2014.01.07.10.35
聖書 (Bible) に登場するヤコブ (Jacob) … 、とは謂っても新約聖書 (Novum Testamentum) に登場する方のふたりのヤコブ (Jacob) についてはここでは触れない予定。彼らはふたりとも12使徒 (Apostoli) に遇されている訳だけれども、彼らを語る程には、ぼくの中には彼らの人物像が形作られてはいない。
特に、小ヤコブ (James The Less) と呼び習わされているアルファイの子ヤコブ (Iacobus Minor) の方は、新約聖書 (Novum Testamentum) にはその名が記されてあるだけで、具体的な行動の記録は一切ないのだ。
まるで、悪魔くん (Akuma-kun) の許しを得、彼の12使徒 (Apostoli) の一人としての一隅を得たものの、その直後に蓬莱 (Mount Penglai) 間近の海で海獣に喰われて”殉教 (Martyr)”してしまった第9使徒駐在 (Police Substation Staff) の様でもある [『悪魔くん復活 千年王国
(Akuma-kun Fukkatsu : Sennen Okoku)』 [水木しげる (Shigeru Mizuki) 作 1970年 週刊少年ジャンプ連載] ]。
と、謂うか、本来は逆。新約聖書 (Novum Testamentum) に記述の殆どないアルファイの子ヤコブ (Iacobus Minor) になぞらえて、第9使徒駐在 (Police Substation Staff) なる悪魔くん (Akuma-kun) のしもべは早々にその物語から消えたに過ぎない。もしも、第9使徒駐在 (Police Substation Staff) という使徒 (Apostoli) を語ろうとするのならば、彼がしもべとして加わる前の、文字通りの駐在員 (Police Substation Staff) としての半生を語らなければならない様に、アルファイの子ヤコブ (Iacobus Minor) を語るのには、原典である新約聖書 (Novum Testamentum) ではなくて、彼を主人公に誂えたフォークロア
(Folklore) をつぶさに調べる必要があるのだろう。
と、例によって、変な方向に拙稿の論が走り出してしまっているのだけれども、書いている側から謂わせてもらうと、この迂回路を経ている間にこれから書かねばならない事ども等を整理しているのであって、ある意味で、必要不可欠な行程でもあるのだ。
さて、新約聖書 (Novum Testamentum) ではない方、つまり、旧約聖書 (Vetus Testamentum) に登場するヤコブ (Iacobus) は、日本語で謂うとその題名に「約」という言葉で反映されている、神 (JHVH / YHVH) との契約 (Covenant) を取り交わしたアブラハム (Abraham) の孫にあたる。つまり、神 (JHVH / YHVH) の御名の下に、実父アブラハム (Abraham) によって焚死 (The Binding Of) させられそうになり、神 (JHVH / YHVH) の御名の下にからくもその犠牲 (Sacrifice) を免れたイサク (Isaac) の、息子にあたる。
だから旧約聖書 (Vetus Testamentum) のヤコブ (Iacobus) とは、映画『天地創造
(The Bible : In The Beginning)』 [ジョン・ヒューストン (John Huston) 監督作品 1966年制作] で描かれた物語の、次の世代の主役となるべき人物なのである。
ここで宗教に関する書籍でも、信仰を描いた美術作品でも、そのどちらでもなんでもない娯楽作品であるところの映画を引き合いに出したのは、大した理由がある訳ではないけれども、だからと謂って、全くもって無遠慮でも無防備でも無作為でもない。イメージ喚起力は、動く映像が一番あるからだろうと謂う、そんな理由である。
だからと謂って、ヤコブ (Iacobus) や彼の世代を主軸に据えた様な、続編が編まれている訳ではない。もしかしたら、信仰の厚い国のどこかで実際にはあるのかもしれないが、少なくとも、ティンゼルタウン (Tinseltown) でバビロン (Babylon) な、ハリウッド (Hollywood) 資本の映画作品はないと想う。
ヤコブ (Iacobus) の境涯は、いくつもの挿話によって繰り広げられているが、主となるものは、ふたつの物語だ。
ひとつは、彼の双子の兄エサウ (Esau) との確執と和解の物語。
もうひとつは、彼と彼の一族がエジプト (Egypt) に移住する物語。
そして、このふたつの物語のあいだに、神 (JHVH / YHVH) との交流がふたつあり、その交流が、上にあげたそれぞれの物語の動機にも結論にもなる。
ひとつがヤコブの階梯 (Jacob’s Ladder) と呼ばれる挿話であって、ここで神 (JHVH / YHVH) がヤコブ (Iacobus) に安住すべき地を与える。もうひとつは、天使との格闘 (Jacob Wrestling With The Angel) の挿話であって、この闘いの後、彼はイスラエル (Israel) という新たなる名前を与えられ、それがそのまま、現存する国名の許ともなっている。
こうやって凄まじく大雑把に、ヤコブ (Iacobus) の物語を要約してみると、まるで、彼の前の世代の物語の再演の様に読めてくる。
つまり、前者はカインとアベル (Cain And Abel) の物語を彷彿とさせるし、後者は彼の祖父、アブラハム (Abraham) の永い人生を憶い出させもするのだ。
ああ、そうだ。ここでこうやって書いておけばいいのだ。
それを手っ取り早く確認したければ映画『天地創造
(The Bible : In The Beginning)』 [ジョン・ヒューストン (John Huston) 監督作品 1966年制作] を観ればいい、と。
さて、では、この再演劇を、どお理解すべきなのだろうか。
ただ、いまのぼくに謂える事は、イエス・キリスト (Iesus) の物語である新約聖書 (Novum Testamentum) は、あたかも旧約聖書 (Vetus Testamentum) のいくつかの挿話をなぞる様にして語られている、という事だ。
それをいちいち取り上げて参照していく余裕はないけれども、ひとつだけ。
日本語で謂うところの旧約に対照される新約の「約」に充たる神 (JHVH / YHVH) との”新しい”契約 (Covenant) が、イエス・キリスト (Iesus) と神 (JHVH / YHVH) とのあいだでなされたモノ、なのである。
もう一度、繰り返して書く。
旧約聖書 (Vetus Testamentum) ではアブラハム (Abraham) が神 (JHVH / YHVH) との契約 (Covenant) を交わし得たその挿話が語られている様に、新約聖書 (Novum Testamentum) ではイエス・キリスト (Iesus) も神 (JHVH / YHVH) との契約 (Covenant) を交わし得たのである。
そして、旧約聖書 (Vetus Testamentum) ではアブラハム (Abraham) の境涯をなぞる様にして、その孫ヤコブ (Iacobus) の物語が綴られていて、そこではヤコブ (Iacobus) は新しい安息の地とイスラエル (Israel) と謂う称号を得ているのである。
では、ヤコブ (Iacobus) と、イエス・キリスト (Iesus) との関係はどの様なモノになるのだろうか。
だが、ヤコブ (Iacobus) の物語は、かつてこれまで語られてきた、彼の祖先の物語の再演とは、ひとつだけ違うモノがある。
それが、彼が天使との格闘 (Jacob Wrestling With The Angel) をなし得たところにある。物語のなかでは、彼は己に敵対するモノが天使 (Angelus) だとはつゆ知らなかった様だが、後にも先にも、聖書 (Bible) という物語の中で、神 (JHVH / YHVH) に属するモノと敵対したモノはいないし、しかも互角だったモノはいない。
バベルの塔 (Tower Of Babel) も、ノアの方舟 (Arca Noe) に乗らなかったモノも、ソドムもゴモラも (Sodom And Gomorrah) も、神 (JHVH / YHVH) の唯々諾々によって、滅ぶべきモノとして滅ぼされたのである。
ある意味、信仰を試されたアブラハム (Abraham) にも、[ヤコブ (Iacobus) の物語の後に登場する] ヨブ (Job) にも、匹敵するかの様な、もしかしたら、それよりも厳しいかたちでの試練だったのかもしれない。
だから逆の視点からみれば、何故、ヤコブ (Iacobus) にその様なモノが待ち構えていたのだろうか、という疑問にもなるのである。

『説教のあとの幻影(ヤコブと天使の闘い) (Vision apres le sermon ou Lutte de Jacob avec l’ange)』 by ポール・ゴーギャン (Paul Gauguin)
次回は「ぶ」。
特に、小ヤコブ (James The Less) と呼び習わされているアルファイの子ヤコブ (Iacobus Minor) の方は、新約聖書 (Novum Testamentum) にはその名が記されてあるだけで、具体的な行動の記録は一切ないのだ。
まるで、悪魔くん (Akuma-kun) の許しを得、彼の12使徒 (Apostoli) の一人としての一隅を得たものの、その直後に蓬莱 (Mount Penglai) 間近の海で海獣に喰われて”殉教 (Martyr)”してしまった第9使徒駐在 (Police Substation Staff) の様でもある [『悪魔くん復活 千年王国
と、謂うか、本来は逆。新約聖書 (Novum Testamentum) に記述の殆どないアルファイの子ヤコブ (Iacobus Minor) になぞらえて、第9使徒駐在 (Police Substation Staff) なる悪魔くん (Akuma-kun) のしもべは早々にその物語から消えたに過ぎない。もしも、第9使徒駐在 (Police Substation Staff) という使徒 (Apostoli) を語ろうとするのならば、彼がしもべとして加わる前の、文字通りの駐在員 (Police Substation Staff) としての半生を語らなければならない様に、アルファイの子ヤコブ (Iacobus Minor) を語るのには、原典である新約聖書 (Novum Testamentum) ではなくて、彼を主人公に誂えたフォークロア
と、例によって、変な方向に拙稿の論が走り出してしまっているのだけれども、書いている側から謂わせてもらうと、この迂回路を経ている間にこれから書かねばならない事ども等を整理しているのであって、ある意味で、必要不可欠な行程でもあるのだ。
さて、新約聖書 (Novum Testamentum) ではない方、つまり、旧約聖書 (Vetus Testamentum) に登場するヤコブ (Iacobus) は、日本語で謂うとその題名に「約」という言葉で反映されている、神 (JHVH / YHVH) との契約 (Covenant) を取り交わしたアブラハム (Abraham) の孫にあたる。つまり、神 (JHVH / YHVH) の御名の下に、実父アブラハム (Abraham) によって焚死 (The Binding Of) させられそうになり、神 (JHVH / YHVH) の御名の下にからくもその犠牲 (Sacrifice) を免れたイサク (Isaac) の、息子にあたる。
だから旧約聖書 (Vetus Testamentum) のヤコブ (Iacobus) とは、映画『天地創造
ここで宗教に関する書籍でも、信仰を描いた美術作品でも、そのどちらでもなんでもない娯楽作品であるところの映画を引き合いに出したのは、大した理由がある訳ではないけれども、だからと謂って、全くもって無遠慮でも無防備でも無作為でもない。イメージ喚起力は、動く映像が一番あるからだろうと謂う、そんな理由である。
だからと謂って、ヤコブ (Iacobus) や彼の世代を主軸に据えた様な、続編が編まれている訳ではない。もしかしたら、信仰の厚い国のどこかで実際にはあるのかもしれないが、少なくとも、ティンゼルタウン (Tinseltown) でバビロン (Babylon) な、ハリウッド (Hollywood) 資本の映画作品はないと想う。
ヤコブ (Iacobus) の境涯は、いくつもの挿話によって繰り広げられているが、主となるものは、ふたつの物語だ。
ひとつは、彼の双子の兄エサウ (Esau) との確執と和解の物語。
もうひとつは、彼と彼の一族がエジプト (Egypt) に移住する物語。
そして、このふたつの物語のあいだに、神 (JHVH / YHVH) との交流がふたつあり、その交流が、上にあげたそれぞれの物語の動機にも結論にもなる。
ひとつがヤコブの階梯 (Jacob’s Ladder) と呼ばれる挿話であって、ここで神 (JHVH / YHVH) がヤコブ (Iacobus) に安住すべき地を与える。もうひとつは、天使との格闘 (Jacob Wrestling With The Angel) の挿話であって、この闘いの後、彼はイスラエル (Israel) という新たなる名前を与えられ、それがそのまま、現存する国名の許ともなっている。
こうやって凄まじく大雑把に、ヤコブ (Iacobus) の物語を要約してみると、まるで、彼の前の世代の物語の再演の様に読めてくる。
つまり、前者はカインとアベル (Cain And Abel) の物語を彷彿とさせるし、後者は彼の祖父、アブラハム (Abraham) の永い人生を憶い出させもするのだ。
ああ、そうだ。ここでこうやって書いておけばいいのだ。
それを手っ取り早く確認したければ映画『天地創造
さて、では、この再演劇を、どお理解すべきなのだろうか。
ただ、いまのぼくに謂える事は、イエス・キリスト (Iesus) の物語である新約聖書 (Novum Testamentum) は、あたかも旧約聖書 (Vetus Testamentum) のいくつかの挿話をなぞる様にして語られている、という事だ。
それをいちいち取り上げて参照していく余裕はないけれども、ひとつだけ。
日本語で謂うところの旧約に対照される新約の「約」に充たる神 (JHVH / YHVH) との”新しい”契約 (Covenant) が、イエス・キリスト (Iesus) と神 (JHVH / YHVH) とのあいだでなされたモノ、なのである。
もう一度、繰り返して書く。
旧約聖書 (Vetus Testamentum) ではアブラハム (Abraham) が神 (JHVH / YHVH) との契約 (Covenant) を交わし得たその挿話が語られている様に、新約聖書 (Novum Testamentum) ではイエス・キリスト (Iesus) も神 (JHVH / YHVH) との契約 (Covenant) を交わし得たのである。
そして、旧約聖書 (Vetus Testamentum) ではアブラハム (Abraham) の境涯をなぞる様にして、その孫ヤコブ (Iacobus) の物語が綴られていて、そこではヤコブ (Iacobus) は新しい安息の地とイスラエル (Israel) と謂う称号を得ているのである。
では、ヤコブ (Iacobus) と、イエス・キリスト (Iesus) との関係はどの様なモノになるのだろうか。
だが、ヤコブ (Iacobus) の物語は、かつてこれまで語られてきた、彼の祖先の物語の再演とは、ひとつだけ違うモノがある。
それが、彼が天使との格闘 (Jacob Wrestling With The Angel) をなし得たところにある。物語のなかでは、彼は己に敵対するモノが天使 (Angelus) だとはつゆ知らなかった様だが、後にも先にも、聖書 (Bible) という物語の中で、神 (JHVH / YHVH) に属するモノと敵対したモノはいないし、しかも互角だったモノはいない。
バベルの塔 (Tower Of Babel) も、ノアの方舟 (Arca Noe) に乗らなかったモノも、ソドムもゴモラも (Sodom And Gomorrah) も、神 (JHVH / YHVH) の唯々諾々によって、滅ぶべきモノとして滅ぼされたのである。
ある意味、信仰を試されたアブラハム (Abraham) にも、[ヤコブ (Iacobus) の物語の後に登場する] ヨブ (Job) にも、匹敵するかの様な、もしかしたら、それよりも厳しいかたちでの試練だったのかもしれない。
だから逆の視点からみれば、何故、ヤコブ (Iacobus) にその様なモノが待ち構えていたのだろうか、という疑問にもなるのである。

『説教のあとの幻影(ヤコブと天使の闘い) (Vision apres le sermon ou Lutte de Jacob avec l’ange)』 by ポール・ゴーギャン (Paul Gauguin)
次回は「ぶ」。
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