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2014.01.21.11.48

どうえるきょうじゅのくび

幼い時は病気がちで休んでばかりいた。

だから、からだもよわく体力もなかったから運動は苦手で、体育の授業 (Physical Education) は最も苦手とするものばかりだった。
逆上がり (Back Hip Circle) は出来ないし、跳箱 (Vaulting Box) も飛び越せない、懸垂 (Pull-up) させればぶら下がりっぱなしで後は墜ちるだけ、投げるボールはふにゃふにゃなうえに逃げる脚は遅い。
ドッヂボール (Dodge Ball) では格好の標的だ。

でもその代わりに [と書いたものの、代わりとなり得るモノなのかどうか] それ以外の教科は、誰も文句がつけ様のないモノだった。
もう既に学習塾に通い学校での授業の先を学んでいる同級生も多い中で、宿題しかやっていないぼくの成績はなぜか、よかったのだ。教師の覚えもよく、授業中はおとなしくしてさえいればいいので、野放しだ。彼、ないし彼女がぼくを指名するのは、誰もわからない様な難しい問題に限られていて、解ければ解けて当然、解けなければ解けなくて当然、という顔をする。
前者の場合はぼくの様な優等生に恵まれた自分自身の僥倖に満足し、後者の場合は、優等生の限界を知り、それよりも遥かに己が優位にあると知って、模範解答を掲示出来る自分自身に有頂天になる。そんな僅かな差異があるだけだ。

ただ、ぼく自身はそんな低レベルの教師の優越感と同調している訳ではなかった。

一生懸命、必死になって挑んでも出来ないモノはいつまでたっても出来ず、しかもその上に、ぼくが出来ないそのモノは、誰もが軽々とクリアしてしまう。
さらに、ぼくにとっては、片手間の些事でしかない事は、感嘆と賞賛が常につきまとうのだ。

と、綴ってゆくとまるで、小説『人間失格 (No Longer Human)』 [太宰治 (Osamu Dazai)1948年発表] や小説『仮面の告白 (Confessions Of A Mask)』 [三島由紀夫 (Yukio Mishima)1949年発表] の出来損ないの様にしか読めないのだけれども、実際にそうだったから、仕様がない。

そこにある、当時のぼくは、いつでもどこにでもある物語の中に登場する、末成りの青成りのガリ勉でしかなく、しかも、そんなかたちで同級生の中から突出してしまうのは、余りにも悔しいから、そうではないぼく自身を絶えず、演出していた様な気がする。

そして、ある時季になって、そんな馬鹿馬鹿しい演技を抛擲してしまうのだけれども、それはこれから書こうと謂う事にはあまり関係はない。

ここまで綴ってきたモノゴトは、つまり、ぼくがトラウマ (Psychological Trauma) の様に抱えているあるヴィジョンが奈辺から来たモノであるのか、そのヒントとしてあるだけだ。
つまり、なぜ、頚だけの存在なのか。それはつまり、自分自身の可能性と限界を定義してしまっている身体への、憎しみや恨みの様な感情がどこにあるのか、という事なのである。

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小説『ドウエル教授の首 (Zaveshchaniye professora Douelya / Professor Dowell's Head)』[アレクサンドル・ベリャーエフ (Alexander Belyayev) 著 1925年発表] を知ったのは、そのジュブナイル版、現在では『シリーズ冒険ファンタジー名作選』の1篇『いきている首』として刊行されている『合成人間ビルケ』 [馬上義太郎 (Magami Yoshitaro) 訳 井上洋介 (Yosuke Inoe) 岩崎書店刊] でだった。小学校中学年、教室の中に誂えてあった学級文庫 (Classroom Library) の蔵書の1冊としてだ。

物語は、タイトル・ロールであるドウエル教授 (professora Douelya) の研究の成果を巡って展開されるが、そのドウエル教授 (professora Douelya) 自身が既に、自身の見出した技術の結果、つまり、頚から上だけの生体として登場する。

だから、読者であるぼく自身は、小説内でのテーマのひとつである、科学や医学に要請される倫理の問題や、それ以前に考えなければならない生命という存在よりも、身体を喪って、頚だけのまま、生きもすれば考えもする、その神秘に魅了されてしまっていたのである。

ちょっと季節の風向きが変わったり、普段とは違う場所に行ったり、いつもとは異なる部位を動かしたり、そんな程度で翌日、発熱し床を離れられなくなってしまうぼくとしては、もしかしたら、望みうるあり方だったのかも知れない。
病床にあるぼくは、既にドウエル教授 (professora Douelya) の首だった。ならば、もうその時点で、頚から下にある身体は既に不必要な存在ではないか。

だからと謂って、そう、病床から抜け出せる程の健康を取り戻したとしても、だ。
どんなに一生懸命に身体を酷使しても、他の人物とは同等の成果を得られぬぼく、そんなぼくからみれば、健康である事は余計に、自分自身が備わっている身体の不自由性を思い知らされてしまうのだ。
それ故に、不自由な身体から離脱してしまう、そんな可能性を囁く、その小説が描く科学がとても魅力あるものに映じてしまうのだ。

1980年代 (1980s) のぼくならば、『器官なき身体 (Corps-sans-organes)』 [ジル・ドゥルーズ (Gilles Deleuze)・フェリックス・ガタリ (Félix Guattari) 著『アンチ・オイディプス (Anti-Oedipus)』にて登場 1972年] とぼそっとささやきそうなものだし、その物語の代わりに、『接続された女 (The Girl Who Was Plugged In)』 [ジェイムズ・ティプトリー・Jr. (James Tiptree, Jr.) 著 1973年発表] に誘惑されていたのかもしれない。

だが実際はその逆で、ドウエル教授 (professora Douelya) の首があるからこそ、『器官なき身体 (Corps-sans-organes)』 [ジル・ドゥルーズ (Gilles Deleuze)・フェリックス・ガタリ (Félix Guattari) 著『アンチ・オイディプス (Anti-Oedipus)』にて登場。1972年] や小説『接続された女 (The Girl Who Was Plugged In)』 [ジェイムズ・ティプトリー・Jr. (James Tiptree, Jr.) 著 1973年発表] の受容を、容易くしたのである。

だけれども、こうやってネット空間に接続されてみれば、本来ならば不要となってしまっている筈の身体に、さらに支配され隷従されている様な感覚に陥るのも多々なのだ。
と、書いてしまうと今、これを読んでいる方は不審に想われるかもしれない。だが、そうなのだ。
叩くキーボードの動きや滑るマウスの動きが、その総てを決していないか?
読む情報、理解するデータ、その殆どが、己のふたつの瞳に映じて、それから初めて読解されないか?
書いて、検索して、検討して、それに基づいてさらに書く。その細かい作業の手間隙の煩わしさは、この空間にあるからこそ派生しているものだ。

もしかしたら、かつてよりも、なお、更に、己の身体の有様が総てを決している。
そんな不自由感に今、満ちているのも、この小説の観えない呪縛なのかもしれない。

次回は『』。

附記 1.:
TVドラマ『キイハンター (Key Hunter)』19681972TBS系列放映] に、この小説をモチーフにした1篇があった。今では、そのエピソード名も不明だけれども、頚だけの生体役はジェリー藤尾 (Jerry Fujio) が演じていたという事だけは記憶がある。つまり、頚だけの存在として登場している時間よりも、その後の他者の肉体との接合手術を経て、異なる人物として行動する、そちらの方がその物語の主眼なのである。

附記 2.:
この小説に題材をとった、日本未公開の映画『怪奇! 呪いの生体実験 (The Frozen Dead)』 [ハーバート・J・レダー (Herbert J. Leder) 監督作品 1967年制作] は、TV放送された際に観た記憶がある。そのくせ、小説に範をとった同名の映画『ドウエル教授の首 (Zaveshchaniye professora Douelya / Professor Dowell's Head)』 [レオニード・メナケル (Leonid Menaker) 監督作品 1984年制作] は未見。

附記 3. :
石ノ森章太郎 (Shotaro Ishinomori) が描く、マンガ『仮面ライダー (Kamen Rider)』 [19711972週刊ぼくらマガジン週刊少年マガジン連載] では物語最終部、仮面ライダー1号 (Kamen Rider 1) である本郷猛 (Takeshi Hongo) は肉体を喪い、脳髄 (Brain) だけの存在となってしまい、ロボットである仮面ライダー1号 (Kamen Rider 1) を遠隔操作しなければならない羽目に陥る。これはある意味、同じ作家の描くマンガ『サイボーグ009 (Cyborg 009)』[19641965週刊少年キング連載 / 1967週刊少年マガジン連載] で、司令塔001 イワン・ウイスキー (Ivan Whisky : Cyborg 001) が意識を喪った009 島村ジョー (Joe Shimamura : Cyborg 009) を操縦するのと、同工異曲だ [と、書いたものの、どのエピソードなのか記憶が曖昧だ、もしかしたら捏造してしまっているのかもしれない]。
そのオリジンはキャプテン・フューチャー・シリーズ (Captain Future) [エドモンド・ハミルトン (Edmond Hamilton) 創作] の、生ける脳漿 (A Human Brain living In A Box) ことサイモン・ライト (Simon Wright) に求めるべきなのだろうか。
そして、そのサイモン・ライト (Simon Wright) とドウエル教授 (professora Douelya) との関係性を考えるべきなのだろうか。

附記 4.:
一方で、永井豪 (Go Nagai) 描くマンガ『マジンガーZ (Mazinger Z)』[19721973週刊少年ジャンプ連載] には、身体と頭部が分離したブロッケン伯爵 (Count Brocken) が登場するが、これはドウエル教授 (professora Douelya) とは異なる系譜にあるものだと想う。頚のない騎士の怪異を描く映画『スリーピー・ホロウ (Sleepy Hollow)』 [ティム・バートン (Tim Burton) 監督作品 1999年制作] がベースにした、都市伝説 (Urban Legend) としてのスリーピー・ホロウ (Sleepy Hollow) とそこに出没するヘッドレス・ホースマン [首なし騎士] (The Headless Horseman) とかデュラハン (Dullahan) とか呼ばれるモノをそのオリジンとすべきもので、似て非なるモノだと想う。
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