の祖母が、中村主水 (Mondo Nakamura) [演;藤田まこと (Makoto Fujita)] に仕置きを依頼すればいいのか。
それとも、その程度の恨み辛みでは、虚構としては弱いのか。いちはナニモノかに手籠めにされた方が、このシリーズに相応しいのか。
と、ここまでだらだらと、現代の時代劇 (Costume Play) ドラマとして、この小説が翻案可能か否かと綴ってきたが、勿論、それは不可能な事なのだ。
そもそも、この物語は勧善懲悪 (Poetic Justice) の物語ではない。
むしろ、それが成立し得ない世界の出来事として、物語は語られている。
いやな物語だ。
読後に遺るのは、勧善懲悪 (Poetic Justice) のそれとは全く逆の、いつまでもこころの澱みに遺り続ける不可解なモノの存在感だ。
そして、それがそこにあるのは、謂うまでもなく、いちの放った”最後の一句 (The Last Words)”なのである。
「お上の事には間違はございますまいから」
森鴎外 (Mori Ogai) は狡い。
小説を読んで、それをそのまま鵜呑みにすれば、この”最後の一句 (The Last Words)”が放たれたが故に、この物語の結末が導き出された様に想えてしまう。
だが、冷静に考えてもらいたい。
この”最後の一句 (The Last Words)”はなにも、保障していない事を。
当初の裁定のそのままに、幼いきょうだい達の父親が極刑にさらされてもいい。
いちの願書が書いた様に、いちを含めた幼いきょうだい達が父親の身代りとなってもいい。
また、場合に拠っては、幼いきょうだい達も父親も殺されてもいい。
勿論、それぞれの場合に於いて、養子の長太郎の処遇、つまり活かされようと殺されようとどうなろうと、無関係だ。
なにがあってもなにもなくても「お上の事には間違はございますまいから」なのである。
官吏の判断は揺るぎなく、いつ如何なる場合に於いても、正しいのである。それを裁定が下されてそれを執行される側の、当の当事者が保障しているのだ。
にも関わらずに森鴎外 (Mori Ogai) は、他に選択肢が一切ない様に、物語を描き、登場人物達を動かせ、そして、彼らの内面を蠢動させている。
物語の中で導き出された結末は、決して、あり得ない筈のモノなのだ。
例えば、理想的な社会であれば、父親への裁定は当初からあり得る筈はなく、現実の社会であれば、決していちの願いは聞き届けられない。
いちの望み通りの筋書きが描かれるとしたら、それは取りも直さず、勧善懲悪 (Poetic Justice) の結構の許にあるファンタジー (Fantasy) でしかなく、その為には、いちはこの小説では否定されている善良無垢な孝女でなければ、物語として成立するのは難しくなる。
だが、そんな物語は森鴎外 (Mori Ogai) としてはナンセンス (Non-sense) なのである。
この小説を書いた小説家は、「お上の事には間違はございますまいから」と謂う”最後の一句 (The Last Words)”がそれを聴くモノに重くのしかかる、そんな光景だけを描きたかったのに違いない。
その為に綱渡りの様な物語をここに構築したのではないか。
書き手の語りの巧さに思わず翻弄されてしまうが、この小説のドラマツルギー (Dramaturgy) は、常に危うい中を歩んでいるのだ。
いつ、どこで、それが破綻しても不思議ではない。
にも、関わらずにぼく達は、いちの”最後の一句 (The Last Words)”まで横着させられてしまうのだ。
つまり、勧善懲悪 (Poetic Justice) と謂うファンタジー (Fantasy) を否定する結果、森鴎外 (Mori Ogai) はもうひとつのファンタジー (Fantasy) を描いたのに過ぎない。
そして、その虚構性を覆い隠す為に彼が提出したエクスキューズ (Excuse) が、「マルチリウム」とか「献身」とか謂うことばなのだ。
献身(Self‐sacrifice)とかマルチリウム (Martyrium) とかを登場させれば、いちの本心がそこにある事を担保もするだけでなく、いちの性根に孝行娘と謂うモノが存在しているかの様に、擬制させる事が出来るからだ。
このふたつの言葉があるからこそ、いちを護る事も、森鴎外 (Mori Ogai) 自身の保身を可能にする事も出来る。
また、このふたつの言葉があるからこそ、それらに拐かされて、国語教材にも選定され得たのではないだろうか。
いいかい、この小説のどこにそんな戯言が影を潜めているのだろうか?
いちの放った”最後の一句 (The Last Words)”は、そんなモノとは無縁のところにあるのではないだろうか。
もっともっと、冷たいモノ、冷酷で惨忍な視線がそこにあるのが、きみには解らないのだろうか。
だから、何故、こんな授業を行い得るのか、ぼくには解らない。あまりに偽善的な物謂いに想えて仕様がない [註:この記事の筆者曰くの「苦い記憶」をもたらした行動を難じているのではありません。「予定外の質問」の、その謂質を難じているのです]。
つまり、ぼくから観れば、こんな授業を行ってしまった [そしてこれからも行ってしまうかもしれない] 教師達は、小説家の巧妙な罠に嵌ったのも同然なのだ。
あらためて書く。
おまえはそのことばになんら後ろめたさを感じないでいられるのか。
おまえはこのことばに真摯にむきあうことができるのか。
但し、そのことばには強制力は一切ない。
つまり問われているのは、あくまでも自身が下す裁量やその結果ではなくて、その際の、自身の内面だけなのだ。
これをファンタジー (Fantasy) と謂わずして、なにをファンタジー (Fantasy) と呼ぶ事が出来るだろう。
そんな森鴎外 (Mori Ogai) の配慮にも関わらずに、物語の結末 [外形的な] は、いちの想定している幾つものモノの中から、最良に近いモノが導き出される。つまり、いくつもある勧善懲悪 (Poetic Justice) と謂うファンタジー (Fantasy) と同じ姿だ。
ぼくが、森鴎外 (Mori Ogai) を狡いと謂うその理由はそこにある。
猶、余談ながら、森鴎外 (Mori Ogai) 自身の”最後の一句 (The Last Words)”とも謂うべき彼の『遺言 (The Last Will)』[大正11年 7月6日付] にはこうある。
「森林太郎トシテ死セントス墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラス (Reading Simply ; “The Grave Of Mori Rintaro”)」
そして、そのことばをそのまま受け入れられて彼、森林太郎 (Rintaro Mori) の墓は禅林寺 (Zenrin-ji Temple) にある。

上記掲載画像はこちらから。
次回は「ら」。
附記:
徹頭徹尾、この小説は”最後の一句 (The Last Words)”「お上の事には間違はございますまいから」に収斂しているから、演劇向きの作品なのかなぁと一瞬、妄想する。
妄想するが、現実味が一向に出てこない。
それは総て、物語の要となり得るモノが登場人物達の内面にあるからなのだろうか。
しかも、その最たるモノが、主人公と目されるべきいちのモノではなくて、彼女に対峙する奉行のモノだから、なのだろうか。
勿論、拙稿の冒頭に記した様な、勧善懲悪 (Poetic Justice) な時代劇 (Costume Play) に堕しても構わないと謂うのであるのならば、別なのだが。
小説以外のモノである可能性を、作品自らが拒否している様に、ぼくには想える。
主人公いちの発した文字通りの”最後の一句 (The Last Words)”「お上の事には間違はございますまいから」からである。
ぼくの記憶に間違いがなければ、中学の国語の授業で出逢った作品だ。
これからこの小説に関して綴る事になると想うが、その様な作品であるので、既に既読であると謂う前提で書き進めて行く。万が一、未読な方は、上記の小説タイトルのリンク先からこの小説に接する事が可能なので、先ずは当該の作品を味わってもらいたい。
なぁに、教科書にまるまる全文が掲載される程の長さだ。すぐに読了出来ると想う。
物語の粗筋はいたってシンプルなもので、もしも仮に、登場人物の内面に加担さえしなければ、まるで、その昔、TBS系列月曜夜8時台 [ナショナル劇場 [旧:ナショナル ゴールデン・アワー] 1956〜2008年放映] に放映していた時代劇 (Costume Play) の一篇であっても不思議ではない様な作品だ。
勧善懲悪 (Poetic Justice) の物語。
不遇な幼いきょうだい達が幼い智慧を絞って、おのれの父親の命と減刑を願う為に、自らの命を引き換えに差し出そうと謂う物語だ。
その物語がハッピーエンドの目出度し目出度しで終る為には、幼い孝行娘の意を汲み上げる、お上の御慈悲とやらが登場しなければならない筈で、その為に、TBS系列月曜夜8時台 [ナショナル劇場 [旧:ナショナル ゴールデン・アワー] 1956〜2008年放映] の主人公である水戸黄門 (Mito Komon) [演;東野英治郎 (Eijiro Tono)〜西村晃 (Ko Nishimura)〜佐野浅夫 (Asao Sano)〜石坂浩二 (Koji Ishizaka)〜里見浩太朗 (Kotaro Satomi)]や大岡越前 (Ooka Echizen) [演:加藤剛 (Go Kato)]や遠山金四郎 (Toyama Kagemoto) [演:西郷輝彦 (Teruhiko Saigo)〜里見浩太朗 (Kotaro Satomi)] が、明になり暗になり、東奔西走する。そして、万事が恙無く語り終えられる頃には、幼いきょうだいを中心として、家族満面の笑みを観る事になるのだ。
恐らく、そんな構造の物語は、かつてのその時間枠であるのならば、手を変え品を変えて登場しているのに違いない。
ただ、1時間と謂う放送時間枠を考慮に入れれば、本来のこの小説の中の様に、すべてが幼い少女の描いたシナリオ、とはなり得ないのかもしれない。
そう、むしろ、西町奉行 (Osaka Nishimachi--bugyo) が最初に推理した様に、それは誰かおとなの差し金であって、それもこの事件を裏で操る黒幕の存在がそう仕向けた、そんな結構を必要とするのかもしれない。
[お約束 (Cliche) としての名台詞「お主も悪よのう (You Are As Bad As Me, Aren't You?)」は誰もが聴きたい訳だから。]
しかも冷静に考えれば、江戸時代 (Edo Period) を舞台にした時代劇 (Costume Play) であって、その根底に勧善懲悪 (Poetic Justice) の符牒があるのならば、必ずしもTBS系列月曜夜8時台 [ナショナル劇場 [旧:ナショナル ゴールデン・アワー] 1956〜2008年放映] と謂う放送枠でなければならない訳ではない。
NET〜テレビ朝日系列での、遠山金四郎 (Toyama Kagemoto) [演:四代目中村梅之助 (Nakamura Umenosuke IV)〜四代目市川段四郎 (Ichikawa Danshiro IV)〜橋幸夫 (Yukio Hashi)〜杉良太郎 (Ryotaro Sugi)〜高橋英樹 (Hideki Takahashi)〜松方弘樹 (Hiroki Matsukata)〜松平健 (Ken Matsudaira)]の物語でもいいのであるし、大岡越前 (Ooka Echizen) [演:加藤剛 (Go Kato)] の物語では脇役のひとりであった、徳川吉宗 (Yoshimune Tokugawa) [演:松平健 (Ken Matsudaira)] が主人公の物語でもいいのかもしれない。
ただ、同じNET〜テレビ朝日系列でも、ピカレスク・ロマン (Novela picaresca) を気取っている必殺シリーズ (Hissatsu) では流石に、この物語の構造をそのまま流用出来ないと謂うのは、念を押しておくべきなのか。
尤も、父親の命と減刑を嘆願した幼いきょうだい達が、お上を怖れも知れぬ不届き者と謂う、ただそれだけの咎で処刑され、その恨み辛みを彼女達の祖母が、中村主水 (Mondo Nakamura) [演;藤田まこと (Makoto Fujita)] に仕置きを依頼すればいいのか。
それとも、その程度の恨み辛みでは、虚構としては弱いのか。いちはナニモノかに手籠めにされた方が、このシリーズに相応しいのか。
と、ここまでだらだらと、現代の時代劇 (Costume Play) ドラマとして、この小説が翻案可能か否かと綴ってきたが、勿論、それは不可能な事なのだ。
そもそも、この物語は勧善懲悪 (Poetic Justice) の物語ではない。
むしろ、それが成立し得ない世界の出来事として、物語は語られている。
いやな物語だ。
読後に遺るのは、勧善懲悪 (Poetic Justice) のそれとは全く逆の、いつまでもこころの澱みに遺り続ける不可解なモノの存在感だ。
そして、それがそこにあるのは、謂うまでもなく、いちの放った”最後の一句 (The Last Words)”なのである。
「お上の事には間違はございますまいから」
森鴎外 (Mori Ogai) は狡い。
小説を読んで、それをそのまま鵜呑みにすれば、この”最後の一句 (The Last Words)”が放たれたが故に、この物語の結末が導き出された様に想えてしまう。
だが、冷静に考えてもらいたい。
この”最後の一句 (The Last Words)”はなにも、保障していない事を。
当初の裁定のそのままに、幼いきょうだい達の父親が極刑にさらされてもいい。
いちの願書が書いた様に、いちを含めた幼いきょうだい達が父親の身代りとなってもいい。
また、場合に拠っては、幼いきょうだい達も父親も殺されてもいい。
勿論、それぞれの場合に於いて、養子の長太郎の処遇、つまり活かされようと殺されようとどうなろうと、無関係だ。
なにがあってもなにもなくても「お上の事には間違はございますまいから」なのである。
官吏の判断は揺るぎなく、いつ如何なる場合に於いても、正しいのである。それを裁定が下されてそれを執行される側の、当の当事者が保障しているのだ。
にも関わらずに森鴎外 (Mori Ogai) は、他に選択肢が一切ない様に、物語を描き、登場人物達を動かせ、そして、彼らの内面を蠢動させている。
物語の中で導き出された結末は、決して、あり得ない筈のモノなのだ。
例えば、理想的な社会であれば、父親への裁定は当初からあり得る筈はなく、現実の社会であれば、決していちの願いは聞き届けられない。
いちの望み通りの筋書きが描かれるとしたら、それは取りも直さず、勧善懲悪 (Poetic Justice) の結構の許にあるファンタジー (Fantasy) でしかなく、その為には、いちはこの小説では否定されている善良無垢な孝女でなければ、物語として成立するのは難しくなる。
だが、そんな物語は森鴎外 (Mori Ogai) としてはナンセンス (Non-sense) なのである。
この小説を書いた小説家は、「お上の事には間違はございますまいから」と謂う”最後の一句 (The Last Words)”がそれを聴くモノに重くのしかかる、そんな光景だけを描きたかったのに違いない。
その為に綱渡りの様な物語をここに構築したのではないか。
書き手の語りの巧さに思わず翻弄されてしまうが、この小説のドラマツルギー (Dramaturgy) は、常に危うい中を歩んでいるのだ。
いつ、どこで、それが破綻しても不思議ではない。
にも、関わらずにぼく達は、いちの”最後の一句 (The Last Words)”まで横着させられてしまうのだ。
つまり、勧善懲悪 (Poetic Justice) と謂うファンタジー (Fantasy) を否定する結果、森鴎外 (Mori Ogai) はもうひとつのファンタジー (Fantasy) を描いたのに過ぎない。
そして、その虚構性を覆い隠す為に彼が提出したエクスキューズ (Excuse) が、「マルチリウム」とか「献身」とか謂うことばなのだ。
献身(Self‐sacrifice)とかマルチリウム (Martyrium) とかを登場させれば、いちの本心がそこにある事を担保もするだけでなく、いちの性根に孝行娘と謂うモノが存在しているかの様に、擬制させる事が出来るからだ。
このふたつの言葉があるからこそ、いちを護る事も、森鴎外 (Mori Ogai) 自身の保身を可能にする事も出来る。
また、このふたつの言葉があるからこそ、それらに拐かされて、国語教材にも選定され得たのではないだろうか。
いいかい、この小説のどこにそんな戯言が影を潜めているのだろうか?
いちの放った”最後の一句 (The Last Words)”は、そんなモノとは無縁のところにあるのではないだろうか。
もっともっと、冷たいモノ、冷酷で惨忍な視線がそこにあるのが、きみには解らないのだろうか。
だから、何故、こんな授業を行い得るのか、ぼくには解らない。あまりに偽善的な物謂いに想えて仕様がない [註:この記事の筆者曰くの「苦い記憶」をもたらした行動を難じているのではありません。「予定外の質問」の、その謂質を難じているのです]。
つまり、ぼくから観れば、こんな授業を行ってしまった [そしてこれからも行ってしまうかもしれない] 教師達は、小説家の巧妙な罠に嵌ったのも同然なのだ。
あらためて書く。
おまえはそのことばになんら後ろめたさを感じないでいられるのか。
おまえはこのことばに真摯にむきあうことができるのか。
但し、そのことばには強制力は一切ない。
つまり問われているのは、あくまでも自身が下す裁量やその結果ではなくて、その際の、自身の内面だけなのだ。
これをファンタジー (Fantasy) と謂わずして、なにをファンタジー (Fantasy) と呼ぶ事が出来るだろう。
そんな森鴎外 (Mori Ogai) の配慮にも関わらずに、物語の結末 [外形的な] は、いちの想定している幾つものモノの中から、最良に近いモノが導き出される。つまり、いくつもある勧善懲悪 (Poetic Justice) と謂うファンタジー (Fantasy) と同じ姿だ。
ぼくが、森鴎外 (Mori Ogai) を狡いと謂うその理由はそこにある。
猶、余談ながら、森鴎外 (Mori Ogai) 自身の”最後の一句 (The Last Words)”とも謂うべき彼の『遺言 (The Last Will)』[大正11年 7月6日付] にはこうある。
「森林太郎トシテ死セントス墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラス (Reading Simply ; “The Grave Of Mori Rintaro”)」
そして、そのことばをそのまま受け入れられて彼、森林太郎 (Rintaro Mori) の墓は禅林寺 (Zenrin-ji Temple) にある。

上記掲載画像はこちらから。
次回は「ら」。
附記:
徹頭徹尾、この小説は”最後の一句 (The Last Words)”「お上の事には間違はございますまいから」に収斂しているから、演劇向きの作品なのかなぁと一瞬、妄想する。
妄想するが、現実味が一向に出てこない。
それは総て、物語の要となり得るモノが登場人物達の内面にあるからなのだろうか。
しかも、その最たるモノが、主人公と目されるべきいちのモノではなくて、彼女に対峙する奉行のモノだから、なのだろうか。
勿論、拙稿の冒頭に記した様な、勧善懲悪 (Poetic Justice) な時代劇 (Costume Play) に堕しても構わないと謂うのであるのならば、別なのだが。
小説以外のモノである可能性を、作品自らが拒否している様に、ぼくには想える。
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