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2013.02.10.00.03

『ほぼ日刊イトイ新聞』で『21世紀の「仕事!」論。』『16 主夫』を読む

と、タイトルに書いたものの、これから書こうとしている事柄は、『ほぼ日刊イトイ新聞』での連載企画『21世紀の「仕事!」論。』の『16 主夫』の中で騙られている事柄そのものよりも、そこから触発されて、ぼく自身が考えざるを得ない事柄の方が多いかもしれない。

とは言うものの、その記事で、『ほぼ日刊イトイ新聞』の担当者奥野武範が問いかけ、主夫荒木源が応える内容を前提にしなければ、ただでさえ解りづらいぼくの戯言の様な思考回路が、さらに不分明のモノとなってしまう。

だから、本稿記事を未読の方は、先にそちらを読んでから、これ以降の駄文におつきあい願えると嬉しく思う。
尚、文中総て敬称を略させて頂いた。ご了承を願う次第である。

ほぼ日刊イトイ新聞』『21世紀の「仕事!」論。』『16 主夫
第1回 「特捜部まわり」みたいだった。
第2回 弁当は「先読み」の世界だ。
第3回 おうちのなかを、バランスさせる。
ちなみに、連載企画『21世紀の「仕事!」論。』単独の目次的な頁はなく、『16 主夫』の頁下部に、"これまでの『21世紀の「仕事!」論。』"が纏められて掲載されている。なので、そちらから興味のある他の「仕事!」にアクセスしたら良いだろう。

では、はじめます。

この記事を読み始める前、なぜ主夫なのか、という疑問が湧いた。
勿論、"しゅふ"は重要な労働であり、それを職業という視点で観るという点に関しては、異論はない。だけれども、何故、"主婦"ではなくて"主夫"なのだろうか、という疑問なのだ。
"主夫"の前に"主婦"を取り上げるべきではないだろうか、それとも、先ず始めに"主夫"を取り上げてその後にいずれ"主婦"を取り上げるのか、と、いろんな考えが渦を巻く。

例えば、これまでに『21世紀の「仕事!」論。』では、『03 レーシングドライバー篇』の後に『12 メカニック篇』があり、『02 パイロット篇』の後に『13 航空整備士篇』があったりと、同業のなかの異なる「仕事!」を取り上げている。
そして、その一方で『01 TVディレクター篇』と『05 アニメーション監督篇』と『15 ストップモーション・アニメーター篇』という様に、異業種 / 異業態でありながらも夫々の現場に於いて同じ様な役割を担う「仕事!」を取り上げている。

だから、もしも"しゅふ"を「仕事!」に於いて取り上げるのであるならば、"主婦"と"主夫"を切り離して考える事も出来るだろうし、その結果、"主夫"が取り上げられれば、"主婦"が取り上げられても不思議ではない。

と、言うよりも、それ以前にぼくが危惧したのは、"主婦"へのまなざしが抜け落ちた視点から、"主夫"を語る可能性、もしくはその陥穽へ陥る事への危惧なのだ。

例えば、「あえて主夫としての生き方をぼくは選びました」という様な、妙に小利口な小賢しいヴィジョンが無自覚に語られたとしたら、それは少し、乱暴で雑で危うい議論になりかねない、そう思うからだ。
仮令、発言者が善意でそれを語ったとしても、その奥底にあるモノを引きずり出す悪意くらいは、誰にだって兼ね備わっているのに違いないからだ。
と言うか、そんな悪意をばらまきたい欲求に絡めとられているのは、このぼく自身なのだ。

だけれども、そんな杞憂は早い段階で解消されてしまう。
それは、次の発言である。

奥野武範「僕の家庭は、いわゆる「共働き」なのですがひとつの『あこがれ』といいますか、『奥さんがはたらき、自分が炊事洗濯や子育てをする』という形態がやってみたいなと思う家族のカタチとしてずっと、頭にあったんです」 [第1回]

と、言うのは『21世紀の「仕事!」論。』には、この記事に限らず、担当者である奥野武範の、「あこがれ」めいたモノが取材の起点になっている様に読めるからだ。
そして、読者であるぼく達は、奥野武範の「あこがれ」を、大なり小なり共有しながら記事を読み進めていく事になるのではないだろうか。だから、奥野武範の中の「あこがれ」のおおきさとその向いている方向が、読んでいるぼく達のそれと完全に一致したとき、その記事は俄然、面白くなるのだ。

奥野武範が"しゅふ"に対して「やってみたいなと思う家族のカタチ」という憧れを持っている以上、彼にとっての取材対象は"主婦"ではなくて、"主夫"に、ならざるを得ない。

そこに合点が嵌れば、なんの問題もなくこの記事を読み進める事が出来る筈なのだけれども、その間、ここかしこに"主婦"ではなくて"主夫"、これに相応する疑問が常に、頭の中を掠めてゆく。

例えばこんな思考。
何故、小説家でもある荒木源が取材対象なのだろうか。荒木源本人が「兼業主夫であることはたしかです」 [第1回] と発言している様に、彼は専業"主夫"ではなくて、作家業を兼ねている兼業"主夫"なのに。
何故、純粋な意味での専業"主夫"に取材しないのだろう。
とは言うものの、世界で最も有名な"主夫"であった、1970年代後半のジョン・レノン (John Lennon) ですら当時、音楽活動の一線から身を引いていたとは言え、その間の収入はこれまでの10数年間の音楽活動で得たモノの蓄積なのだ。自身の印税収入で生活していた以上、彼もまた兼業"主夫"でしかない。
と、言う意味では、純粋な意味での専業"主夫"を見いだすのは、非常に困難な作業なのだろうか。

例えばこんな試考。
"主夫"に取材するという事は、"育児"が話題にはなっても、その前段である"妊娠"や"出産"は、直接的な自身の問題としては、オミットされるんだよな。だから「仕事!」としての"しゅふ"という主題では、"主婦"よりも"主夫"の方が、より相応しいのか。いや、待てよ。"しゅふ"に限らず、女性にとっての「仕事!」として観れば、例え他の職業であっても"妊娠"や"出産"は、避けて通れない問題だよな。

例えばこんな私考。
一人暮らしの人物が日々、行わなければならない家事は、「仕事!」と呼べるのだろうか。もし、呼べるとすれば、それは自身で提供する労働を [別の観点から観た] 自身で享受するからだろうか。もし、呼べないとしたならば、同居人 [伴侶やこどもを含めた] が、提供された労働をそれを享受し、評価するという側面が不可欠だからだろうか。

と、言う様な、その記事で実際に語られているモノ事とは別の問題が内心の中でいくつもわき上がって来るのである。
しかも、そのどれもが、仕事とはなにかとか男性性とはなにかとか女性性とはなにかとか、一見、単純な定義でありながらも、実は奥深い問題ばかりなのである。

しかも、記事上では、奥野武範に対する荒木源の回答 [例えば第2回の太字で強調された箇所を拾うだけでも] が明確で適切で、しかもあろう事か「仕事!」論として十二分に語られている。
もしかしたら、彼以外の"主夫"や"主婦"ですら、この記事を読んで、日々行うべき雑事の向こうにあるモノが観えてくるかもしれない。つまり、自分自身の"しゅふ"としての体験や経験が、誰にでも理解しうるかたちで、理論化 / 客観化されているのだ。
しかし、それであるが故にぼく自身はと言えば、その記事中で、決着した疑義をとっかかりに、さらにややこしいところまで踏み込んでしまうのであった [てか、それはぼくだけの仕様もない性分のせいだろうか]。

だからこそ、そおゆう意味では、あらたな人物なり、別の視点なりの「仕事!」としての"主夫"論を読んでもみたいとも思う。

勿論、奥野武範の"主婦"論もだ。
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