2013.12.17.06.24
彼を、史上、最も有名な裏切り者と、断罪するのが最も穏健な定義の様におもわれる。でも、その解釈の上に安住しようとすると、とてつもなく、居心地が悪いのも、また、事実なのだ。
彼の事をいつ、ぼくは知ったのだろう。
イエス・キリスト (Iesus) 生誕のエピソードである降臨 (Praesepe) は、保育園 (Nursery School) のクリスマス会 (Christmas Party) で初めて聴かされた様な記憶がある。
イエス・キリスト (Iesus) の死、つまり彼の受難 (Passio Christi) はいつだったのだろう。
アイコン (Icon) としての十字架 (Christian Cross) は、教義や信仰とは別のところで身近なモノだったのだけれども、その前提となるその物語を知ったのは、いつなのか。もしかすると、何度目かのリヴァイヴァル劇場公開となった、映画『ベン・ハー
(Ben-Hur)』 [ウィリアム・ワイラー (William Wyler) 1959年制作] を母子で観た時なのだろうか。いや、そんなに遅い時季である訳がない。その頃には既に小学校高学年だ。
もしかすると、ある病院の待合室だったのだろうか。毎月の様にきまって体調を崩す幼いぼくは、その時も病院にあって、そこで読んだマンガ『ゴルゴ13 (Golgo 13)』 [さいとうたかを (Takao Saito) ビッグコミック連載 1968年開始] なのかもしれない。その主人公、デューク東郷 (Duke Togo) のコード・ネームが受難 (Passio Christi) にまつわるモノである事は、周知の事実であるから、ここでは繰り返さない。ただ、この作品のロゴ・マークである、茨の冠 (A Crown Of Thorns) を戴いた髑髏 (Skull) がこちらをふりかえっているあの図象は、幼心にはやっぱり怖いモノなのだ。それは強調しておいてもいいだろう。
それとも。
もしかすると、ある日曜日の朝に放映していたテレビ番組『兼高かおる世界の旅 (Kaoru Kanetaka's "The World Around Us")』[1960~1990年 TBS系列] での事だったろうか。そこでは、何処とも知れない [と謂うのは単に記憶がないだけの事なのだけれども] ある国のある地方で開催されている謝肉祭 (Carnelevarium) での、受難 (Passio Christi) の仮面劇 (The Masque) が放送されていたのである。語り手が取材者である兼高かおる (Kaoru Kanetaka) で、聞き手が芥川隆行 (Takayuki Akutagawa)、このふたりがそこで繰り広げられている物語を当意即妙に語っていたと記憶している。
だけれども、それらではまだ、その物語の張本人のひとりである、イスカリオテのユダ (Iudas Iscariot) はまだ、顕われてはこない。
語られる物語の主軸は、処刑地であるゴルゴダの丘 (Calvariae Locus) へと歩むイエス・キリスト (Iesus) の、その歩みであって、彼にその様な苦しみをもたらす原因となった、前夜の出来事は、登場していないのである。

ウィリアム・ブレイク (William Blake) による『ユダの裏切り (Judas Betrays Him)』。
ぼくに、イスカリオテのユダ (Iudas Iscariot) という名前を強く印象づけたのは、いくつかのマンガだ。
『悪魔くん復活 千年王国
(Akuma-kun Fukkatsu : Sennen Okoku)』 [水木しげる (Shigeru Mizuki) 作 1970年 週刊少年ジャンプ連載]、『魔王ダンテ (Demon Lord Dante)』 [永井豪 (Go Nagai) 作 1971年 週刊ぼくらマガジン連載]、そして『百億の昼と千億の夜
(Ten Billion Days And One Hundred Billion Nights)』 原作:光瀬龍 (Ryu Mitsuse) 作画:萩尾望都 (Moto Hagio) 1977〜1978年 週刊少年チャンピオン連載] である。
『悪魔くん復活 千年王国
(Akuma-kun Fukkatsu : Sennen Okoku)』 [水木しげる (Shigeru Mizuki) 作 1970年 週刊少年ジャンプ連載] では、主人公である悪魔くん (Akum-kun) を救世主 (Messias) と仰ぐ第3使徒ヤモリビト (Yamoribito) として、図らずも行動せざるを得ない佐藤 (Sato) の行動によって、悪魔くん (Akuma-kun) は絶命する。それはそのままそっくりイエス・キリスト (Iesus) に対するイスカリオテのユダ (Iudas Iscariot) の行動をなぞる様なモノであって、事件終焉後、第1使徒蛙男 (Kaeru Otoko) によって、その事実を断罪されてしまうのだ。
この作品は、悪魔くん(Akum-kun) の超人的な活躍を描く一方で、その彼の行動に翻弄されつつも、彼の行動や思考を分析せざるを得ない第3使徒ヤモリビト(Yamoribito) =佐藤 (Sato) の常識人としての視点で描かれている。それは、マンガ『ゲゲゲの鬼太郎
(Gegege No Kitaro)』 [水木しげる (Shigeru Mizuki) 作 1965~1969年 週刊少年マガジン連載] での鬼太郎 (Kitaro) とねずみ男 (Nezumi Otoko) との関係性を逆転させた様なものでもあるのだが、作者のキリスト教 (Christianity) 解釈として、把握する事も可能な描写だ。
逆に謂うと、このマンガでの第3使徒ヤモリビト (Yamoribito) =佐藤 (Sato) の行動と思索をそのまま、イスカリオテのユダ (Iudas Iscariot) の理解へと、ぼくを急き立たせるモノが存在しているのかもしれない。
遺りの2篇のマンガでは、さらにそこから踏み込んだ描写と人物設定を見出せる。
『魔王ダンテ (Demon Lord Dante)』 [永井豪 (Go Nagai) 作 1971年 週刊ぼくらマガジン連載] でのイスカリオテのユダ (Iudas Iscariot) は、魔王ダンテ(Demon Lord Dante) の肉体に封印されて永久凍土の氷壁の中に封印されており、彼の許に召還された宇津木涼 (Ryo Utsugi) に、自らを裏切り者ではなく、あるモノどもと共闘する者だと告白する。
『百億の昼と千億の夜
(Ten Billion Days And One Hundred Billion Nights)』 原作:光瀬龍 (Ryu Mitsuse) 作画:萩尾望都 (Moto Hagio) 1977〜1978年 週刊少年チャンピオン連載] でのイスカリオテのユダ (Iudas Iscariot) は、イエス・キリスト (Iesus) に付き従いながらも彼の説く教義に疑義を抱き、彼を敵対者に売ってしまう。だがそれは、イエス・キリスト (Iesus) と彼の背後にいるモノ達によって巧妙に仕組まれた罠でもあるのだ。彼は封印され、永きに渡って彼の敵対者のコントロール下の元にあるが、彼にまみえた主人公達によって覚醒め、彼自身に託された己の使命に殉ずるのだ [原作では受難 (Passio Christi) の日以降、イスカリオテのユダ (Iudas Iscariot) は登場しないが、このマンガでの作画家のこの解釈は優れたモノだとぼくは想っている]。
このみっつのマンガに登場したイスカリオテのユダ (Iudas Iscariot) は、それぞれの作品のなかでの、描写や役割は異なるモノだけれども、その残像がいくつも重なって照射されて、ぼくにとってのイスカリオテのユダ (Iudas Iscariot) の理解に、おおきな影響を及ぼしている様な気がする。
それは、おのれの眼前に呈示された事物や事象や人物を、盲目的に信じない事とも謂えるし、全肯定はし得ない事とも謂えるのだけれども、ぢゃあその様な態度を肯定すべきなのかどうかと謂うと、一抹の不安を憶えるモノがある。
むしろ、フリードリヒ・ニーチェ (Friedrich Nietzsche) がキリスト教 (Christianity) を弱者の宗教と批判した、その批判を体現したかの様な、行動と思考にも想えてしまうからだ。
近代的自我 (Je pense, donc je suis) をもつモノと謂うよりも先に、うつわのちいささの方が先に、視野に飛び込んでくるのである。いやいや、フリードリヒ・ニーチェ (Friedrich Nietzsche) の著作の、その読み方によっては、そのちいさなうつわそのものが近代的自我 (Je pense, donc je suis) そのものであって、それをもたらせしめたモノの正体が、キリスト教 (Christianity) そのもの、とも解釈可能なのである。
だから、もしかすると、イスカリオテのユダ (Iudas Iscariot) こそが、キリスト教 (Christianity) における信仰の、具体的な体現者ではないのかと、そんな妄想もぼくには産まれてくるのである。
その妄想そのものについては、いずれ場所をあらためて考えてみたい。
次回は「だ」。
彼の事をいつ、ぼくは知ったのだろう。
イエス・キリスト (Iesus) 生誕のエピソードである降臨 (Praesepe) は、保育園 (Nursery School) のクリスマス会 (Christmas Party) で初めて聴かされた様な記憶がある。
イエス・キリスト (Iesus) の死、つまり彼の受難 (Passio Christi) はいつだったのだろう。
アイコン (Icon) としての十字架 (Christian Cross) は、教義や信仰とは別のところで身近なモノだったのだけれども、その前提となるその物語を知ったのは、いつなのか。もしかすると、何度目かのリヴァイヴァル劇場公開となった、映画『ベン・ハー
もしかすると、ある病院の待合室だったのだろうか。毎月の様にきまって体調を崩す幼いぼくは、その時も病院にあって、そこで読んだマンガ『ゴルゴ13 (Golgo 13)』 [さいとうたかを (Takao Saito) ビッグコミック連載 1968年開始] なのかもしれない。その主人公、デューク東郷 (Duke Togo) のコード・ネームが受難 (Passio Christi) にまつわるモノである事は、周知の事実であるから、ここでは繰り返さない。ただ、この作品のロゴ・マークである、茨の冠 (A Crown Of Thorns) を戴いた髑髏 (Skull) がこちらをふりかえっているあの図象は、幼心にはやっぱり怖いモノなのだ。それは強調しておいてもいいだろう。
それとも。
もしかすると、ある日曜日の朝に放映していたテレビ番組『兼高かおる世界の旅 (Kaoru Kanetaka's "The World Around Us")』[1960~1990年 TBS系列] での事だったろうか。そこでは、何処とも知れない [と謂うのは単に記憶がないだけの事なのだけれども] ある国のある地方で開催されている謝肉祭 (Carnelevarium) での、受難 (Passio Christi) の仮面劇 (The Masque) が放送されていたのである。語り手が取材者である兼高かおる (Kaoru Kanetaka) で、聞き手が芥川隆行 (Takayuki Akutagawa)、このふたりがそこで繰り広げられている物語を当意即妙に語っていたと記憶している。
だけれども、それらではまだ、その物語の張本人のひとりである、イスカリオテのユダ (Iudas Iscariot) はまだ、顕われてはこない。
語られる物語の主軸は、処刑地であるゴルゴダの丘 (Calvariae Locus) へと歩むイエス・キリスト (Iesus) の、その歩みであって、彼にその様な苦しみをもたらす原因となった、前夜の出来事は、登場していないのである。

ウィリアム・ブレイク (William Blake) による『ユダの裏切り (Judas Betrays Him)』。
ぼくに、イスカリオテのユダ (Iudas Iscariot) という名前を強く印象づけたのは、いくつかのマンガだ。
『悪魔くん復活 千年王国
『悪魔くん復活 千年王国
この作品は、悪魔くん(Akum-kun) の超人的な活躍を描く一方で、その彼の行動に翻弄されつつも、彼の行動や思考を分析せざるを得ない第3使徒ヤモリビト(Yamoribito) =佐藤 (Sato) の常識人としての視点で描かれている。それは、マンガ『ゲゲゲの鬼太郎
逆に謂うと、このマンガでの第3使徒ヤモリビト (Yamoribito) =佐藤 (Sato) の行動と思索をそのまま、イスカリオテのユダ (Iudas Iscariot) の理解へと、ぼくを急き立たせるモノが存在しているのかもしれない。
遺りの2篇のマンガでは、さらにそこから踏み込んだ描写と人物設定を見出せる。
『魔王ダンテ (Demon Lord Dante)』 [永井豪 (Go Nagai) 作 1971年 週刊ぼくらマガジン連載] でのイスカリオテのユダ (Iudas Iscariot) は、魔王ダンテ(Demon Lord Dante) の肉体に封印されて永久凍土の氷壁の中に封印されており、彼の許に召還された宇津木涼 (Ryo Utsugi) に、自らを裏切り者ではなく、あるモノどもと共闘する者だと告白する。
『百億の昼と千億の夜
このみっつのマンガに登場したイスカリオテのユダ (Iudas Iscariot) は、それぞれの作品のなかでの、描写や役割は異なるモノだけれども、その残像がいくつも重なって照射されて、ぼくにとってのイスカリオテのユダ (Iudas Iscariot) の理解に、おおきな影響を及ぼしている様な気がする。
それは、おのれの眼前に呈示された事物や事象や人物を、盲目的に信じない事とも謂えるし、全肯定はし得ない事とも謂えるのだけれども、ぢゃあその様な態度を肯定すべきなのかどうかと謂うと、一抹の不安を憶えるモノがある。
むしろ、フリードリヒ・ニーチェ (Friedrich Nietzsche) がキリスト教 (Christianity) を弱者の宗教と批判した、その批判を体現したかの様な、行動と思考にも想えてしまうからだ。
近代的自我 (Je pense, donc je suis) をもつモノと謂うよりも先に、うつわのちいささの方が先に、視野に飛び込んでくるのである。いやいや、フリードリヒ・ニーチェ (Friedrich Nietzsche) の著作の、その読み方によっては、そのちいさなうつわそのものが近代的自我 (Je pense, donc je suis) そのものであって、それをもたらせしめたモノの正体が、キリスト教 (Christianity) そのもの、とも解釈可能なのである。
だから、もしかすると、イスカリオテのユダ (Iudas Iscariot) こそが、キリスト教 (Christianity) における信仰の、具体的な体現者ではないのかと、そんな妄想もぼくには産まれてくるのである。
その妄想そのものについては、いずれ場所をあらためて考えてみたい。
次回は「だ」。
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