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2013.12.24.05.20

だなえ

夢を観ているのだろうか。それとも、これからはじまる陶酔の時にこころを踊らせているのだろうか。それとも、それはすでにさなかの出来事であって、歓喜の極みにあるのだろうか。
裸身の彼女の、おおきく開かれた股間の、その中央にあるほの暗い彼女の深奥へと、黄金の雨がいま、ふりそそぐ。

惚けた戯言の様な、下手な惹句の様な、まるでどこぞの安手の官能小説から抜き出したかの様な、痴れ言は、グスタフ・クリムト (Gustav Klimt) の『ダナエ (Danae)』 [1907年制作] の、観たまんまの印象を書き出したのにすぎない [この手の文章をものしたいのならば、やっぱり川上宗薫 (Soukun Kawakami) とか熟読した方がいいのかなぁ]。

ギリシア神話 (Greek Mythology) でのダナエ (Danae) とは、およそ次の様な女性である。
ダナエ (Danae) はその父であるアルゴス王 アクリシオス (Acrisius, King Of Argos) によって永らく幽閉されていた。何故ならば、彼女の息子、彼自身にとっての孫によって殺されるという神託 (Oracle) を既に得ていたからである。つまり、男性と接する機会を彼女から奪い、孫の生誕を回避する事によって、己の安泰と栄華を担保しようと目論んでいたのである。
だがそれも大神ゼウス (Zeus) によって破られる。彼女の美貌に魅了された大神が、地下深く幽閉された彼女の許、黄金の雨 (Golden Shower) に化身して、彼女と媾合するのである。
そしてダナエ (Danae) は大神の息子を孕み、産む。
これ以降、神託 (Oracle) が成就するか否か、彼女を中心に据えた3世代の永い物語は、他のギリシア神話 (Greek Mythology) のエピソードと同様に、どこまでも続く。
だけれども、絵画作品におけるダナエ (Danae) という主題は、この黄金の雨 (Golden Shower) の挿話を描いたモノが、断然に多いのだ。

グスタフ・クリムト (Gustav Klimt) の『ダナエ (Danae)』 [1907年制作] も、そのひとつである。
だけれども、いくつもある黄金の雨 (Golden Shower) を描いた作品のなかにあって、この作品は特異である。

そして、その特異である点をここでは綴るべきなのだろうけれども、その前に少し、遠回りをしてみる事にする。

ここ数週間、TV番組『怪奇大作戦 (S.R.I. und die unheimlichen Falle)』 [円谷プロダクション (Tsuburaya Productions) 制作 19681969TBS系列放映] の全話を、放映された順番に従って、観直している。
第8話『光る通り魔 (Der Tote vom Berg Aso)』 [脚本:上原正三 (Syouzo Uehara)、市川森一 (Shinichi Ichikawa) 監督:円谷一 (Hajime Tsuburaya) 特殊技術:的場徹 (Toru Matoba)] を観た時の事である。

物語はこのシリーズ作品の他のものと同様に、ある怪死から始まる。
以来、その怪死はそれだけでは終わらない。同じ様な怪死が続く。しかも、その連続事件はある女性の周囲に起こり、常にその女性も死の危機に曝され続けている。科学捜査研究所 (SRI : Science Research Institute) が事件解決へと乗り出し、その連続した怪死の正体は、燐光人間 (Human Phosphorescence) のモノだと解る。では、その燐光人間 (Human Phosphorescence) は、如何なる意図をもって、女性の許に顕われるのであろうか。

と、謂う様に、粗筋を綴っていけば、あるヒトビトはある映画を思いつくだろう。
しかもそれは、そのヒトビトにとっては、謂うまでもないモノ、お馴染のモノだ。
つまり、TV番組『怪奇大作戦 (S.R.I. und die unheimlichen Falle)』 [円谷プロダクション (Tsuburaya Productions) 制作 19681969TBS系列放映] と同じく円谷英二 (Eiji Tsuburaya) が制作に関わった映画『美女と液体人間 (The H-Man)』 [監督:本多猪四郎 (Ishiro Honda)円谷英二 (Eiji Tsuburaya) 1958年作品] の事である。

この映画でも、液体人間 (Liquid Men) は様々な場所に顕われて、それに遭遇してしまったヒトビトを襲いながら、ある女性の許へと向かうのである。

液体人間 (Liquid Men) がその女性を襲う目的は、最初から最期まで解らない。そもそもそれに意識や意図というモノがあるのかどうかも解らない。人間に備わる様な知性、さもなければ、脊椎動物 (Vertebrate) に備わる程度の知能があるのかどうか、それも解らない。いや、それ以前に、生物か否か、そこまで根源的な疑問に向かわなければならない、得体の知れないモノなのである。

ただ物語の中では、それに襲われ、それと同化した被害者のひとりに、その女性の情夫がいたという事実を、映画を観るぼく達は知らされている。だから、恐らく、彼の知性や記憶の片々が、それに彼女を襲わせているのであろうと、観るぼく達にとって都合の良い解釈を、促すだけなのである。

TV番組『怪奇大作戦 (S.R.I. und die unheimlichen Falle)』 [円谷プロダクション (Tsuburaya Productions) 制作 19681969TBS系列放映] の第8話『光る通り魔 (Der Tote vom Berg Aso)』 [脚本:上原正三 (Syouzo Uehara)、市川森一 (Shinichi Ichikawa) 監督:円谷一 (Hajime Tsuburaya) 特殊技術:的場徹 (Toru Matoba)] に登場する燐光人間 (Human Phosphorescence) もまた、科学捜査研究所 (SRI : Science Research Institute) の捜査によって、かつては一般の成人男性であった事が判明し、かつて人間であったそれと渦中の女性との関係から次第に、燐光人間 (Human Phosphorescence) の犯行の動機が明らかになってゆく。
だから、この作品を観るモノは次第に、映画映画『美女と液体人間 (The H-Man)』 [監督:本多猪四郎 (Ishiro Honda)円谷英二 (Eiji Tsuburaya) 1958年作品] で語られた物語の連想に淫する事になるのだけれども、その誘惑に抗いがたい時になって、初めて事件の真相が判明する。
つまり、第8話『光る通り魔 (Der Tote vom Berg Aso)』 [脚本:上原正三 (Syouzo Uehara)、市川森一 (Shinichi Ichikawa) 監督:円谷一 (Hajime Tsuburaya) 特殊技術:的場徹 (Toru Matoba)] という物語は、映画『美女と液体人間 (The H-Man)』 [監督:本多猪四郎 (Ishiro Honda)円谷英二 (Eiji Tsuburaya) 1958年作品] の翻案作品として貶めて観るよりもむしろ、映画で語られている物語を誰もが知っているという前提に立って、しかも、それを逆転させて、あらたな物語に遭遇させようとする意図があると、解釈して観る方が、遥かに面白いのだ。

だけれども、残念ながら、ここから先をぼくが語る訳にはいかない。
もし、この駄文で興味を持たれたのならば、映画とTV放映作品、その双方を観る事をお薦めする。

それよりも、第8話『光る通り魔 (Der Tote vom Berg Aso)』 [脚本:上原正三 (Syouzo Uehara)、市川森一 (Shinichi Ichikawa) 監督:円谷一 (Hajime Tsuburaya) 特殊技術:的場徹 (Toru Matoba)] の物語を終焉まで語る代わりにぼくがしなければならないのは、このふたつの作品に共通するモノが、ダナエ (Danae) の黄金の雨 (Golden Shower) の挿話であると謂う事だ。

いや、このふたつの物語に限ってのモノではない。
ある得体の知れないナニモノかが、ヒトである事を放棄してしまったナニモノかが、女性の許に訪れて媾合を迫る、そんな物語の構造は総て、ダナエ (Danae) の黄金の雨 (Golden Shower) の逸話に依っているのではないだろうか。

瓜子姫 (Princess Uriko) の許を天邪鬼 (Amanojaku) が訪れるのも、赤頭巾 (Rotkappchen) の先回りをしておばあさん (Grossmutter) を訪なう狼 (Wolf) も、ドラキュラ伯爵 (Count Dracula) が黒い霧と化してルーシー・ウェステンラ (Lucy Westenra) の寝室に忍ぶのも、総ては同じ物語なのだ。
だから、映画『美女と液体人間 (The H-Man)』 [監督:本多猪四郎 (Ishiro Honda)円谷英二 (Eiji Tsuburaya) 1958年作品] と同じ東宝 (Toho)変身人間シリーズ (Transformed Sci-fi Horror Movie Series) の1篇である映画『ガス人間第一号 (The Human Vapor)』 [監督:本多猪四郎 (Ishiro Honda) 1960年作品] で、人非人 (Sub-human) と化してしまった主人公水野 (Mizuno) [演:土屋嘉男 (Yoshio Tsuchiya)] が没落した舞踊家春日藤千代 (Fujichiyo Kasuga) [演:八千草薫 (Kaoru Yachigusa)] に無償の愛を貢ぐのも、同じ構図なのだ。
そしてもし仮に、ここでの男性と女性の立場を入れ替えてしまうのが可能ならば、幽霊と媾合する『牡丹灯籠 (Botan Doro)』も、同じ構造のモノとして語る事も出来るかもしれない。

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映画『美女と液体人間 (The H-Man)』 [監督:本多猪四郎 (Ishiro Honda)円谷英二 (Eiji Tsuburaya) 1958年作品] よりスチル写真、ヒロイン新井千加子 (Chikako Arai) [演:白川由美 (Yumi Shirakawa)] を襲う液体人間 (Liquid Men)。

怪奇や脅威や恐怖が夜ごと女性を、しかも美しい女性を襲うのは、恐らく、そんな理由だ。
ダナエ (Danae) にふりそそぐ黄金の雨 (Golden Shower) への類推が、そうさせるのだ。
先程、映画『美女と液体人間 (The H-Man)』 [監督:本多猪四郎 (Ishiro Honda)円谷英二 (Eiji Tsuburaya) 1958年作品] を語る際に”観るぼく達にとって都合の良い解釈”と謂ったのは、そうゆう訳だ。かつて語られていた物語の元型 (Archetyp) に依っている事によって、初めて可能となるのが、物語の飛躍や破綻、でもあるからなのだ。

だがその一方で、いくつもある絵画作品に顕われるダナエ (Danae) の黄金の雨 (Golden Shower) を観ても、そこには怪奇や脅威や恐怖が顕われているものは少ない様に思える。
むしろ、一方の主人公であるダナエ (Danae) を始め、その場に遭遇したヒトビトがあたかも、それを嘱望し歓迎しているかの様に、描かれている。
作品によっては、何処とも知れぬ虚空から舞い落ちる黄金 (Gold) を、かき集めようと目論む風情さえ見受けられるのだ。

それは何故か。

だが、その答えは簡単だ。
大神が化身したのが、富の象徴である黄金 (Gold) であるからに他ならないからだ。

もしかすると、ギリシア神話 (Greek Mythology) のひとつとして、この挿話が生成された当初では、黄金の雨 (Golden Shower) とは、単なる比喩的な表現であったのかもしれない。つまり、黄金色の雨 (Rain Of Golden Colour) とか黄金の様に輝く雨 (Rain Shining Like Gold) とでも謂い顕わせそうな。
それがいつしか、黄金 (Gold) そのものが雨霰の様にふりそそがれるという表現に、すり替わったのではないだろうか。

その結果、上に書いた様に、本来描かれるべき感情の発露が一切忘却されて、それとは全く無縁の表情が描かれる様になったのではないだろうか。

そのうえで、例え、謂われなき理由であろうとも、不純な動機が見透かされていたとしても、それが財物という形骸を伴って顕われるが故に、それらは一切、看過される。
むしろ、襲われる側の、あさましい内心までもが、見透かされてしまうのだ。

グスタフ・クリムト (Gustav Klimt) の『ダナエ (Danae)』 [1907年制作] には、それが一切ない。
童女の様な純真さのまま、自らの胎内に注がれる黄金の雨 (Golden Shower) に、つまり大神ゼウス (Zeus) の下に我身を曝し、そこから沸き起こる喜悦に、その美しい裸身を抛擲しているのである。

次回は「」。

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