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2013.10.22.05.12

むしめづるひめぎみ

今の言葉で言い表すと、ある不思議ちゃん (Eccentric Young Girl) の物語と謂う事になるのだろうか。

説話『虫愛づる姫君 (The Princess Who Loved Insects)』は説話集『堤中納言物語 (Tsutsumi Chunagon Monogatari)』の中のひとつ。作者は不詳、成立年代も平安時代 (Heian Period) の後期という事くらいしか解らない。
但し、この説話の主人公は、蜂飼大臣 (The Bee-keeping Minister) の異名を持つ太政大臣 (The Daijo-daijin : Chancellor Of The Realm)、藤原宗輔 (Fujiwara no Munesuke) の娘というモデルの存在を唱える説があるので、彼女の生きた時代かもしくはそれ以降に成立したと考えてもいいのかもしれない。

ぼくが学んだ古典の教科書には掲載はされてはいなかったものの、何度も何度も、この説話の一節は読んだ記憶がある。
それは受験の為に、模擬試験やら参考書やら問題集やらと、かたちを変えてぼくの前に顕われたからだ。だから、実際の入試問題にそのまま登場してくれれば、とてつもなく申し分のない事態が出来した筈なのに、残念ながら、そんなに世の中は甘くはないのであった。

確かに世の中は甘くはないのかもしれないが、この説話が何故、そんなに頻繁に学力を測る為のテキストとして投入されたのかという事自体は、解らないでもない。
ひとつは説話文学 (Setsuwa) である故なのだろう、文章が平易である事。ひとつは平安時代 (Heian Period) の作品であるが故に、古典文法 (Classical Japanese Grammar) にきちんと則っている事。
同じ平安時代 (Heian Period) の作品だからと謂ってもこれが長編小説『源氏物語 (The Tale Of Genji)』 [紫式部 (Murasaki Shikibu) 作 11世紀成立] の様な大部な物語では、あらすじや人物関係も複雑になるので、難易度は遥かに上がる。逆に、同じ平易な文章だからと謂ってこれが短編集『日本永代蔵 (The Eternal Storehouse Of Japan)』 [井原西鶴 (Ihara Saikaku) 作 1688年刊行] の様な近世の作品では、文法上の約束事はかなり保古にされてしまっている。
だから、一般的な、平均的な、受験生の学力を推し量るのには手頃な素材なのだろう、と、ぼくは想っているのではあるのだけれども、如何なモノだろうか。

しかも、それだけではない。
この短編を読めば、当時と今とでは、女性のするべき身嗜みと謂うべきなのだろうか、女性に対する美意識というべきなのだろうか、それが如実に異なるモノである事が理解出来てしまうという点も付け加えてもいいのかもしれない。
その点を踏まえれば、もうひとつ突っ込んだ形で、読解力を問う事も出来そうだ。

と、冷静に推理してはいるのだけれども、実は、それとは異なる理由があるのではないだろうか、と、ぼくは邪推しているのである。

それは、この短い物語を誰もが好きなのであって、その上に、誰もがこの短編の主人公を愛おしく想っているから、ではないだろうか。
つまり、その点に関しては、出題者も編集者も、人後に落ちないと、ぼくは想っているのだけれども、如何なモノだろうか。

冒頭で、主人公である"虫愛づる姫君 (The Princess Who Loved Insects)"の事を不思議ちゃん (Eccentric Young Girl) 呼ばわりしてみたけれども、ちゃんとこの物語を読んでみると、"虫愛づる (To Love Insects)"というその一点と外見上の点が、当時の規範からはみ出しているだけである事が解る。

と、書いてしまうと、今の世の中に点在する不思議ちゃん (Eccentric Young Girl) 達とはまるっきり異なる存在であると主張しているみたいにもとられかねない。
果たして、それでいいのだろうか。

だからここで、一端立ち止まって考えてみると、俗に呼ばれる不思議ちゃん (Eccentric Young Girl) 達も、実は"虫愛づる姫君 (The Princess Who Loved Insects)"と同じ様に、ある突出した嗜好とそこから派生する奇矯が理解されないだけで、内実は必ずしも"不思議 (Eccentric)"でもなんでもないのかもしれない。

という論法をしてしまうと、結局、"虫愛づる姫君 (The Princess Who Loved Insects)"は不思議ちゃん (Eccentric Young Girl) である、という結論に横着してしまう。
果たして、それでいいんだろうか。

そうぢゃあない。その逆だ。

少女は誰もが皆、"虫愛づる姫君 (The Princess Who Loved Insects)"なのだ。
彼女達の思考や嗜好や指向、そしてそれに基づいて行われる試行が、世間一般の常識と寄り添う事が出来るのかそれとも出来ないか、その違いだけなのだ。
この物語の主人公と、物語冒頭でその存在が語られる"蝶めづる姫君 (The Princess Who Loved Butterflies)"と、一体、どこが違うのだろうか。恐らく、単純に、その対象物が違うだけで、そこに向けられる偏愛は全く同等なモノなのではないだろうか。そこにあるのは、彼女達が愛情を傾けるその素材が、一方は忌み嫌われるモノであり、一方は愛しげに好まれるモノである、その違いだけなのだ。そしてそれ故に、彼女達自身が忌み嫌われたり、愛しげに好まれたりするだけ、それだけなのだ。

だから、拙稿の冒頭は次の様に訂正すべきだろう。

今の言葉で言い表すと、ある少女の物語と謂う事になるのだろうか、と。

もしも、上の様な発想をもっと抽象化させたり普遍化させたりする事が出来るのであるのならば、上の文章の主語である"少女"を、別のモノに挿げ替える事も出来るかもしれない。
何と交換すればいいのか、何と交換が出来るのか。

そこから先は、個人個人が試みるべき事だ。
と、今は突き放しておく。

images
だから、映画『風の谷のナウシカ (Nausicaa Of The Valley Of The Wind)』 [宮崎駿 (Hayao Miyazaki) 監督作品 1984年制作] の主人公の、王蟲 (Ohmu) との交感を目の当たりにして、それだけで、あたかも"虫愛づる姫君 (The Princess Who Loved Butterflies)"の末裔であるかの様にナウシカ (Nausicaa) を語る事は、とってもつまらい発想なのだ [上掲の映画ポスターはこちらから]。

次回は「」。

附記:
冒頭で「蝶めづる姫君の住み給ふかたはらに (Next Door To The Princess Who Loved Butterflies)」と語り始めてはいるものの、『堤中納言物語 (Tsutsumi Chunagon Monogatari)』にはそんな女性は一切、登場しない。否、それだけではない。他のどんな説話集をあたっても、彼女は決して姿を顕す事はない。
その一方で、物語は「二の巻にあるべし (Be Found In The Second Chapter!)」という言葉で語り終えられてはいるものの、続編を綴る筈の"ニの巻 (The Second Chapter!)"は存在しない。
本来の説話文学 (Setsuwa) の常套では「今は昔 (Once Upon A time)」で語り起こし「となむ語り伝へたるとや (And They Lived Happily Ever After)」で結ぶべきところである。いや、作者としては、恐らく、それと同じ発想で、その様にしたのだ。文頭と文末のそれぞれの一文で括る事によって、この物語は虚構としての構造が保持されるからだ [詳しくはこちらをご覧下さい]。
だけれども、通常とは異なる、文頭と文末を加える事によって、現在の視点でそれを読めば、メタフィクション (Metafiction) としての結構が浮かび上がってくる。
だから個人的には、メタフィクション (Metafiction) の嚆矢と謂われている小説『紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見 (The Life And Opinions Of Tristram Shandy, Gentleman)』 [1759年刊行開始] の作者ローレンス・スターン (Laurence Sterne) あたりにこの短編を読ませて感想を聴いてみたいという様な、訳の解らない妄想も浮かび上がってしまうのである。
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