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2013.08.06.08.27

ぱられるわーるど

[業務連絡:前回を踏まえてのクリシェ (Cliche) は踏襲しません。繰り返します。前回を踏まえてのクリシェ (Cliche) は踏襲しません。]

パラレルワールド (Parallel Universe) という概念に初めて接したのは、小説『七瀬ふたたび (Nanase Futatabi : Nanase Once More)』 [筒井康隆 (Yasutaka Tsutui)1975年発表] での事だったと想う。ちょうど、NHK少年ドラマシリーズでその映像化作品『七瀬ふたたび (Nanase Futatabi : Nanase Once More)』 [1979年放映] が話題になっていた頃の事で、そおゆう意味では、主人公である精神感応者 (Telepath)、火田七瀬 (Nanase Hita) は、ぼく達世代にとっては、多岐川裕美 (Yumi Takigawa) に他ならない。

物語の中では、時間旅行者 (Timetraveler) である漁藤子 (Fujiko Sunadori) [演:村地弘美 (Hiromi Murachi)] との出逢いと、彼女とともに行った時間旅行 (Timetravel) での成果を踏まえて、パラレルワールド (Parallel Universe) の可能性が予見される。
そして、物語が悲劇的結末を迎えようとしている最中、たったひとつのちっぽけな光明の様に、七瀬の前にその幻が現出する。

嗚呼。
火田七瀬 (Nanase Hita) 論ならば、いくらでもここから書き進められそうな予見はするモノの、残念ながら、この拙稿のテーマは、彼女ではない。
表題に掲げたパラレルワールド (Parallel Universe) について綴るのである。

拙稿冒頭で、"初めて接した"と思わず勇み足の様に綴ってしまったけれども、実はその辺りは曖昧なのだ。
と、いうのも、それ以前に接していた虚構作品、映画でもTVでも小説でも、パラレルワールド (Parallel Universe) という言辞がその物語世界に登場しないだけで、それを前提としたモノは、幾らでもありそうだし、そして、その中の一作品に、ぼくが出逢っていないとも限らない。

要は、冒頭の"初めて接した"という謂いは、物語の渦中に於いて、如実に語られているという意味、ただそれだけであるのだ。

images
さて、このパラレルワールド (Parallel Universe)、実は解っているようで解らない。
22世紀の猫型ロボット (A Cat-like Robot From The 22nd. Century) でさえも、巧く説明が出来ていない [掲載画像はこちら]。
異なる時間軸 (Time Axis) の交錯を指すモノでもないし、異なる次元 (Dimension) のモノとの遭遇でもないし、夢 (Dream) や幻 (Illusion) の世界でもない。その代わりに、ファンタジー (Fantasy) 等の舞台設定である異界 (Underworld) は、それにあたると謂う。

ぢゃあ、念の為に、と検索してみると、如何わしい言辞や胡散臭い論説や胡乱な評論にばかり出くわしてしまう。
ぼくが知りたいのは、パラレルワールド (Parallel Universe) の可能性や、パラレルワールド (Parallel Universe) 実在の証明や、パラレルワールド (Parallel Universe) の体験記ではない。
ましてや、パラレルワールド (Parallel Universe) の住人に逢いたい訳でも、パラレルワールド (Parallel Universe) へと遁走したい訳でもないのだ。

実在の可能性の有無ではなくて、ぼくが知りたいのは、物語の中で、どの様にそれが顕われて、どの様にそれが語られているか、という事なのである。
現実の世界 (Non-fiction) に、ちょっと背を向けて、虚構 (Fiction) の中に、その可能性を探りたいだけなのだ。

と、謂うのは、思わず迷い込んでしまった見知らぬ世界とか、ふとした弾みで出逢ってしまったもう一人の自身とか、そんな語り口は、もう充分なのだ。

そんな藤子・F・不二雄 (Fujiko F Fujio) 的なSF、つまり、少し不思議な世界 (SF : Sukoshi Fushigi Na Sekai : Something Fantastic World) ではない、パラレルワールド (Parallel Universe) の物語に出逢いたいからなのだ。

実は、パラレルワールド (Parallel Universe) というモノを想像した場合、強迫観念 (Obsession) とも謂える、あるヴィジョンがあるのだ。

物理 (Physics) でも数学 (Mathematics) でも良いのだけれども、次元 (Dimension) を扱った入門書の様なモノを読むと、最初に遭遇する比喩的な言い回しがある。帰納法 (Inductive Reasoning) 的な説明かもしれない。

3次元 (Three-dimensional Space) の存在である (Ball) を輪切りにすると、2次元 (Two-dimensional Space) の存在である (Circle) が顕われる。と、謂う事は、4次元 (Four-dimensional Space) の存在である超球 [四次元球] (A Ball In The Fourth Dimensions) を輪切りにすると、3次元 (Three-dimensional Space) の (Ball) が顕われる筈だ。
2次元 (Two-dimensional Space) の存在の正方形 (Square) をむっつ、適宜に組み合わせると、3次元 (Three-dimensional Space) の存在である立方体 (Cube) の展開図 (Net) が完成し、それを組み立てると勿論、3次元 (Three-dimensional Space) の存在である立方体 (Cube) が登場する。と、謂う事は、3次元 (Three-dimensional Space) の存在である立方体 (Cube) を複数個用意し、それを適宜に組み合わせれば、4次元 (Four-dimensional Space) の存在である超立方体 [四次元立方体] (Hypercube) の展開図 (Net) が完成し、それを組み立てる事が出来れば、必然的に4次元 (Four-dimensional Space) の存在である超立方体 [四次元立方体] (Hypercube) が完成する筈だ。
2次元 (Two-dimensional Space) 的な存在である、一本の帯を一捻りしてからその両端を結ぶと、裏も表もないメビウスの輪 (Mobius Strip) が完成する。3次元 (Three-dimensional Space) 的な存在である、一本の筒を一捻りしてその両端を結ぶと、裏も表もないクラインの壷 (Klein Bottle) が完成する。

書き出していくと、きりがない程に、こんな言説はいくらでも登場する。
ここにある説話は総て、次元 (Dimension) の概念を説明するモノだから、パラレルワールド (Parallel Universe) そのものとは関係ない。

だけれども、ぼくはこんな事を考えている。

もしも、パラレルワールド (Parallel Universe) が存在し、それが複数個あったとしよう。
そして、それら幾つもある世界を一望の下に、俯瞰出来たら一体、どんな光景を観る事が出来るのだろうか。

世界Aには、私Aがいる。世界Bには私Bがいる。世界Cには、私Cがいる。...... 、 ...... 。以下、延々と続く。
勿論、世界Fには、私Fはいない可能性もないわけではない。無限にあるかもしれない複数個の世界の幾つかに、私という存在があるのだ。そして、それぞれの世界が総て異なる環境にあれば、そこにいる私が総て、同じモノである可能性はない。年齢も違えば性別も違うだろうし、その外見も必ずしもヒューマノイド (Humanoid) な姿態をとっているとは、限らない。

では、何故、それを私として、呼ぶ事が出来るのだろうか。
もしかしたら、無限にあるパラレルワールド (Parallel Universe) の複数個に偏在している"それ"の総体が、実はひとつの生命体、つまりそれが私というモノではないのだろうか。

そんな気がするのである。

何故ならば、無数の細胞 (Cell) の集積が私という生命体の形成に係っている様に、無数の私の集積によって、あるモノ [ (Ball) に対する超球 [四次元球] (A Ball In The Fourth Dimensions)、立方体 (Cube) に対する超立方体 [四次元立方体] (Hypercube) の顰みに習えば、超生命と呼ぶべきだろうか] の形成に係っていたとしても、不思議ではない様な気がするのだけれども、如何だろうか。
例えば、私の身体の一部がなんらかの原因で欠損したとしても、否、そんな大事を構えて考える必要はないだろう、わたしの身体の日々の新陳代謝の過程で、僅かな時間でも、相当量の細胞 (Cell) が死んでいくのだ。そんな様に、無数とあるパラレルワールド (Parallel Universe) の世界の幾つかにいる、複数個の私が死を迎えたとしても、総体としての私には、殆どの影響を及ぼす事はない。

そんなイメージを抱いている。

私が細胞 (Cell) を認識する事はあってもその逆は恐らくないだろう、だから、その生命が複数個の世界にある、個々の私を認識する事があっても、その逆も恐らくあり得ないのだ。

ただ、そのモノ、超生命体に一個の人格ないしは一個のアイデンティティーが存在するのかどうかは、解らない。ただ、もしも仮にそんな事を考えるという事は、カール・グスタフ・ユング (Carl Jung) 的ななにか、集合的無意識 (Kollektives Unbewusstes) とか、そちらの方向を観ながら、考える事になってしまうのではないだろうか。

むしろ、ぼくは小説『ソラリスの陽のもとに (Solaris)』 [スタニスワフ・レム (Stanisław Lem) 作 1961年発表] での真の主役、あの海 (The Ocean) の様なモノを想像しているのだけれども。

次回は「」。
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