2013.12.03.09.09
いつもの様に、綴るべき本題からずっと遠いところから書き起こす事にする。まるで投擲競技 (Throwing Event) かなにかの様に、遥か遠いところから放り投げて、あるべき場所に辿り着ければいいと、想っているからだ。
だから、あらかじめ断っておくけれども、竜頭蛇尾 (Up Like A Rocket, Down Like A Stick) の誹りを免れかねない様な、中途半端なモノでこの拙い文章は終わっている。
TV番組『赤き血のイレブン (Akaki Chi no Eleven : The eleven Red Blood)』[ 原作:梶原一騎 (Ikki Kajiwara) 1970〜1971年 日本テレビ系列放映] は、そのアニメ番組本編が放映される一週間前のその日に、その前夜祭と銘打った特別番組が放送された。
レギュラー番組の前夜祭と謂えばTV番組『ウルトラマン (Ultraman)』 [1966~1967年放映 TBS系列] の『ウルトラマン前夜祭 ウルトラマン誕生』 [1966年7月10日放送] をすぐに思いつくけれども、逆にそれ以外の番組で、同種の催しがあったという記憶はない。ちなみに、現行で謂えば、番組改編期に各放送局で放映される、長時間に渡る特別番組の様なモノに該当するのかもしれないけれども、放送する側の動機としては、若干、異なるモノがあるのかもしれない。
と、いうのはTV番組『ウルトラマン (Ultraman)』 [1966~1967年放映 TBS系列] の前夜祭は、同じ枠で放映されていた『ウルトラQ (Ultra Q)』 [1966年放映 TBS系列] の最終回つまり第28話『あけてくれ (Open Up!)』[監督:円谷一 脚本:小山内美江子 特技監督川上景司] が、その作品内容が難解すぎるという理由で放映中止になったからだ。つまり、窮余の代替策として、『ウルトラマン前夜祭 ウルトラマン誕生』 [1966年7月10日放送] が制作・放映されたという訳なのである。
では、それと同じ様な理由や原因がTV 番組『赤き血のイレブン (Akaki Chi no Eleven : The eleven Red Blood)』[ 原作:梶原一騎 (Ikki Kajiwara) 1970〜1971年 日本テレビ系列放映] にあったのか、というと、それはよく解らない。
と、謂うよりもそれ以前に、観た筈の番組のその内容も殆ど憶えていない。念の為にと、ネット検索しても、出演者のひとりとして原作者である梶原一騎 (Ikki Kajiwara) の名が顕われる他には、なんら新しい情報は、出てこない。
尤も、TV番組『ウルトラマン (Ultraman)』 [1966~1967年放映 TBS系列] の前夜祭ですら、全くと謂って良い程に記憶していないのだから、それもまた、宜なるかな、というべきなのかもしれない。その際の"出演者"のひとり、アントラー (Antlar) の着ぐるみの、胴体部、外骨格 (Exoskeleton) の部分が前後逆になっているのは有名な話だけれども、それだって当時の番組がそっくりそのまま、遺されているから、ぼくだって知っているのである。
だがその一方で、TV番組『赤き血のイレブン (Akaki Chi no Eleven : The eleven Red Blood)』[ 原作:梶原一騎 (Ikki Kajiwara) 1970〜1971年 日本テレビ系列放映] の前夜祭には番組自身はおろか、それに準ずる記録にも記憶にも、いまだ、そうしたものと一切、お目にかかった事がない。
ただ、この番組に関してたったひとつだけ憶えている事がある。
番組の終了直前、司会者の淀川長治 (Nagaharu Yodogawa) が、彼独特の謂回しで、次の様な発言をしていたのだ [彼の言回しそのものを記憶しているのではないので、その趣旨と想ってもらいたい]。
「みなさん、サッカーボールになぜ、白い部分と黒い部分があるか、知っていますか。これは、しろうとでもくろうとでも、愉しめるという意味なのですよ」と。
多分、この台詞の直後、彼の代名詞ともなった「さいならさいなら」が続いた筈だ。
勿論、彼のこの発言は、駄洒落や地口の様なモノでしかない。実際に、そんな理由で、サッカーボール (Football) が塗り分けられていた筈もなく、もしそうならば、そのボールは今でもそんなカラーリングを厳守している筈なのに、TV放映される大試合のひとつでも観れば、今のサッカーボール (Football) はそんな配色を施されてはいない。
と、謂うよりも、だいたいそもそもが、「素人」「玄人」は日本語、それがそのまま世界基準として通用していた謂われは、一切があり得ないのだ。
だけれども、「しろうとでもくろうとでも、愉しめる」という要素は実は、とても重要なメッセージである様な気がする。
ここから、サッカー (Football) という競技がそれを現実のモノとしているしていない、もしくは、それを現実化させるにはどうしたら良いのか、と謂う方向へと、論を進めるべきなのかもしれない。
それとも、飛躍して、スポーツ競技全般に関しての論にすべきかどうなのか、それとももっともっと抽象化させてゲームというモノにおけるそれを語るべきなのか、選ぶべき選択肢はあまりに多く、しかも語りうるべき領野はあまりに広い。
だから、ここで一旦中断させて、後々への宿題にしてみたいと想う。
ただ、蛇足 (Superfluity) ながらに、一言だけ付け加えるとすれば、「しろうとでもくろうとでも、愉しめる」様にする為には、ルールの設定が最大の課題となると、想う。
そして、そのルールの箍が、いろいろな意味で、あらゆる場所で、緩んでしまっている様に、ぼくには見受けられるのだ。
それが、良い事なのか悪い事なのかは、別の問題として。

"Play The Game" from the album "The Game
" by Queen
次回は「む」。
だから、あらかじめ断っておくけれども、竜頭蛇尾 (Up Like A Rocket, Down Like A Stick) の誹りを免れかねない様な、中途半端なモノでこの拙い文章は終わっている。
TV番組『赤き血のイレブン (Akaki Chi no Eleven : The eleven Red Blood)』[ 原作:梶原一騎 (Ikki Kajiwara) 1970〜1971年 日本テレビ系列放映] は、そのアニメ番組本編が放映される一週間前のその日に、その前夜祭と銘打った特別番組が放送された。
レギュラー番組の前夜祭と謂えばTV番組『ウルトラマン (Ultraman)』 [1966~1967年放映 TBS系列] の『ウルトラマン前夜祭 ウルトラマン誕生』 [1966年7月10日放送] をすぐに思いつくけれども、逆にそれ以外の番組で、同種の催しがあったという記憶はない。ちなみに、現行で謂えば、番組改編期に各放送局で放映される、長時間に渡る特別番組の様なモノに該当するのかもしれないけれども、放送する側の動機としては、若干、異なるモノがあるのかもしれない。
と、いうのはTV番組『ウルトラマン (Ultraman)』 [1966~1967年放映 TBS系列] の前夜祭は、同じ枠で放映されていた『ウルトラQ (Ultra Q)』 [1966年放映 TBS系列] の最終回つまり第28話『あけてくれ (Open Up!)』[監督:円谷一 脚本:小山内美江子 特技監督川上景司] が、その作品内容が難解すぎるという理由で放映中止になったからだ。つまり、窮余の代替策として、『ウルトラマン前夜祭 ウルトラマン誕生』 [1966年7月10日放送] が制作・放映されたという訳なのである。
では、それと同じ様な理由や原因がTV 番組『赤き血のイレブン (Akaki Chi no Eleven : The eleven Red Blood)』[ 原作:梶原一騎 (Ikki Kajiwara) 1970〜1971年 日本テレビ系列放映] にあったのか、というと、それはよく解らない。
と、謂うよりもそれ以前に、観た筈の番組のその内容も殆ど憶えていない。念の為にと、ネット検索しても、出演者のひとりとして原作者である梶原一騎 (Ikki Kajiwara) の名が顕われる他には、なんら新しい情報は、出てこない。
尤も、TV番組『ウルトラマン (Ultraman)』 [1966~1967年放映 TBS系列] の前夜祭ですら、全くと謂って良い程に記憶していないのだから、それもまた、宜なるかな、というべきなのかもしれない。その際の"出演者"のひとり、アントラー (Antlar) の着ぐるみの、胴体部、外骨格 (Exoskeleton) の部分が前後逆になっているのは有名な話だけれども、それだって当時の番組がそっくりそのまま、遺されているから、ぼくだって知っているのである。
だがその一方で、TV番組『赤き血のイレブン (Akaki Chi no Eleven : The eleven Red Blood)』[ 原作:梶原一騎 (Ikki Kajiwara) 1970〜1971年 日本テレビ系列放映] の前夜祭には番組自身はおろか、それに準ずる記録にも記憶にも、いまだ、そうしたものと一切、お目にかかった事がない。
ただ、この番組に関してたったひとつだけ憶えている事がある。
番組の終了直前、司会者の淀川長治 (Nagaharu Yodogawa) が、彼独特の謂回しで、次の様な発言をしていたのだ [彼の言回しそのものを記憶しているのではないので、その趣旨と想ってもらいたい]。
「みなさん、サッカーボールになぜ、白い部分と黒い部分があるか、知っていますか。これは、しろうとでもくろうとでも、愉しめるという意味なのですよ」と。
多分、この台詞の直後、彼の代名詞ともなった「さいならさいなら」が続いた筈だ。
勿論、彼のこの発言は、駄洒落や地口の様なモノでしかない。実際に、そんな理由で、サッカーボール (Football) が塗り分けられていた筈もなく、もしそうならば、そのボールは今でもそんなカラーリングを厳守している筈なのに、TV放映される大試合のひとつでも観れば、今のサッカーボール (Football) はそんな配色を施されてはいない。
と、謂うよりも、だいたいそもそもが、「素人」「玄人」は日本語、それがそのまま世界基準として通用していた謂われは、一切があり得ないのだ。
だけれども、「しろうとでもくろうとでも、愉しめる」という要素は実は、とても重要なメッセージである様な気がする。
ここから、サッカー (Football) という競技がそれを現実のモノとしているしていない、もしくは、それを現実化させるにはどうしたら良いのか、と謂う方向へと、論を進めるべきなのかもしれない。
それとも、飛躍して、スポーツ競技全般に関しての論にすべきかどうなのか、それとももっともっと抽象化させてゲームというモノにおけるそれを語るべきなのか、選ぶべき選択肢はあまりに多く、しかも語りうるべき領野はあまりに広い。
だから、ここで一旦中断させて、後々への宿題にしてみたいと想う。
ただ、蛇足 (Superfluity) ながらに、一言だけ付け加えるとすれば、「しろうとでもくろうとでも、愉しめる」様にする為には、ルールの設定が最大の課題となると、想う。
そして、そのルールの箍が、いろいろな意味で、あらゆる場所で、緩んでしまっている様に、ぼくには見受けられるのだ。
それが、良い事なのか悪い事なのかは、別の問題として。

"Play The Game" from the album "The Game
次回は「む」。
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