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2008.03.18.21.25

どっぺるげんがー

ドッペルゲンガーDoppelganger)という存在を知ったのは、永井豪(Go Nagai)のオムニバス短編『霧の扉』を読んでからの事です。
それ以前に『ウルトラQ』第25話「悪魔ッ子」を観ている筈なのだけれども、リアルタイムな記憶がとんとないんです。

永井豪(Go Nagai)の、この短編はみっつの短い物語で構成されていて、第一話と第三話に、そのドッペルゲンガーDoppelganger)が登場します。
第一話『第1の扉 ふりむいた私』には、雪山で遭難した主人公が体験する恐怖、第三話『第3の扉 鎌』では、主人公が夢の中で体験する恐怖について、書かれています。(この短編を収めた短編集『永井豪怪奇短編集II 霧の扉』は現在入手困難な模様です。)

このふたつの短い物語の中で、ドッペルゲンガーDoppelganger)という存在の意味と、その恐怖があます処なく描かれているのに、後年になって気づきます。

それは、すなわち。
1.己の預かり知らぬところで、己とそっくりな人物が出現し、己とは全く異なる行動様式を示す。
2.己とそっくりな人物が、己自身の前に姿を現す。
3.その場合、まさにそのときが己の死期である。
と、云う事です。

ドッペルゲンガーDoppelganger)という存在のもつ恐怖感や無気味な印象は、総べてここにあると思います。
それは、己自身にとって、最も近しい存在であるその己自身こそが、正体不明なあやふやな存在であると同時に、己の生殺与奪の権を有しているという事です。
それは、ヒトだけが自殺し得る生物である、というメタファー : 隠喩(Metaphor)でしょうか? 僕には、解りません。

また、それは己そのものが最も己という存在から遠い存在であるという意味にも、解釈出来ます。

さらに、己と云う存在を、己自身は決して客観的に観る事は出来ない、もし客観視する可能性があるとしたら、己が死する時に他ならない、という解釈も可能です。
鏡に写る己自身は文字どおり鏡像段階(Les stades du miroir)の存在であるし、写真やヴィデオに撮影された己も第三者の視線を介在している訳ですから。

images

上に掲載した画像はミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョMichelangelo Merisi da Caravaggio)描く『ナルキッソスNarcissus)』の画像を180°転倒したものです(正位置の画像は既にこちらで紹介してあります)。
もしよかったら、この転倒した作品を観た後に、もう一度、ここまで書かれたパラグラフを読み直してみて下さい。

『霧の扉』を読んだ当時、その時代は、あたかも心霊ブーム / オカルト・ブームで、多くのメディアで心霊体験臨死体験神秘体験超常現象体験が語られていました。
その中で、ドッペルゲンガーDoppelganger)と思しき現象も真しやかに語られていました。つまり、体外離脱体験Out Of Body Experience)と呼ばれるものです。
しかしながら、当時、語られていた様々な現象や体験が語られれば語られる程、ドッペルゲンガーDoppelganger)=体外離脱体験Out Of Body Experience)が、最も薄気味の悪いものに感じられました。
つまり、それはそこで語られた多くの現象や体験が、恐怖の存在が己の外部に存在するものに起因しているのに対して、ドッペルゲンガーDoppelganger)=体外離脱体験Out Of Body Experience)のみが、己の内部の奥底に潜んでいる不可解なものだからです。

そして、その様な現象が語られると同時に僕は、数々のドッペルゲンガーDoppelganger)を主題にしたフィクションを知る事になります。
エドガー・アラン・ポーEdgar Allan Poe)の『ウィリアム・ウィルソンWilliam Wilson)』、H.H.エーヴェルス(Hanns Heinz Ewers)の『プラークの大学生(Der Student Von Prag)』、オスカー・ワイルド(Oscar Wilde)の『ドリアン・グレイの肖像(The Picture of Dorian Gray)』、ロバート・ルイス・スティーヴンソン(Robert Louis Stevenson)の『ジーキル博士とハイド氏の怪事件(The Strange Case Of Dr. Jekyll and Mr. Hyde)』、アルフレッド・ノイズAlfred Noyes)の『深夜特急Midnight Express)』、ハンス・ヘニー・ヤーンHans Henny Jahnn)の『鉛の夜(Die Nacht Aus Blei)』......。
ニセ・ウルトラマンニセの黄門様を始め映画 / TV等の映像作品も含めるとそれこそ、とんでもないリストになりそうなので、ここでは文学作品に留めておきます)。

しかし、それらの作品の殆どが、自我に潜む二重性や、善と悪に分断された自我の象徴としての装置として、ドッペルゲンガーDoppelganger)が起用されている様です。
あえて書けば、近代的な文化 / 文明が発展していき、近代的な自我が確立される過程において、その自我そのものが、文化 / 文明から疎外されて己自身の存在が透明化・希薄化されて行く、その様な言説の為に、ドッペルゲンガーDoppelganger)という舞台が、登場人物の内面に設けられているのです。
そして、その為に、これらの物語群の殆どの作品において、ドッペルゲンガーDoppelganger)本来が持つ、いいようのない恐怖や無気味さが、去勢されている様に、感じられます。

だから、それらとは全く逆に、己とは全く異なる人物が、あり得ない場所に現出する『茶碗の中In a Cup of Tea)』[小泉八雲 / ラフカディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn) : 『骨董Kotto)』収録]の物語の得体のしれなさに、ドッペルゲンガーDoppelganger)の本質が抽出されている様に、現在の僕には、想えてならないのです。

次回は「」。
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comments for this entry


>丸義さん

役所広司主演の映画ですよね? 未見なんですよ。申し訳ないです。

2008.03.26.18.15. |from たいとしはる feat.=OyO=| URL


ドッペルゲンガーといえば、私は黒沢清の作品を思い出します。

2008.03.26.14.21. |from 丸義| URL [edit]

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