2012.12.25.18.42
ディス・ヒート (This Heat) [1976年結成 1982年解散] の楽曲『被爆症 (Hi Baku Shyo : Suffer Bomb Disease)』は、1981年発表のセカンド・アルバム『偽り (Deceit)
』の最終曲として発表された。この作品の発表をした1年後に、3人編成のこのバンドは解散してしまうのだから、彼らの白鳥の歌 (Swan Song) と、呼ぶべきモノなのかもしれない。
ちなみに、日本語表記のアルバム・タイトル"偽り"は、よくある様に、当時の国内盤の発売元ジャパンレコードがつけた"邦題"だけれども、この曲名の日本語表記は違う。ラフ・トレード・レコード (Rough Trade Records) から発売されたオリジナル英国盤にも、その通りに漢字表記で記名されている。正式な楽曲名なのである。
楽曲そのものに向かう前に、当時の周辺状況を整理してみる。
1981年と言えば、その同じ年には、再結成キング・クリムゾン (King Crimson) が、その第1作『ディシプリン (Discipline)
』で『待ってください (Matte Kudasai)』を発表し、その前年には、ゲイリー・ニューマン (Gary Numan) が、ソロ名義としては第2作の『テレコン (Telekon)
』で、『別れよう (This Wreckage)』を発表している。
どちらの楽曲も、邦題名とされている言葉が、日本語そのままに唄われている楽曲である。そのどちらも、単なる奇を衒ったものではない証拠に、イントネーションやフレージングやメロディ・ラインも、きちんと日本語としてのそれらに従っているのだ。所謂カタカナ表記のニホンゴでも、当時席巻していたイエロー・マジック・オーケストラ (YMO : Yellow Magic Orchestra) のコンセプトである、アジアの中の勘違いされたニッポンでもない。当然の様に、旧来的なサムライ・フジヤマ・ゲイシャの世界観でもない。
恐らく、『待ってください (Matte Kudasai)』や『別れよう (This Wreckage)』の先駆者として位置づけられるのは、ザ・サンドパイパーズ (The Sandpipers) の『ちょっと待ってください (Chotto Matte Kudasai : Never say Goodbye)』[1971年発表 『ギフト・オブ・ソング (A Gift Of Song)
』収録] になるかと思われるが [この曲に関しては既にここに書いた]、それはある意味で突然変異の様なモノで、この2曲の直系の祖先はきっと、クィーン (Queen) の『手をとりあって (Teo Torriatte : Let Us Cling Together)』 [1976年発表 『華麗なるレース (A Day At The Races)
』収録] に違いない。
何故ならば、いづれの曲も、当時囁き始められた、ビッグ・イン・ジャパン (Big In Japan) というビジネス・モデルの存在が内に潜んでいるのに違いなく、クィーン (Queen) こそがビッグ・イン・ジャパン (Big In Japan) の嚆矢たる存在だからだ。
コンサート・ツアーで来日した余勢を駆って、日本のスタジオでレコーディングされたT・レックス (T. Rex) の『20センチュリー・ボーイ (20th Century Boy)』 [1973年発表 『タンクス (Tanx)
』収録] や、ジャパニーズ・キモノでキッチュの極みを尽くした、スパークス (Sparks) の『『キモノ・マイ・ハウス (Kimono My House)』
』 [1974年発表]、来日公演時に同道した某日本人ジャーナリストを揶揄したブライアン・フェリー (Bryan Ferry) の『トーキョー・ジョー (Tokyo Joe)』 [1977年発表 『イン・ユア・マインド (In Your Mind)
』収録]、これらはみんな、当時の音楽シーンに於いて、日本のマーケットのいびつな評価に他ならない。
あぁ、そお言えば、ディープ・パープル (Deep Purple) の『ライヴ・イン・ジャパン (Made In Japan)
』 [1972年発表] の、作品面とビジネス面、両方での成功は、さらにそれに先駆けるのか。
と、言う様な、音楽シーンの、特にビジネス面での潮流とは、実は、ディス・ヒート (This Heat) の『被爆症 (Hi Baku Shyo : Suffer Bomb Disease)』という楽曲は、あまり関係はないのだ。
むしろ、それを呑込んだかたちでの、大きな時代の流れの方が、直接的に影響していると思う。
スリーマイル島原子力発電所事故 (Three Mile Island Accident) が1979年3月、同年6月には米ソ (Soviet Union–United States) がSALT II:第2次戦略兵器制限交渉 (SALT II : Strategic Arms Limitation Talks II) の締結に至るも、その半年後の1979年12月には、ソ連 (USSR) がアフガニスタンに侵攻 (Soviet War In Afghanistan) に侵攻する。
世界各地で反核反原発の蠢きは出てくるものの、米ソ中英仏 (China, France, Russian Federation, the United Kingdom, and the United States) といった"持てる国"の原水爆核実験は粛々と進められ、"持たざる国"であった南ア (South Africa) は1979年に核実験を開始する。
また、英国ではマーガレット・サッチャー (Margaret Thatcher) が政権を握り [1979〜1990]、1981年に米はロナルド・レーガン (Ronald Reagan) が合衆国第40代大統領 [1981〜1988] に就任する。それぞれがどちら側へと舵をきるのか、それによって、国際情勢やそれぞれの国内情勢がどちらへ向かうのかは、その当時、誰の眼にも明らかだった。
ちなみに、ロナルド・レーガン (Ronald Reagan) が大統領に就任した翌年に、我が国の総理大臣に指名されたのが中曽根康弘 (Yasuhiro Nakasone) で、日本も米英 (United Kingdom - United States) に追随する様になる。

そんな社会情勢を反映しての楽曲『被爆症 (Hi Baku Shyo : Suffer Bomb Disease)』なのだ [掲載画像は、その曲を収録したアルバム『偽り (Deceit)
』]。
だからと言って、この曲は、声高にある政治的なスローガンを叫ぶモノでも、戦争の被害者の窮状を訴えるモノでもない。
ただ、静かに、被爆症罹病患者の一家の、ある夜の叙景を綴っている [様に聴こえる]。
もしくは、昭和の原風景とも呼べる様なモノで、静かな、そして、寂しい冬の夜の情景を描いている [様に聴こえる]。
狭い四畳半、裸電球の灯りをおとした部屋は暗く、暖房もないその部屋に一家がひしめき合って眠っていて、そとからは、犬の吠え声、チャルメラの音、吹きすさぶ北風が電柱をきしませ、そんな音を遠景に、柱時計の時を刻む音がいつも以上に大きい [様に聴こえる]。
そんな風にこの曲を聴いてしまうぼくは、いつもうすら寒さに見舞われる。幸運 [と呼んでいいのかどうかは解らないけど] にも、かつてのぼく達一家は被爆には無縁だったけれども、ぼくの幼い時には、まだ、戦争の生々しい傷痕が、高度経済成長の軋みから、時折、顔を覗かせていたのだ。
だから、この曲は、そんな傷痕を見てしまった幼いぼくの記憶を、ダイレクトに甦らせる、嫌な再生装置としての機能を果たしてしまうのだ。それは、戦争や戦後を描く他の物語にあらかじめ添えられているエンターテイメントとは無縁なモノだけに、生々しくもあり、嫌らしくもあった。
だが、こんなぼくの体感が、総てのヒトに相通じるかどうかは、極めて、訝しい。とりわけ日本語を解せない多くのヒトビトにとっては。"被爆症"という漢字表記と、そのアルファベット表記の"Hi Baku Shyo"がどこまで共通解として通用するのだろうか。敢て、そして、大慌てでつけ加えるのならば、この曲はインストゥルメンタル・ナンバーで、歌詞や発話は一切ない。
題名が背負っているモノを排除した地点で、この曲はどう鳴り響く事が出来るのだろうか。
精緻に構築されたサウンドそのものは、完成度は高く、それを聴くモノに、ナニカを迫るのには違いない。
あぁ、確かに違いはないのだけれども、 ... 。
それよりもむしろ、ぼくが恐ろしく思うのは、なぜ、どうやって、ここまで、リアリズムに徹したサウンドを構築出来たのだろうか、という事なのである。
メディアや報道だけでは、決して伝えきる事の出来ない、なにかが、そこにあるからだ。
と、同時に、この曲が成立した時代状況は、そっくりそのままに、今の東アジア情勢と相似形を成している事、そして国内に眼を向ければ、3.11.以降の、フクシマ以降の、この国のどこかで、この曲に描かれているままの夜が、数多くある。
と、いう事なのだ。
次回は「う」。
ちなみに、日本語表記のアルバム・タイトル"偽り"は、よくある様に、当時の国内盤の発売元ジャパンレコードがつけた"邦題"だけれども、この曲名の日本語表記は違う。ラフ・トレード・レコード (Rough Trade Records) から発売されたオリジナル英国盤にも、その通りに漢字表記で記名されている。正式な楽曲名なのである。
楽曲そのものに向かう前に、当時の周辺状況を整理してみる。
1981年と言えば、その同じ年には、再結成キング・クリムゾン (King Crimson) が、その第1作『ディシプリン (Discipline)
どちらの楽曲も、邦題名とされている言葉が、日本語そのままに唄われている楽曲である。そのどちらも、単なる奇を衒ったものではない証拠に、イントネーションやフレージングやメロディ・ラインも、きちんと日本語としてのそれらに従っているのだ。所謂カタカナ表記のニホンゴでも、当時席巻していたイエロー・マジック・オーケストラ (YMO : Yellow Magic Orchestra) のコンセプトである、アジアの中の勘違いされたニッポンでもない。当然の様に、旧来的なサムライ・フジヤマ・ゲイシャの世界観でもない。
恐らく、『待ってください (Matte Kudasai)』や『別れよう (This Wreckage)』の先駆者として位置づけられるのは、ザ・サンドパイパーズ (The Sandpipers) の『ちょっと待ってください (Chotto Matte Kudasai : Never say Goodbye)』[1971年発表 『ギフト・オブ・ソング (A Gift Of Song)
何故ならば、いづれの曲も、当時囁き始められた、ビッグ・イン・ジャパン (Big In Japan) というビジネス・モデルの存在が内に潜んでいるのに違いなく、クィーン (Queen) こそがビッグ・イン・ジャパン (Big In Japan) の嚆矢たる存在だからだ。
コンサート・ツアーで来日した余勢を駆って、日本のスタジオでレコーディングされたT・レックス (T. Rex) の『20センチュリー・ボーイ (20th Century Boy)』 [1973年発表 『タンクス (Tanx)
あぁ、そお言えば、ディープ・パープル (Deep Purple) の『ライヴ・イン・ジャパン (Made In Japan)
と、言う様な、音楽シーンの、特にビジネス面での潮流とは、実は、ディス・ヒート (This Heat) の『被爆症 (Hi Baku Shyo : Suffer Bomb Disease)』という楽曲は、あまり関係はないのだ。
むしろ、それを呑込んだかたちでの、大きな時代の流れの方が、直接的に影響していると思う。
スリーマイル島原子力発電所事故 (Three Mile Island Accident) が1979年3月、同年6月には米ソ (Soviet Union–United States) がSALT II:第2次戦略兵器制限交渉 (SALT II : Strategic Arms Limitation Talks II) の締結に至るも、その半年後の1979年12月には、ソ連 (USSR) がアフガニスタンに侵攻 (Soviet War In Afghanistan) に侵攻する。
世界各地で反核反原発の蠢きは出てくるものの、米ソ中英仏 (China, France, Russian Federation, the United Kingdom, and the United States) といった"持てる国"の原水爆核実験は粛々と進められ、"持たざる国"であった南ア (South Africa) は1979年に核実験を開始する。
また、英国ではマーガレット・サッチャー (Margaret Thatcher) が政権を握り [1979〜1990]、1981年に米はロナルド・レーガン (Ronald Reagan) が合衆国第40代大統領 [1981〜1988] に就任する。それぞれがどちら側へと舵をきるのか、それによって、国際情勢やそれぞれの国内情勢がどちらへ向かうのかは、その当時、誰の眼にも明らかだった。
ちなみに、ロナルド・レーガン (Ronald Reagan) が大統領に就任した翌年に、我が国の総理大臣に指名されたのが中曽根康弘 (Yasuhiro Nakasone) で、日本も米英 (United Kingdom - United States) に追随する様になる。

そんな社会情勢を反映しての楽曲『被爆症 (Hi Baku Shyo : Suffer Bomb Disease)』なのだ [掲載画像は、その曲を収録したアルバム『偽り (Deceit)
だからと言って、この曲は、声高にある政治的なスローガンを叫ぶモノでも、戦争の被害者の窮状を訴えるモノでもない。
ただ、静かに、被爆症罹病患者の一家の、ある夜の叙景を綴っている [様に聴こえる]。
もしくは、昭和の原風景とも呼べる様なモノで、静かな、そして、寂しい冬の夜の情景を描いている [様に聴こえる]。
狭い四畳半、裸電球の灯りをおとした部屋は暗く、暖房もないその部屋に一家がひしめき合って眠っていて、そとからは、犬の吠え声、チャルメラの音、吹きすさぶ北風が電柱をきしませ、そんな音を遠景に、柱時計の時を刻む音がいつも以上に大きい [様に聴こえる]。
そんな風にこの曲を聴いてしまうぼくは、いつもうすら寒さに見舞われる。幸運 [と呼んでいいのかどうかは解らないけど] にも、かつてのぼく達一家は被爆には無縁だったけれども、ぼくの幼い時には、まだ、戦争の生々しい傷痕が、高度経済成長の軋みから、時折、顔を覗かせていたのだ。
だから、この曲は、そんな傷痕を見てしまった幼いぼくの記憶を、ダイレクトに甦らせる、嫌な再生装置としての機能を果たしてしまうのだ。それは、戦争や戦後を描く他の物語にあらかじめ添えられているエンターテイメントとは無縁なモノだけに、生々しくもあり、嫌らしくもあった。
だが、こんなぼくの体感が、総てのヒトに相通じるかどうかは、極めて、訝しい。とりわけ日本語を解せない多くのヒトビトにとっては。"被爆症"という漢字表記と、そのアルファベット表記の"Hi Baku Shyo"がどこまで共通解として通用するのだろうか。敢て、そして、大慌てでつけ加えるのならば、この曲はインストゥルメンタル・ナンバーで、歌詞や発話は一切ない。
題名が背負っているモノを排除した地点で、この曲はどう鳴り響く事が出来るのだろうか。
精緻に構築されたサウンドそのものは、完成度は高く、それを聴くモノに、ナニカを迫るのには違いない。
あぁ、確かに違いはないのだけれども、 ... 。
それよりもむしろ、ぼくが恐ろしく思うのは、なぜ、どうやって、ここまで、リアリズムに徹したサウンドを構築出来たのだろうか、という事なのである。
メディアや報道だけでは、決して伝えきる事の出来ない、なにかが、そこにあるからだ。
と、同時に、この曲が成立した時代状況は、そっくりそのままに、今の東アジア情勢と相似形を成している事、そして国内に眼を向ければ、3.11.以降の、フクシマ以降の、この国のどこかで、この曲に描かれているままの夜が、数多くある。
と、いう事なのだ。
次回は「う」。
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