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2013.01.28.00.01

『コンビニのおでんが好きで星きれい 神野紗希』を読む

タイトルに掲げた句は、神野紗希の句集『光まみれの蜂』に掲載されている。
だけれども、俳人には申し訳ない、未入手だ。ネット上で読んだ。
そのネット上では、掲句の中のいくつかのキーワードを投入して検索すると、この句について語っている記事がいくつも出てくる。
だから、通常は、出典先や参照先となるサイト頁のリンク先を明記しているところを、今回はしない。

興味がある方は、ぼくの様に検索してみたら、いかがだろう。
但し、ネット上で語られているモノは皆、玉石混淆だ。
この句に関してばかりに限った話ではない。

だからもし、ノイズやバイアスのかかっていない状態で、この句をネット上で鑑賞したい、もしくは、その論評を読みたいという向きには、俳句ウェブマガジン『スピカ』で掲載されている、神野紗希のプロフィール [こちらの頁の下段 プロフィール欄] を読まれるといいだろう。
何故ならば、そこで、俳人は「自選十句」の中のひとつとして、掲句を挙げているからだ。

個人的な話をする。

ぼくは東海地方にある某県庁所在地の出身で、大学進学の為に上京するまで、産まれて以来、ずっとその地で暮らしていた。
だから、そこで食する事の出来るおでんは、全国区的に名付けられているモノとは、少し違う。
ぼくが産まれてこのかた、その地で喰って来たモノは、所謂静岡おでんである。定冠詞的に"所謂"をつけたのには、たいした意味はない。単純に、地元の人間はそれを単におでんと称し、決して静岡おでんなぞと呼ばわったりしないからだ。

数年前に、その所謂静岡おでんをフィーチャーした、佐藤浩市主演のCMキリン一番搾り生ビール』が流れて以来、全国区的な知名度を獲得した様に想えるが、それまでは地元から外部へは紹介されていないし、理解もされていない様に想われる。
だがしかしそれとは逆に、地元のモノにとっては、おでんとはそれであり、それ以外のモノはおでんではない。だから、地元のモノが他所へ赴き、彼の地でのおでんと称されているモノを振る舞われると、ちょっと吃驚する。

[どんな具 / どんな料理 / どんなレシピなのかは、こちらのサイトを参照してください。]

そして、そのおでんは、おかずであると同時に肴でもあり、さらにおやつでもある。
前2者は、所謂普通のおでんでも当てはまる事だろうけれども、最期のおやつに関しては、若干の補足が必要かもしれない。そして、味そのものの特殊性よりも、そちらの方が寧ろ、所謂静岡おでんの大きな特色かもしれないのだ。

関西における、お好み焼きの様な地位にあるのだろうか。この見解は、双方からも批判や批難が飛んできそうな気もするのだけれども。

その地方の駄菓子屋には冬場、お好み焼き等を焼く為の鉄板の隣に、おでん鍋が設けられていて、子供達はそこで所謂静岡おでんを買い喰いするのだ。店によっては、夏場は鉄板、冬場はおでん鍋と、季節季節で、交代するところもある。
いずれにしろ、子供達は、好きずきにセルフ・サービスで好みの具を食べ、駄菓子屋の店主であるおばちゃんは、彼らの喰べ残しである串の数を数えて、料金を徴収するのだ。

だから、所謂静岡おでんを駄菓子屋で供せられ、その味に幼い頃から馴染んできたモノにとっては、味だけではなく、他の地方のヒトビトのおでん体験とは微妙に違う筈なのだ。

そして、もう少し、ややこしい話を語るとすれば、ぼくの父方は関西出身なので、ぼくが自宅で味わうおでんは、関西系統のおでん、所謂静岡おでんとは、全く違うモノなのである。しかも、全く違う味付け、違う具であるにも関わらず、そのどちらもが、おでんと称せられているのだ。

[一度、父方の縁戚のモノにおねだりして、おやつとして所謂静岡おでんを作ってもらった事があった。その味は、所謂静岡おでんとするには、いささか妙な味付けだった。だけれども、それ以上に印象に遺ったモノは、料理した本人曰くの、台詞である。こう言ったのだ。こんなのおでんぢゃないわねぇ、と。]

だから、当時のぼくにとっては、2種類のおでんという名の料理があり、一方は駄菓子屋で喰べるおやつであり、一方は家庭で囲む献立なのである。
味や具が異なるだけではない。
駄菓子屋で友達達と喰べるおでんと、自宅で家族そろって喰べるおでんは、その場を共有するヒトも異なれば、そこで交わされることばも異なれば、そこで育まれる感情やこころの動きも異なるのである。

もしも、ぼくがそのまま長じて、地元でずっと暮らしているのならば、駄菓子屋で喰べるおでんはそのまま、居酒屋の肴となって顕われる事になっただろう。
だけれども、実際は進学して上京してそのままそこに居着いてしまった。しかも、実家には、冠婚葬祭の時くらいにしか帰省しないから、所謂静岡おでんは、幼い時に喰べたおやつとしての記憶しかない。

その結果、ぼくにとっては、少なくとも3種類のおでんという名の料理があり、しかも、そのみっつは味が異なるだけではなくて、それを喰べるぼく自身の年齢も違えば、それを饗する環境や状況も違えば、そこから産み出される物語も、全く異なるモノなのである。

そんなぼくからみれば、掲句は有季か無季かと尋ねられれば有季と答えるだろうし、その場合の季語はと問われれば、「コンビニのおでん」と答えるだろう。

既に冬の季語としての地位を確立している「おでん」ではなくて、あくまでも「コンビニのおでん」だ。
何故ならば、上に長々と書いた様に、ぼくにとっては幾種類ものおでんがあり、そのそれぞれに異なる情景や叙情が潜んでいるからだ。

ここまでは、ぼく個人の独特の体験に基づいた句の解釈として、誰にも、異論はないと想う。

だけれども、季語を「コンビニのおでん」とするのは、ぼくの様な、ヒトとはちょっと変わった環境にあったモノ、ちょっと変わった経験を積んだモノだけなのだろうか。

コンビニにおでんが登場したのは、1979年。セブンイレブンが初めて販売した。
少なくとも、その年を境にして、おでんとそれを食するヒトビトをめぐる環境は、様変わりし始めたのではないだろうか。さもなければ、おでんをめぐる環境があらたにひとつ加わったのではないだろうか。

「コンビニのおでんが好き」とはなにも、味そのものだけに言及しているとは限らない。
しかも、「コンビニのおでん」は通常、ぼくの幼い頃の駄菓子屋とは違って、その場所で喰べるのではなくて、持ち帰る事が前提となっている [地域 / 地方によっては、その場で喰べられるカウンターが設けられている場所もある様だけれども]。

だから、この句で詠われている主題は、「コンビニのおでん」そのものではなくて、「コンビニのおでん」を持ち帰ったその先に待っているモノなのではないだろうか。
そうして、それは「コンビニのおでん」でなければ得られない体験や物語なのではないだろうか [イメージのしづらいヒトの為に敢て補足すると、"深夜の買い出し"や"受験生の夜食"や"職場への差し入れ"等が、それに相応すると想うが]。

ヒトそれぞれに様々なおでん体験がある。しかも、そのおでん体験を演出するおでんとは、総てが一様で同様の味でもない。家族の団らんで味わうおでんと、専門店で喰べるおでんの、その味が違う様に、その場を共有するヒトもそこで語られる物語も違う。
それと同様に、否、それ以上に「コンビニのおでん」は、独自の物語を語り出すのではないだろうか。

多種多様なおでん体験があれば、多種多様な感興が産まれるだろうし、その結果として、多種多様の創作作品が誘発される可能性が全くない、とは絶対には言えない。

逆に言えば、「コンビニのおでん」を未体験のヒトがこの句を理解しがたいのと同様に、「コンビニのおでん」しかしらないヒトもまた、この句を理解しがたい、と言う事も出来るのではないだろうか。

それだけに、おでんないしは「コンビニのおでん」を契機として、ヒトそれぞれの機微のうらうらを刺激する句ぢゃあないのかなぁ、と想うのだ。

単純に言うと、この句について熱く語るよりも、この句に刺激されて、それぞれのおでんへの想いを熱く語る、そんな事を期待された句と看做すべきなんぢゃあないだろうか。

附記 1. :
それにも関わらずに、この句を受け入れがたい、もしくは認めがたいと言うのならば、その原因は季語であるところの「コンビニのおでん」にあるのではない。
心情的な抵抗を発させる装置はむしろ、下五にあるのではないだろうか。
一見、なんの衒いも見栄も技巧も施さずに、ぽおんと放り出された様な佇まいなのだ。そして、その佇まいが抵抗させるのだ。
例えば10代の少年少女がこの句を提出したらどう想うか、例えば、全くの初心者が己の初作だと言って提出してきたらどう想うか。
恐らく、だれもが褒めるだろう。句の巧拙とは別のところで。
そうした上で、提出された句に対して、己の持論をとうとうと述べるのに違いない。
それ程に、誰でもが感慨を抱き、誰でもが感想を語る事の容易い、もしくは、それを誘発する様な句である。この句を肯定するのも否定するのも容易い。その何れの立場にたっても、誰しもが持論を語り得るだろう。
だけれども、それを一旦、口ごもらせるモノがどこかにある。
この句を語る事によって、己のなかにあるモノの質と量と、程度と度量があからさまになってしまう。そんな危惧を抱かせるのだ。
文字通りに、語るに墜ちてしまう、そんな危機感や警戒感を抱かせられるのだ。
つまり、句そのものではなくて、その口ごもらせるモノに対して、抵抗せざるを得ない。
そんなヒトビトが発しようとしたそのことばを引き戻してしまうのである。

それがなんなのかは、書かなくてもいいだろう。
そんなヒトビト自ら、それを既に知っている筈だから。

附記 2. :
みんなの大好きな鍋底大根だって、その名称と人気が一般的になったのは、中山美穂主演のCMキリン一番搾り生ビール』が放映されてから。1999年の事。歴史って意外とそんなものだよ。
ちなみに所謂静岡おでんには鍋底大根は入っていません。
こどもには不人気だからね、大根は。

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