2014.01.28.11.34
最終的には表題として掲げた小説『瓶詰の地獄 (Hell In A Bottle)』 [作:夢野久作 (Yumeno Kyusaku) 1928年発表] にまで辿り着けばいいと想ってはいるのだけれども、考えなければならないのは、ではどこから書き始めればいいのだろうか、というのが問題なのである。
当初の設定では、孤島を舞台とした物語のいくつかを経巡った後に辿り着けばいいと思って書き出したら、凄まじく膨大な文章量になりそうなので、断念した。
だから、いきなり、ここから始めてみる。
次の文章が、理由の接続詞 (Coordinating Conjunction) ”何故ならば (Because)”で始まっていて、本来あるべき問いかけの文章がその前にないのは、そおゆう理由です。

映画『瓶詰め地獄 (Hell In A Bottle)』 [川崎善広 (Yoshihiro Kawasaki) 監督作品 1986年制作]
何故ならば、この短い小説、書かれている事柄は極めて限定的ではあるものの、その解釈の仕方やそこに到る思考の道筋は、いくらでもあるからなのだ。
この小説を読むモノが仮に10人いたとして、その10人に読んだ結果としての粗筋を説明させれば、その結果としての10の粗筋は大同小異、代わり映えのしない粗筋が10並ぶだけの事である。
だがしかし、その10人にその粗筋とその原典である小説に関して、こちらが疑義を発すれば、ありとあらゆる様々な回答が登場するのに決まっているのである。
それは一体、何故だろうか。
その答えの一端は、すぐに発見出来る。
例えば『瓶詰の地獄』とか『瓶詰地獄』とかで、ネット検索してみて、そこにずらずらと並ぶ掲載記事のいくつかを当たればいい。
そこで指摘されているのは、文章上の、もしくは小説上の、破綻や誤記、矛盾、辻褄のあわなさなのだ。
この物語には、みっつの書簡が登場する。しかも、その書簡が時系列もばらばらに配置されている。それは誰にでも、解る。そして、その配置の冴えが、物語に硬度を与えている事も、すぐに解る。
もし仮に、時系列に素直に従って配置されたら、如何に詰まらない小説なのか、そんな暴言も謂い出しかねない程だ。
そう、だから、誰しも、この小説を読み終わった直後、時系列の順番に手紙を並べ直して、はたと気づかされるのだ。いくつもいくつも、納得出来ない点、説明出来ない点、矛盾した点や整合性を欠いた記述に。
この時点で、シャーロキアン (Sherlockian aka Holmesian) になるのは簡単だ。
だが、それで総てが解決されるとは、誰も想いはしまい。
古典的な推理小説 (Detective Fiction) では、解決されるべき事件の全容の殆どは、当事者や目撃者や関係者のことばでもって、語られる。そして、いくつもいくつも登場する証言を積み重ね、照合して出てきた結果が、その事件の真実なのである。つまり、”探偵 (The Detective)”は、総ての証言のなかにある確からしさを追求し、その一方で煩出する矛盾を精査していくのだ。
視点を変えれば、推理小説 (Detective Fiction) に登場する証言の総て、そのひとつひとつのなかを読んで、うそとほんとうとを見極めていく事が捜査であり、事件解決への手立てであるのだ。
さらに謂えば、読者であるぼく達はみな、そこに書かれている証言のなかにある、うそとほんとうに翻弄され続けているだけであり、もしかしたら、それこそが推理小説 (Detective Fiction) を読む快感なのかもしれない。
そこに気づいてしまうと、もうひとつべつの事にぼく達は気づいているのかもしれない。それは物語の後半に登場して、総てをかっさらってゆく”探偵 (The Detective)”というモノの存在だ。
彼もまた、語るだけの人物なのだ。
いくつもいくつも登場する証言からうそとほんとうとを峻別するその当の人物が行うのは結局のところ、もうひとつの、新しい証言でしかない事を。
物語の中では、都合良く、”探偵 (The Detective)”の長広舌が終わるや否や、真犯人 (The Real Criminal) の自供が始まってその幕引きが始まる。だが、古典的な推理小説 (Detective Fiction) の中に於いても、それはごく一部の幸運な物語でしかない。真犯人 (The Real Criminal) と目されている人物が死亡している場合や逃亡し失踪している場合、その犯行をその物語の描かれている時代では裁き得ない場合、そしてその上に、”探偵 (The Detective)”の手許にあるモノが状況証拠 (Circumstantial Evidence) の徒な積み重ねでしかない場合、等々。
だから、冷酷な読み方をすれば、”探偵 (The Detective)”が必ずしも正義だけを説いているのではない、彼のことばの中にもうそとほんとうが潜んでいる場合だって充分にあるのだ。
”探偵 (The Detective)” と目されていた人物こそが真犯人 (The Real Criminal) であった、そんな物語はざらなのだ。
”探偵 (The Detective)”ですらそうであるのならば、肝心のこの推理小説の語り手はどうなのだろうか。何故、”探偵 (The Detective)”シャーロック・ホームズ (Sherlock Holmes) は、と謂うよりはその創造主であるアーサー・コナン・ドイル (Sir Arthur Conan Doyle) は、ジョン・H・ワトスン (John H. Watson) という存在、書き手を必要としたのか。
推理小説 (Detective Fiction) が、物語の記述者という客観的な視点を持つ事よりも、事件に実際に携わるあるひとりの人物による記述である事を、何故、必要としたのか。
それはいいかい、物語の書き手の記述の中にもまた、うそとほんとうが存在しうる様に、ってことだよ。
それを実証したのが『アクロイド殺し
(The Murder Of Roger Ackroyd
)』 [作:アガサ・クリスティ (Agatha Christie) 1926年発表] なのだ。
『瓶詰の地獄 (Hell In A Bottle)』 [作:夢野久作 (Yumeno Kyusaku) 1928年発表] を既にある推理小説 (Detective Fiction) の常道に当て嵌めてみると、物語冒頭の証言しかない。その真偽を追求する”探偵 (The Detective)”も登場しなければ、その真偽を追求する為の手立ても殆どない。だから、その物語に登場するみっつの書簡に書かれている事を信じる訳にもいかないし、疑う訳にもいかない。蛇足をもって認じて語れば、真犯人 (The Real Criminal) をや、だ。
総てが書簡すなわち、テキストというかたちでしか存在していないし、しかもそのみっつの書簡の存在を主張する小説もまた、テキストだ。
解決すべき事件があるのかないのか、捜査すべき犯罪がそこにあるのかないのか、それすらも皆目検討がつかない。否、謎が謎のまま、放置されている、それこそが謎の根源だ。
テキストのなかにあるテキストという入れ子構造 (Nested Structure) が、二重にも三重にも真実を覆い隠す一方でいくつもいくつも謎と疑義を孕んで産むのである。
小説というモノは元来そおゆうモノであって、いくつもいくつも多重に重ねられたフレームの中のフレームという入れ子構造 (Nested Structure) の中にあって、初めて物語られるモノなのだ。だから、この手法はある意味で原点回帰 (Go Back To Your Roots)、先祖帰り (Reversion) と呼ぶべき手法かもしれない。
ただ、物語の作者は、この小説でなし得た成果に、思いの外に満足した。
そして、ただただ、いくつもの証言、いくつものテキスト、そんな常にうそとほんとうが魑魅魍魎 (Evil Spirits Of Mountains And Rivers) の様に混淆している迷宮 (Labyrinth) の様な小説を目論んだ。
夢野久作 (Yumeno Kyusaku) の、畢竟の大作『ドグラ・マグラ (Dogra Magra)』が発表されたのは『瓶詰の地獄 (Hell In A Bottle)』 [作:夢野久作 (Yumeno Kyusaku) 1928年発表] から7年後、1935年の事である。
次回は「く」。
附記:
誰でもいいから、物語の作者が何故、このみっつの書簡で構成された小説の題名を『瓶詰の地獄 (Hell In A Bottle)』 [作:夢野久作 (Yumeno Kyusaku) 1928年発表] としたのか、説明してご覧?
このタイトルでは、物語の舞台が孤島である事も、物語の主人公がその島に流れ着いた幼い兄妹である事も語られていないんだよ?
つまり、そんな事よりも、物語の作者にとっては、瓶の中に封印された手紙に記述された証言である方が、重要事だった、そう考えてはいけないかね?
当初の設定では、孤島を舞台とした物語のいくつかを経巡った後に辿り着けばいいと思って書き出したら、凄まじく膨大な文章量になりそうなので、断念した。
だから、いきなり、ここから始めてみる。
次の文章が、理由の接続詞 (Coordinating Conjunction) ”何故ならば (Because)”で始まっていて、本来あるべき問いかけの文章がその前にないのは、そおゆう理由です。

映画『瓶詰め地獄 (Hell In A Bottle)』 [川崎善広 (Yoshihiro Kawasaki) 監督作品 1986年制作]
何故ならば、この短い小説、書かれている事柄は極めて限定的ではあるものの、その解釈の仕方やそこに到る思考の道筋は、いくらでもあるからなのだ。
この小説を読むモノが仮に10人いたとして、その10人に読んだ結果としての粗筋を説明させれば、その結果としての10の粗筋は大同小異、代わり映えのしない粗筋が10並ぶだけの事である。
だがしかし、その10人にその粗筋とその原典である小説に関して、こちらが疑義を発すれば、ありとあらゆる様々な回答が登場するのに決まっているのである。
それは一体、何故だろうか。
その答えの一端は、すぐに発見出来る。
例えば『瓶詰の地獄』とか『瓶詰地獄』とかで、ネット検索してみて、そこにずらずらと並ぶ掲載記事のいくつかを当たればいい。
そこで指摘されているのは、文章上の、もしくは小説上の、破綻や誤記、矛盾、辻褄のあわなさなのだ。
この物語には、みっつの書簡が登場する。しかも、その書簡が時系列もばらばらに配置されている。それは誰にでも、解る。そして、その配置の冴えが、物語に硬度を与えている事も、すぐに解る。
もし仮に、時系列に素直に従って配置されたら、如何に詰まらない小説なのか、そんな暴言も謂い出しかねない程だ。
そう、だから、誰しも、この小説を読み終わった直後、時系列の順番に手紙を並べ直して、はたと気づかされるのだ。いくつもいくつも、納得出来ない点、説明出来ない点、矛盾した点や整合性を欠いた記述に。
この時点で、シャーロキアン (Sherlockian aka Holmesian) になるのは簡単だ。
だが、それで総てが解決されるとは、誰も想いはしまい。
古典的な推理小説 (Detective Fiction) では、解決されるべき事件の全容の殆どは、当事者や目撃者や関係者のことばでもって、語られる。そして、いくつもいくつも登場する証言を積み重ね、照合して出てきた結果が、その事件の真実なのである。つまり、”探偵 (The Detective)”は、総ての証言のなかにある確からしさを追求し、その一方で煩出する矛盾を精査していくのだ。
視点を変えれば、推理小説 (Detective Fiction) に登場する証言の総て、そのひとつひとつのなかを読んで、うそとほんとうとを見極めていく事が捜査であり、事件解決への手立てであるのだ。
さらに謂えば、読者であるぼく達はみな、そこに書かれている証言のなかにある、うそとほんとうに翻弄され続けているだけであり、もしかしたら、それこそが推理小説 (Detective Fiction) を読む快感なのかもしれない。
そこに気づいてしまうと、もうひとつべつの事にぼく達は気づいているのかもしれない。それは物語の後半に登場して、総てをかっさらってゆく”探偵 (The Detective)”というモノの存在だ。
彼もまた、語るだけの人物なのだ。
いくつもいくつも登場する証言からうそとほんとうとを峻別するその当の人物が行うのは結局のところ、もうひとつの、新しい証言でしかない事を。
物語の中では、都合良く、”探偵 (The Detective)”の長広舌が終わるや否や、真犯人 (The Real Criminal) の自供が始まってその幕引きが始まる。だが、古典的な推理小説 (Detective Fiction) の中に於いても、それはごく一部の幸運な物語でしかない。真犯人 (The Real Criminal) と目されている人物が死亡している場合や逃亡し失踪している場合、その犯行をその物語の描かれている時代では裁き得ない場合、そしてその上に、”探偵 (The Detective)”の手許にあるモノが状況証拠 (Circumstantial Evidence) の徒な積み重ねでしかない場合、等々。
だから、冷酷な読み方をすれば、”探偵 (The Detective)”が必ずしも正義だけを説いているのではない、彼のことばの中にもうそとほんとうが潜んでいる場合だって充分にあるのだ。
”探偵 (The Detective)” と目されていた人物こそが真犯人 (The Real Criminal) であった、そんな物語はざらなのだ。
”探偵 (The Detective)”ですらそうであるのならば、肝心のこの推理小説の語り手はどうなのだろうか。何故、”探偵 (The Detective)”シャーロック・ホームズ (Sherlock Holmes) は、と謂うよりはその創造主であるアーサー・コナン・ドイル (Sir Arthur Conan Doyle) は、ジョン・H・ワトスン (John H. Watson) という存在、書き手を必要としたのか。
推理小説 (Detective Fiction) が、物語の記述者という客観的な視点を持つ事よりも、事件に実際に携わるあるひとりの人物による記述である事を、何故、必要としたのか。
それはいいかい、物語の書き手の記述の中にもまた、うそとほんとうが存在しうる様に、ってことだよ。
それを実証したのが『アクロイド殺し
『瓶詰の地獄 (Hell In A Bottle)』 [作:夢野久作 (Yumeno Kyusaku) 1928年発表] を既にある推理小説 (Detective Fiction) の常道に当て嵌めてみると、物語冒頭の証言しかない。その真偽を追求する”探偵 (The Detective)”も登場しなければ、その真偽を追求する為の手立ても殆どない。だから、その物語に登場するみっつの書簡に書かれている事を信じる訳にもいかないし、疑う訳にもいかない。蛇足をもって認じて語れば、真犯人 (The Real Criminal) をや、だ。
総てが書簡すなわち、テキストというかたちでしか存在していないし、しかもそのみっつの書簡の存在を主張する小説もまた、テキストだ。
解決すべき事件があるのかないのか、捜査すべき犯罪がそこにあるのかないのか、それすらも皆目検討がつかない。否、謎が謎のまま、放置されている、それこそが謎の根源だ。
テキストのなかにあるテキストという入れ子構造 (Nested Structure) が、二重にも三重にも真実を覆い隠す一方でいくつもいくつも謎と疑義を孕んで産むのである。
小説というモノは元来そおゆうモノであって、いくつもいくつも多重に重ねられたフレームの中のフレームという入れ子構造 (Nested Structure) の中にあって、初めて物語られるモノなのだ。だから、この手法はある意味で原点回帰 (Go Back To Your Roots)、先祖帰り (Reversion) と呼ぶべき手法かもしれない。
ただ、物語の作者は、この小説でなし得た成果に、思いの外に満足した。
そして、ただただ、いくつもの証言、いくつものテキスト、そんな常にうそとほんとうが魑魅魍魎 (Evil Spirits Of Mountains And Rivers) の様に混淆している迷宮 (Labyrinth) の様な小説を目論んだ。
夢野久作 (Yumeno Kyusaku) の、畢竟の大作『ドグラ・マグラ (Dogra Magra)』が発表されたのは『瓶詰の地獄 (Hell In A Bottle)』 [作:夢野久作 (Yumeno Kyusaku) 1928年発表] から7年後、1935年の事である。
次回は「く」。
附記:
誰でもいいから、物語の作者が何故、このみっつの書簡で構成された小説の題名を『瓶詰の地獄 (Hell In A Bottle)』 [作:夢野久作 (Yumeno Kyusaku) 1928年発表] としたのか、説明してご覧?
このタイトルでは、物語の舞台が孤島である事も、物語の主人公がその島に流れ着いた幼い兄妹である事も語られていないんだよ?
つまり、そんな事よりも、物語の作者にとっては、瓶の中に封印された手紙に記述された証言である方が、重要事だった、そう考えてはいけないかね?
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