2013.12.27.06.50
おっしゃるとおりです。
TVをつけると、いつものとおりだ。
キャスターが質問をなげかけると同時にそこで、自説を展開する。それに対するゲスト・コメンテーターの第一声は、いつもおなじ。
おっしゃるとおりです。
そのことばをひきとりながら、彼ないし彼女はことばを続けるが、キャスターの投げかけた自説の補足でしかない。いや、補足や補強ならなまだましだ。単純にそれをなぞって、おなじ説をちがうことばで繰り返すだけだ。
もしかしたらそこで、専門用語が飛び出るだけだから、かえってたちがわるいのかもしれない。
考える時間があって、考える余裕のあるものだけが、キャスターのことばを反芻できる。
そして気づく。
ゲスト・コメンテーターの発言から、難解な用語や専門的な知識をのぞいたものが、先にあるキャスターの質問と自説なのだ、と。
むかし習ったのは、弁証法だ。論理的に考えるために、最初に学習するものだ。
それは常に、まえにある発言を否定するところからはじまる。
その方法が、TVになじまないのは、すこし考えればすぐにわかる。
なぜならば、番組をしきっているはずのキャスターの発言や質問に対する回答がすべて、否定形からはじまるからだ。
これでは、キャスターのめんつもたたない。同時に、番組自体の質も疑われる。
だから、ゲスト・コメンテーターには自身とその発言を肯定してもらえるようなかたちで、キャスターは彼ないし彼女に問いを発っしようとする。
その努力の結果だ。
「おっしゃるとおりです」とは。
事前に学習もしているのかもしれないし、事前に質問事項の打ち合わせもしているのかもしれない。
それは必要なものかもしれない。
だが結果的に、画面のなかでかわされることばは、ちっぽけな承認要求の繰り返しでしかない。
もし仮に、キャスターの展開する自説をのりこえるようなかたちで、発言をきりかえすゲスト・コメンテーターがいるとしたら、その人物自身に、番組なりメディアをもたせればそれでいい。
そんなつもりで、いつもその番組をながめている。
[the text inspired from the song “Yes It Is” from the album “Past Masters, Volume One
” by The Beatles]
TVをつけると、いつものとおりだ。
キャスターが質問をなげかけると同時にそこで、自説を展開する。それに対するゲスト・コメンテーターの第一声は、いつもおなじ。
おっしゃるとおりです。
そのことばをひきとりながら、彼ないし彼女はことばを続けるが、キャスターの投げかけた自説の補足でしかない。いや、補足や補強ならなまだましだ。単純にそれをなぞって、おなじ説をちがうことばで繰り返すだけだ。
もしかしたらそこで、専門用語が飛び出るだけだから、かえってたちがわるいのかもしれない。
考える時間があって、考える余裕のあるものだけが、キャスターのことばを反芻できる。
そして気づく。
ゲスト・コメンテーターの発言から、難解な用語や専門的な知識をのぞいたものが、先にあるキャスターの質問と自説なのだ、と。
むかし習ったのは、弁証法だ。論理的に考えるために、最初に学習するものだ。
それは常に、まえにある発言を否定するところからはじまる。
その方法が、TVになじまないのは、すこし考えればすぐにわかる。
なぜならば、番組をしきっているはずのキャスターの発言や質問に対する回答がすべて、否定形からはじまるからだ。
これでは、キャスターのめんつもたたない。同時に、番組自体の質も疑われる。
だから、ゲスト・コメンテーターには自身とその発言を肯定してもらえるようなかたちで、キャスターは彼ないし彼女に問いを発っしようとする。
その努力の結果だ。
「おっしゃるとおりです」とは。
事前に学習もしているのかもしれないし、事前に質問事項の打ち合わせもしているのかもしれない。
それは必要なものかもしれない。
だが結果的に、画面のなかでかわされることばは、ちっぽけな承認要求の繰り返しでしかない。
もし仮に、キャスターの展開する自説をのりこえるようなかたちで、発言をきりかえすゲスト・コメンテーターがいるとしたら、その人物自身に、番組なりメディアをもたせればそれでいい。
そんなつもりで、いつもその番組をながめている。
[the text inspired from the song “Yes It Is” from the album “Past Masters, Volume One
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