2014.03.27.12.29
季語 (Kigo) については、以前にこの頁で書いた事が殆どで、そのヴィジョンにはあまり異同がない様に、ぼくには思える。
ただ、これまで書いてきた事柄 [こことここ、特にここ] との整合性を考えながら、補完させる様なかたちで書いてみる。
ここで書いたのは、俳句 (Haiku) は”48の17乗”しかない有限のモノである事、と謂うたったそれだけの事である。
そして、有限である結果、それは既に存在するモノであり、俳句 (Haiku) とは、無から有を創作する作業ではなくて、所与のモノから捜索するモノなのではないだろうか、と謂う所で文を結んである。
これから書くのは、その続きの様なモノなのだ。
創作ではなくて捜索であるのならば、その作業に作家性 (Creator’s Identity) と謂うモノは存在するのだろうか。
捜し当てられた所与の文字の羅列に、なんらかの意味をもたらし、と謂う事はつまり、言語と謂う機能を与える。その成果として、当該の捜索者にその栄誉を讃えるモノとして、実は季語 (Kigo) と謂うシステムが機能しているのではないだろうか、と考えているのである。
凄まじく、もってまわった様な文章になってしまったが、つまりは、こうだ。
“いま、ここで、これをみた”とか、”いま、ここで、これをきいた”とか、”いま、ここで、こう感じた”とか”いま、ここで、こんな思いを抱いた”とか、そして、そんな体験の主体が、まごう事なき、”わたし”と謂う存在である。
それを保障してくれているのが、季語 (Kigo) なのではないだろうか、と謂う事なのである。
アリバイ (Alibi) と謂ってしまうとその言葉本来の意味は不在証明 (Somewhere Else) となってしまうけれども、かと謂って、存在証明 (Raison D’etre) と謂ってしまうと、哲学 (Philosophy) の諸文献を繙かなければならなくなるから、面倒だ。
つまりは、そう謂う様なモノ、としての役割を、季語 (Kigo) に見出しているのだ、ぼくは。
つまり、春夏秋冬を詠込む為の装置の様な役割は、季語 (Kigo) においては一義的な意味を見出せていないのだ。
むしろ、その俳句 (Haiku) の中にその語を必要とする自分自身が季語 (Kigo) の中に顕われているのではないだろうか、と思っているのだ。
と、謂う様な事を考えている最中に、筑紫磐井 (Bansei Tsukushi) の『短歌評 <ショート・エッセイ>何が違うか』と謂う一文を読んで、ぼくは狼狽えてしまったのである。
と謂うのは、そこにある主張は逆、季語 (Kigo) こそ匿名性 (Anonymity) の為のよすがだとあるからである。
どうなのだろう。
と謂うか、そもそもの発想の発端が違う所にある筈なのだから、出てきたモノが真反対だからと謂って、比較する意味自体が無意味なのかもしれない。
だから、すこし『短歌評 <ショート・エッセイ>何が違うか』から離れたところで考えてみたい。少なくとも、そこで語られている事に異議を唱えられる程に、ぼくの中で季語 (Kigo) について、思考が形成されてはいないのだ。
例えば、伝統的なナニか、既に権威として存在している創作上の存在と謂うモノを考えてみる。
ギリシャ悲劇 (Tragoidia) でもいいのかもしれないし、シェークスピア劇 (William Shakespeare’s Play) でもいいのかもしれない。それならば、能楽 (Noh)でも文楽 (Bunraku) でも歌舞伎 (Kabuki) でも、古典芸能ならばなんでもいいのだろう。
ああ勿論、演劇に拘泥する必要はない。
歌劇 (Opera) でも交響曲 (Symphony) でも、もしかしたら室内楽 (Chamber Music) でも独奏 (Solo) でもいいかもしれない。雅楽 (Gagaku) でも木遣り (Kiyari) でも相撲甚句 (Sumo Jinku) でもいいのかもしれない。だからと謂って、ジャズのスタンダード (Jazz Standards) まで視野にいれると、考えなければならない諸条件が煩雑になってしまうのだけれども。
要は、譜面の様な、否、譜面の様な具体的な形象をとっていない口承で伝えられている様なモノであっても、動かしがたい規範としてあらかじめ用意されているモノならば、発想の基準は総て同じだ。しかも、その動かしがたい規範が用意ならざる存在として、ぼく達の前に立ち塞がっていればいる程、その次に考えなければならない思索の方向性は、あからさまなモノになるだろう。
一応、断りを入れておかないと後々、大変な誤解を産んでしまう怖れもないわけではないので、上に書き連ねたモノゴトに、ぼく自身が精通していると謂う訳ではない。
恐ろしく平坦で、恐ろしく薄っぺらい、一般常識の様な代物に寄り添っているだけだ。
それ故にこそ、逆に、理解しやすいのではないかと、考えている。
だから、出来るだけシンプルな例が解りやすいだろうから、ここは落語 (Rakugo) でシュミレートしてみる。
古典落語 (Rakugo Classics) を学び、古典落語 (Rakugo Classics) を演じる。その噺家 (Storytelle) に作家性 (Creator’s Identity) と謂うモノは存在するだろうか。
おのれの師匠の演目を、一字一句そのままに模写し、それを正確無比に再現するところから始まるであろう古典落語 (Rakugo Classics) の学習と謂うモノの中で、語られるべき物語の語り手としての、自分自身と謂う存在はどれ程に必要なのか。もしくは、何れ程に不要で邪魔な存在なのか。
と、同時に、そんな自身の演目 (Titles) を目の当たりにする観客と謂うモノは、一体、なにをそこに期待しているのか。名作とされる作品がより完成に向かう姿なのか、それともその逆で、その名作に肉迫し翻弄される噺家 (Storytelle) の姿なのか。
と謂う様な妄想を繰り広げた後に、古典落語 (Rakugo Classics) と謂う文字の代わりに俳句 (Haiku) と謂う文字を入れ、噺家 (Storyteller) という文字の代わりに俳人 (Poet) と謂う文字を入れてみる。そうすると、演目 (Titles) と謂う語句は、季語 (Kigo) と謂う文字に差し替え可能なんぢゃあなかろうか、と謂う気がしてくる。
もし仮に、これが古典落語 (Rakugo Classics) ではない、他の芸術や芸能であるのならば、共演者やスタッフとの関係性も加わるし、演じたり演奏したりするモノに許される解釈の幅も、随分と変わる。
そう謂う可変性のある要素が、俳句 (Haiku) と謂う制度では、文字数だったり韻律だったりがその機能を果たすのではないか。
『ごくなぬか』解題:目次
俳句の17文字について:『ごくなぬか』解題
俳句の5-7-5について:『ごくなぬか』解題
俳句の季語について:『ごくなぬか』解題
俳句の切れもしくは切れ字について:『ごくなぬか』解題
ただ、これまで書いてきた事柄 [こことここ、特にここ] との整合性を考えながら、補完させる様なかたちで書いてみる。
ここで書いたのは、俳句 (Haiku) は”48の17乗”しかない有限のモノである事、と謂うたったそれだけの事である。
そして、有限である結果、それは既に存在するモノであり、俳句 (Haiku) とは、無から有を創作する作業ではなくて、所与のモノから捜索するモノなのではないだろうか、と謂う所で文を結んである。
これから書くのは、その続きの様なモノなのだ。
創作ではなくて捜索であるのならば、その作業に作家性 (Creator’s Identity) と謂うモノは存在するのだろうか。
捜し当てられた所与の文字の羅列に、なんらかの意味をもたらし、と謂う事はつまり、言語と謂う機能を与える。その成果として、当該の捜索者にその栄誉を讃えるモノとして、実は季語 (Kigo) と謂うシステムが機能しているのではないだろうか、と考えているのである。
凄まじく、もってまわった様な文章になってしまったが、つまりは、こうだ。
“いま、ここで、これをみた”とか、”いま、ここで、これをきいた”とか、”いま、ここで、こう感じた”とか”いま、ここで、こんな思いを抱いた”とか、そして、そんな体験の主体が、まごう事なき、”わたし”と謂う存在である。
それを保障してくれているのが、季語 (Kigo) なのではないだろうか、と謂う事なのである。
アリバイ (Alibi) と謂ってしまうとその言葉本来の意味は不在証明 (Somewhere Else) となってしまうけれども、かと謂って、存在証明 (Raison D’etre) と謂ってしまうと、哲学 (Philosophy) の諸文献を繙かなければならなくなるから、面倒だ。
つまりは、そう謂う様なモノ、としての役割を、季語 (Kigo) に見出しているのだ、ぼくは。
つまり、春夏秋冬を詠込む為の装置の様な役割は、季語 (Kigo) においては一義的な意味を見出せていないのだ。
むしろ、その俳句 (Haiku) の中にその語を必要とする自分自身が季語 (Kigo) の中に顕われているのではないだろうか、と思っているのだ。
と、謂う様な事を考えている最中に、筑紫磐井 (Bansei Tsukushi) の『短歌評 <ショート・エッセイ>何が違うか』と謂う一文を読んで、ぼくは狼狽えてしまったのである。
と謂うのは、そこにある主張は逆、季語 (Kigo) こそ匿名性 (Anonymity) の為のよすがだとあるからである。
どうなのだろう。
と謂うか、そもそもの発想の発端が違う所にある筈なのだから、出てきたモノが真反対だからと謂って、比較する意味自体が無意味なのかもしれない。
だから、すこし『短歌評 <ショート・エッセイ>何が違うか』から離れたところで考えてみたい。少なくとも、そこで語られている事に異議を唱えられる程に、ぼくの中で季語 (Kigo) について、思考が形成されてはいないのだ。
例えば、伝統的なナニか、既に権威として存在している創作上の存在と謂うモノを考えてみる。
ギリシャ悲劇 (Tragoidia) でもいいのかもしれないし、シェークスピア劇 (William Shakespeare’s Play) でもいいのかもしれない。それならば、能楽 (Noh)でも文楽 (Bunraku) でも歌舞伎 (Kabuki) でも、古典芸能ならばなんでもいいのだろう。
ああ勿論、演劇に拘泥する必要はない。
歌劇 (Opera) でも交響曲 (Symphony) でも、もしかしたら室内楽 (Chamber Music) でも独奏 (Solo) でもいいかもしれない。雅楽 (Gagaku) でも木遣り (Kiyari) でも相撲甚句 (Sumo Jinku) でもいいのかもしれない。だからと謂って、ジャズのスタンダード (Jazz Standards) まで視野にいれると、考えなければならない諸条件が煩雑になってしまうのだけれども。
要は、譜面の様な、否、譜面の様な具体的な形象をとっていない口承で伝えられている様なモノであっても、動かしがたい規範としてあらかじめ用意されているモノならば、発想の基準は総て同じだ。しかも、その動かしがたい規範が用意ならざる存在として、ぼく達の前に立ち塞がっていればいる程、その次に考えなければならない思索の方向性は、あからさまなモノになるだろう。
一応、断りを入れておかないと後々、大変な誤解を産んでしまう怖れもないわけではないので、上に書き連ねたモノゴトに、ぼく自身が精通していると謂う訳ではない。
恐ろしく平坦で、恐ろしく薄っぺらい、一般常識の様な代物に寄り添っているだけだ。
それ故にこそ、逆に、理解しやすいのではないかと、考えている。
だから、出来るだけシンプルな例が解りやすいだろうから、ここは落語 (Rakugo) でシュミレートしてみる。
古典落語 (Rakugo Classics) を学び、古典落語 (Rakugo Classics) を演じる。その噺家 (Storytelle) に作家性 (Creator’s Identity) と謂うモノは存在するだろうか。
おのれの師匠の演目を、一字一句そのままに模写し、それを正確無比に再現するところから始まるであろう古典落語 (Rakugo Classics) の学習と謂うモノの中で、語られるべき物語の語り手としての、自分自身と謂う存在はどれ程に必要なのか。もしくは、何れ程に不要で邪魔な存在なのか。
と、同時に、そんな自身の演目 (Titles) を目の当たりにする観客と謂うモノは、一体、なにをそこに期待しているのか。名作とされる作品がより完成に向かう姿なのか、それともその逆で、その名作に肉迫し翻弄される噺家 (Storytelle) の姿なのか。
と謂う様な妄想を繰り広げた後に、古典落語 (Rakugo Classics) と謂う文字の代わりに俳句 (Haiku) と謂う文字を入れ、噺家 (Storyteller) という文字の代わりに俳人 (Poet) と謂う文字を入れてみる。そうすると、演目 (Titles) と謂う語句は、季語 (Kigo) と謂う文字に差し替え可能なんぢゃあなかろうか、と謂う気がしてくる。
もし仮に、これが古典落語 (Rakugo Classics) ではない、他の芸術や芸能であるのならば、共演者やスタッフとの関係性も加わるし、演じたり演奏したりするモノに許される解釈の幅も、随分と変わる。
そう謂う可変性のある要素が、俳句 (Haiku) と謂う制度では、文字数だったり韻律だったりがその機能を果たすのではないか。
『ごくなぬか』解題:目次
俳句の17文字について:『ごくなぬか』解題
俳句の5-7-5について:『ごくなぬか』解題
俳句の季語について:『ごくなぬか』解題
俳句の切れもしくは切れ字について:『ごくなぬか』解題
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