2013.07.09.04.21
語感から来るイメージだけで想像すると、介護施設や医療施設、さもなければ保養施設や慰安施設の様な印象を受ける。実際に、ネット上で検索をしてみると、そんな様な場所ばかりが登場してくる。
だけれども、ここで取り上げる"やすらぎの館"とは、藤子・F・不二雄 (Fujiko F. Fujio) の同名の短編マンガである。
1974年、マンガ雑誌『ビッグコミック』で発表された。
ぼくはその後に編まれる彼のSF短編集 [現在では『藤子・F・不二雄大全集 SF・異色短編 1
』に所収] の中で、読んだと記憶している。
物語の主人公は、激務に勤しんでいる、大会社のワンマン社長だ。懇意にしている医者から紹介された会員制のクラブ、そこが掌中のタイトルである"やすらぎの館"なのである。
職責においても家庭においても、公私共々、肉体的にも精神的にも疲弊してしまった彼は、ここで文字通りの、自身にとってのやすらぎの場所を見いだし、あたかも胎内回帰にも似た精神的な解放を得る。
そしてこころの平安をつかんだのも束の間、"やすらぎの館"での安寧が、彼の日常にも影響を及ぼし、精神的な退行を公的な場、即ち、自身の職場でも発現せしめてしまう。

物語は、ここで終わる [掲載画像はこちらから]。
所謂、SF的な [ここでのSFとは世間一般で言うところのサイエンス・フィクション (Sci Fi : Science fiction) だ] 展開を用いないまま、藤子・F・不二雄 (Fujiko F. Fujio) いうところのSF [これは彼が提唱する少し不思議な世界 (Sukoshi Fushigina Sekai)] が十二分に発揮された作品である。
と、同時に、彼の主要作品であるところの『ドラえもん (Doraemon)』 [1969~1996年発表] とは些かに異なった趣きの、苦みも痛みも苦しみもある作品である。
つまり、大人のドラマなのである [だからと言って『ドラえもん (Doraemon)』 [1969~1996年発表] を子供向けと貶めるつもりはないのだけれども]。
『ドラえもん (Doraemon)』 [1969~1996年発表] の世界と、そこから旅立ったその先で遭遇する藤子・F・不二雄 (Fujiko F. Fujio) の世界観と、本作品を代表とする、大人向けコミックとに、断絶を感じるヒトもいるかもしれない。
だけれども、少なくとも作者自身にとっては、このふたつの異なってみえる世界観は地続きのモノであるし、冷静になってその2世界を堪能してみれば、そのそれぞれは、あたかも、いずれか一方の合わせ鏡にも似たモノであると、誰にも理解できるだろう。
と、言う様に、藤子・F・不二雄 (Fujiko F. Fujio) 論を書き出してしまうといつまでたっても終わらない議論が始まってしまうから、ここで擱筆しておくけれども、本来ならば、映画版ドラえもん (Doraemon The Movie Series) を劇場公開する場合は、本作品の様な、彼のSF短編作品を併映すべきなのである。しかも、その場合の主人公は大人になった野比のび太 (Nobita Nobi) が演じるのが、相応しいのに違いない。
そうすれば、『ドラえもん (Doraemon)』 [1969~1996年発表] に委ねざるを得なかった、藤子・F・不二雄 (Fujiko F. Fujio) の真の世界観が誰の目にも明らかになるのに違いないのだ。
さて。
久しぶりに、『やすらぎの館』を読んでみて思った事は、果たしてこの作品は現在でも流通可能な物語なのだろうか、という疑問である。
SF作品 [この場合は、サイエンス・フィクション (Sci Fi : Science fiction) でも少し不思議な世界 (Sukoshi Fushigina Sekai) でも、どちらでも構わない] として観るのに、少し旧びていやしないだろうか。
公私共々に、自身に過大な責務を求める重圧から逃れる為に、胎内回帰にも似た退行が促される。
物語の動機をその様なモノとして定義してみると、今や事態は、そんな単純な構造へと再構築する事を許されないのではないだろうか。
勿論、ある種のヒトビトにとっては、胎内回帰も、大きな願望のひとつである事は、時代がいくら更新されようとも、変わらない願いのひとつである事は間違いない。
だけれども、今は、このマンガの主人公の様な単純なドラマには、なり得ないのではないだろうか。
もしも、この四半世紀以上も前の作品を現在のモノとして観ようとするのならば、もっと、複雑にも怪奇にも似た様相を呈示せしめる必要があるのではないだろうか。
と、言うのは、藤子・F・不二雄 (Fujiko F. Fujio) のもう一方である、藤子不二雄 A (FUJIKO Fujio (A)) 作品にも、同じ様なドラマツルギーを見いだしたからなのだ。
『笑ゥせぇるすまん [『黒ィせぇるすまん』改題]
』 [ [1969~1971年 漫画サンデー掲載]] の一挿話『たのもしい顔』である。
ここにも、公私ともどもの重圧から逃れて、幼児へと精神的な退行をしてしまった人物が登場する。
このふたつの作品を読み比べると、同一主題をふたりの藤子不二雄 (Fujiko Fujio) がどの様に変奏せしめたのか、その違いと手腕を堪能しながら、ふたりの作家性の相違を見いだす事も出来るのだけれども、ぼくが指摘したいのは、それではない。
なんだか、ふたつの物語も共に、経済の右上がり神話を、なんの疑いもなく信じる事が出来た、あの時代だから、描き得た。
そんな気がして仕様がないのだ。
例えば、島耕作 (Kosaku Shima) は、そんな夢を観るのだろうか。
否、彼ならば観るだろうな、古典的な物語の世界の住人だから。
と、言う訳で、その産みの親である弘兼憲史 (Kenshi Hirokane) には、島耕作 (Kosaku Shima)の"やすらぎの館"篇の執筆を望む次第である。
次回は「た」。
だけれども、ここで取り上げる"やすらぎの館"とは、藤子・F・不二雄 (Fujiko F. Fujio) の同名の短編マンガである。
1974年、マンガ雑誌『ビッグコミック』で発表された。
ぼくはその後に編まれる彼のSF短編集 [現在では『藤子・F・不二雄大全集 SF・異色短編 1
物語の主人公は、激務に勤しんでいる、大会社のワンマン社長だ。懇意にしている医者から紹介された会員制のクラブ、そこが掌中のタイトルである"やすらぎの館"なのである。
職責においても家庭においても、公私共々、肉体的にも精神的にも疲弊してしまった彼は、ここで文字通りの、自身にとってのやすらぎの場所を見いだし、あたかも胎内回帰にも似た精神的な解放を得る。
そしてこころの平安をつかんだのも束の間、"やすらぎの館"での安寧が、彼の日常にも影響を及ぼし、精神的な退行を公的な場、即ち、自身の職場でも発現せしめてしまう。

物語は、ここで終わる [掲載画像はこちらから]。
所謂、SF的な [ここでのSFとは世間一般で言うところのサイエンス・フィクション (Sci Fi : Science fiction) だ] 展開を用いないまま、藤子・F・不二雄 (Fujiko F. Fujio) いうところのSF [これは彼が提唱する少し不思議な世界 (Sukoshi Fushigina Sekai)] が十二分に発揮された作品である。
と、同時に、彼の主要作品であるところの『ドラえもん (Doraemon)』 [1969~1996年発表] とは些かに異なった趣きの、苦みも痛みも苦しみもある作品である。
つまり、大人のドラマなのである [だからと言って『ドラえもん (Doraemon)』 [1969~1996年発表] を子供向けと貶めるつもりはないのだけれども]。
『ドラえもん (Doraemon)』 [1969~1996年発表] の世界と、そこから旅立ったその先で遭遇する藤子・F・不二雄 (Fujiko F. Fujio) の世界観と、本作品を代表とする、大人向けコミックとに、断絶を感じるヒトもいるかもしれない。
だけれども、少なくとも作者自身にとっては、このふたつの異なってみえる世界観は地続きのモノであるし、冷静になってその2世界を堪能してみれば、そのそれぞれは、あたかも、いずれか一方の合わせ鏡にも似たモノであると、誰にも理解できるだろう。
と、言う様に、藤子・F・不二雄 (Fujiko F. Fujio) 論を書き出してしまうといつまでたっても終わらない議論が始まってしまうから、ここで擱筆しておくけれども、本来ならば、映画版ドラえもん (Doraemon The Movie Series) を劇場公開する場合は、本作品の様な、彼のSF短編作品を併映すべきなのである。しかも、その場合の主人公は大人になった野比のび太 (Nobita Nobi) が演じるのが、相応しいのに違いない。
そうすれば、『ドラえもん (Doraemon)』 [1969~1996年発表] に委ねざるを得なかった、藤子・F・不二雄 (Fujiko F. Fujio) の真の世界観が誰の目にも明らかになるのに違いないのだ。
さて。
久しぶりに、『やすらぎの館』を読んでみて思った事は、果たしてこの作品は現在でも流通可能な物語なのだろうか、という疑問である。
SF作品 [この場合は、サイエンス・フィクション (Sci Fi : Science fiction) でも少し不思議な世界 (Sukoshi Fushigina Sekai) でも、どちらでも構わない] として観るのに、少し旧びていやしないだろうか。
公私共々に、自身に過大な責務を求める重圧から逃れる為に、胎内回帰にも似た退行が促される。
物語の動機をその様なモノとして定義してみると、今や事態は、そんな単純な構造へと再構築する事を許されないのではないだろうか。
勿論、ある種のヒトビトにとっては、胎内回帰も、大きな願望のひとつである事は、時代がいくら更新されようとも、変わらない願いのひとつである事は間違いない。
だけれども、今は、このマンガの主人公の様な単純なドラマには、なり得ないのではないだろうか。
もしも、この四半世紀以上も前の作品を現在のモノとして観ようとするのならば、もっと、複雑にも怪奇にも似た様相を呈示せしめる必要があるのではないだろうか。
と、言うのは、藤子・F・不二雄 (Fujiko F. Fujio) のもう一方である、藤子不二雄 A (FUJIKO Fujio (A)) 作品にも、同じ様なドラマツルギーを見いだしたからなのだ。
『笑ゥせぇるすまん [『黒ィせぇるすまん』改題]
ここにも、公私ともどもの重圧から逃れて、幼児へと精神的な退行をしてしまった人物が登場する。
このふたつの作品を読み比べると、同一主題をふたりの藤子不二雄 (Fujiko Fujio) がどの様に変奏せしめたのか、その違いと手腕を堪能しながら、ふたりの作家性の相違を見いだす事も出来るのだけれども、ぼくが指摘したいのは、それではない。
なんだか、ふたつの物語も共に、経済の右上がり神話を、なんの疑いもなく信じる事が出来た、あの時代だから、描き得た。
そんな気がして仕様がないのだ。
例えば、島耕作 (Kosaku Shima) は、そんな夢を観るのだろうか。
否、彼ならば観るだろうな、古典的な物語の世界の住人だから。
と、言う訳で、その産みの親である弘兼憲史 (Kenshi Hirokane) には、島耕作 (Kosaku Shima)の"やすらぎの館"篇の執筆を望む次第である。
次回は「た」。
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