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2013.01.15.07.49

れっつげっとろすと

スタンダード・ナンバー (Jazz Standards) 『レッツ・ゲット・ロスト (Let's Get Lost)』は、映画『ハッピー・ゴー・ラッキー (Happy Go Lucky)』 [カーティス・バーンハート (Curtis Bernhardt) 1943年制作] の為に、作詞:フランク・レッサー (Frank Loesser) ・作曲:ジミー・マクヒュー (Jimmy McHugh) のコンビによって創られた楽曲で、その映画の中では、主演でマージョリー・ステュアート (Marjory Stuart) 役のメリー・マーティン (Mary Martin) が歌唱している。

だけれども、他の多くのスタンダード・ナンバー (Jazz Standards) 同様に、映画からそのまま直ぐにスタンダード化を果たした訳ではなくて、この楽曲も、チェット・ベイカー (Chet Baker) の歌唱を抜きにしては考えられない。むしろ、チェット・ベイカー (Chet Baker) というミュージシャン / シンガーと、抜きがたく離れがたい程に不可分一体のモノであって、恐らく、この曲を唱う殆どのシンガーは、チェット・ベイカー (Chet Baker) の歌唱を前提として、歌唱を挑む必要に迫られると、思う。
勿論、チェット・ベイカー (Chet Baker) の歌唱スタイルとは全く異なるアレンジや唱法を試みたとしても、それもそれ、他のシンガーや他の歌唱と同じ様に、対比され比較されるのに違いはないのだ。

だけれども、この駄文で試みるのは、そのチェット・ベイカー (Chet Baker) の歌唱や他のシンガーの歌唱について、ではない。
この曲をそのままタイトルに持ってきた映画『レッツ・ゲット・ロスト (Let's Get Lost)』 [ブルース・ウェーバー (Bruce Weber) 監督作品 1988年制作] について、書き連ねてみたいと思うのだ。チェット・ベイカー (Chet Baker) を主人公に据えた、モノクロームのドキュメンタリー・フィルムである。

ぼく自身は、この映画が公開されたその年に、リアル・タイムで映画館で体験している。
そして、その当時のぼくはと言えば、ドキュメンタリーの主体であるチェット・ベイカー (Chet Baker) よりも、それを映像化した映画監督、ブルース・ウェーバー (Bruce Weber) の方に、馴染みがあった。
撮られる方よりも、撮る方に関心があった訳だ。

ブルース・ウェーバー (Bruce Weber) は、映画監督というよりも、本業はカメラマンの方であって、そちらの方が、当時もそして恐らく今も、遥かに知名度が高い。
彼が撮影した一連のカルバン・クライン (Calvin Klein) の広告写真 (Advertising Campaign) や、その延長線上にあるメール・ヌード作品 (Male Nude Photography) が注目を集めていた時季で、その事が逆に、彼の撮影によるマドンナ (Madonna) のアーティスト写真 (Images) が [撮影者も被写体も] さらなる注目を浴びる事になる、そんな時季だ。
その彼が、止まっている映像集ではなくて、動く映像集として、チェット・ベイカー (Chet Baker) を追うと言うのである。

若き日のチェット・ベイカー (Chet Baker) を撮影した、ウィリアム・クラクストン (William Claxton) による一連の作品がある。そして今、映画監督であるブルース・ウェーバー (Bruce Weber) の前には、老醜の惨とでも表現したくなるような老いたチェット・ベイカー (Chet Baker) の姿がある。
若き日の彼の姿を撮ったウィリアム・クラクストン (William Claxton) の作品は、観方によっては、ブルース・ウェーバー (Bruce Weber) の作品かと見紛う程に、ブルース・ウェーバー (Bruce Weber) の写真作品に多大な影響を与えている様に観えてしまう。
ブルース・ウェーバー (Bruce Weber) は、チェット・ベイカー (Chet Baker) というミュージシャンではなくて、それを撮影したカメラマン、ウィリアム・クラクストン (William Claxton) の方に、より関心と興味があるのではないか、そんな邪推すらも湧きかねない。

images
だから、映画を観るぼく達は、ふと、老いたチェット・ベイカー (Chet Baker) をフィルムに収めてゆくブルース・ウェーバー (Bruce Weber) の行為は、彼にとっての代償行為 (Substitution) ではないか、と思えてしまう。
そして、撮影機材を前にして、己の半生を語るチェット・ベイカー (Chet Baker) の、かつての彼自身の物語を語る姿を観ていると、撮る方のみならず、撮られる方もまた、代償行為 (Substitution) でしかない様に思えてしまうのだ。
しかも残酷にもインタヴュアーでもある映画監督は、若き日のインタヴュイーの写真を背に、彼を座らせて、それを語らせるのである [掲載画像はその一シーン]。

チェット・ベイカー (Chet Baker) の人生は、あまりにも劇的だ。そして、劇的過ぎる故に、彼の生涯をそのまま映像化しても、逆にあまりにも白々しいモノにしかなり得ない様に、思える。
安手のフィルム・ノワール (Film Noir) の主人公にする事すらもおぼつかないし、もしも、あえてそれに据えたとしても、逆に現在のヴィジョンでは、ギャグ作品にしかなり得ない。精々が、主人公を取り巻く主要人物のひとりにしかなり得ないだろう。つまり、彼がいる事によって、主人公の生と性と死が浮かび上がる様な。

ぼく達の同世代のモノに解る様な、安直な比喩を使えば、チェット・ベイカー (Chet Baker) の生涯は、『あしたのジョー (Tomorrow's Joe)』 [原作:高森朝雄 (Asao Takamori) 画:ちばてつや (Chiba Tetsuya) 1967年連載開始] の、矢吹丈 (Joe Yabuki) にも力石徹 (Toru Rikiishi) になる事もおぼつかず、せいぜいがウルフ金串 (Wolf Kanagushi) にしか、なり得ないのだ。

だけれども、実際のチェット・ベイカー (Chet Baker) にとっては、矢吹丈 (Joe Yabuki) も力石徹 (Toru Rikiishi) もいなかったが為に、己一人ためにその生涯を全う出来たのである。

だから、映画公開のその年、ホテルの自室から謎の転落死を遂げて終わった、その生涯は、あまりにも陳腐でできすぎたモノの様にしか思えないのだ。

そして、彼が唱う『レッツ・ゲット・ロスト (Let's Get Lost)』は、喪ったモノを再び取り戻そう (Let's Get Lost) と唱っているのにも関わらず、ぼくには、せっかく取り戻したモノを再度、捨ててしまおう (Let's Lose Got)、としか、聴こえないのである。

次回は「」。

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