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2013.04.09.10.00

たろうをねむらせたろうのやねにゆきふりつむじろうをねむらせじろうのやねにゆきふりつむみよしたつじ

.......... 。

あ、いや、これぐらいのながさでもちゃあんと全文、ブログ・タイトルに反映されるんだなって、今、確認すると同時に、ちょっと感動していたところ。

と、いうネタは既にここでやってしまっている。

タイトルに掲げた作品を紹介すれば、三好達治 (Tatsuji Miyoshi) の詩集『測量船 (The Surveying Ship)』 [1930年発表] に掲載された詩『 (Snow)』である。
作者名も含め、総て平仮名表記で掲載したのは、この連載ルールに準じただけであって、それ以上の意味はない。
あらためて、作品全文を下に掲載する。

詩『
太郎をねむらせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
二郎をねむらせ、二郎の屋根に雪ふりつむ。

英訳も発見出来たので、そちらも掲載する。

Laying Taro to sleep,
snow lies thick on Taro's roof.
Laying Jiro to sleep,
snow lies thick on Jiro's roof.

この詩と出逢ったのは恐らく、小学校の教科書であって、流石にその際の感慨は憶えていない。だから本来ならば、往事の第一印象と時を経ての現在の感慨を相照らしてみれば、とっても簡便な印象論がちゃっちゃと出来上がってしまうのだろうけれども、そおゆう訳にはいかない。
それが出来ればぼくも簡単だし、この記事を読んでいるあなたも簡単だろう。手際よく対照も感応も出来てしまう訳なのだ [ちなみに、学習教材としてのこの詩は、こちらこちらで紹介されている]。

だけれども、そおゆう事情なので、あたかも初めてこの詩に出逢った様な素振りで、書き連ねてみたいと思う。

一見、隙だらけの詩なのだ。
読者は如何様にも、この詩を語る事が出来そうにも思えるし、しかも、この詩から導き出された心象風景を語れば、それで総てが完結してしまう様に想える。

だからと言って、ここで滔々と、己のこころの中に浮かび上がる映像をさも観てきた風に、ここで語る訳にはいかない。

いや、別に語りたいモノは語ればいいのだけれども、それはそっくりそのまま、己の中にある詩情とかうたごころとかが、ありのままに曝け出されるだけだ。
でも、それだけならば、まだいい。自身のこれまでの文学体験や芸術体験があからさまになるだけならば。

それだけではない。
己の実人生の中での経験や智慧や知識も、すっかり曝されて暴き出されてしまうのだ。

つまり、お里が知れらぁとも、語るに落ちるとも、そう言わしむる程の、不甲斐なさをも、暴露されてしまう可能性も危険性も、そこにはあるのだ。

この詩は、短い。
だけれども、短いとは言え、俳句よりも短歌よりも長い。長いだけならまだしも、俳句として読もうと試みても短歌として読もうと試みてもそれは出来ない。長過ぎるのだ。
それは、形式の事だけではない。
つまり、語句の長短のみならず、俳句よりも短歌よりも饒舌なのである。

俳句や短歌がそこで語らずに、密かに言外に匂わせているモノも、この詩では、実はきっちりと描写しているのである。

写生でも、客観描写でも、心象風景でもない。

この詩に登場する事物、例えば「太郎」や「次郎」や「屋根」や「雪」にしたって、この詩に見いだせる描写、例えば「ねむらせ」や「ふりつむ」を、一旦、抽象的な存在、抽象的な描写として、認識したいと、思ってしまう。
恐らく、誰もが。

だが、果たして、それでいいのか。

恐らく、殆どの読者は、一度は上に挙げた様な抽象化を試みる。
試みるが、それでは恐ろしく、据わりが悪いし、気も収まらない。
「太郎」ってなんだ、「次郎」ってなんだ、「屋根」ってなんだ、「雪」ってなんだ。
「ねむらせ」るとはどういう事か、「ふりつむ」とはどういう事か。

いつまでも終わらない堂々巡りに陥ってしまう。
だからきっと、その詩が描いている筈であろう映像を、己の内的なモノとして、ふと表白してしまうのだ。

だから、そこで気づくべきなのだ。
「太郎」も「次郎」も「屋根」も「雪」も、自身が観たり聴いたりした代物なのだ、と。それでしかない。
「ねむらせ」る事も「ふりつむ」事も、自身の実際の、行動や経験そのモノなのだ、と。それ以上でも、それ以下でもない。

つまり、抽象的な存在でも、抽象的な描写でもない。
この「太郎」でありあの「次郎」であり、この「屋根」であり、あの「雪」なのだ。
その場その時での「ねむらせ」る事であり、その場その時での「ふりつむ」事なのである。

総ては、具体的な実体をもって、自身の中に立ち顕われる、かつて実際に観たそのモノなのである。

お里が知れるとは、そおゆう意味なのである。
語るに落ちるとは、そおゆう事なのである。

だから、この詩についてこれから語ろうとするモノは皆、そこに留意しておくべきなのだ。

images
ところで、ぼくはこの詩に向かう度に、『楢山節考 (The Ballad Of Narayama)』 [深沢七郎 (Shichiro Fukazawa) 作 1956年発表] を思い起こしてしまう。
その最期の場面だ。
同じ小説に材を得たふたつの映画のうち、『楢山節考 (The Ballad 0f Narayama)』 [木下惠介 (Keisuke Kinoshita) 監督作品 1958年制作] は未見なので、これから書く描写は『楢山節考 (The Ballad Of Narayama)』 [今村昌平 (Shohei Imamura) 監督作品 1983年制作] からの印象だ [上に掲載する画像は、そのパンフレットからのモノである]。


老いた母を山に捨てにゆく息子は、降り出した雪を知って、母親にこう語りかける。
運がいいや、雪が降って、おばあやんはまあ、運がいいや、ふんとに雪が降ったなあ
母を殺める雪を、言祝いでいるのである。
そして、母もまたその雪を知り、満願の笑顔をみせるのである。

小説の中に引用されているうたでは、次の様なふたつの歌詞がある。
その地方での、雪がもっている二面性を、それぞれふたつの方向から照射したモノだ。
塩屋のおとりさん 運がよい / 山へ行く日にゃ 雪が降る
なんぼ寒いとって 綿入れを / 山へ行くにゃ 着せられぬ

三好達治 (Tatsuji Miyoshi) の『 (Snow)』という詩は、このふたつの歌詞の、ちょうど真ん中にある様な気が、ぼくにはするのだ。

つまり、以上がぼくのお里であって、こおやってぼくもまた、語るに落ちてしまった、という訳なのだ。

次回は「」。

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