2012.12.09.13.17
こんな夢をみた。

The movie "The Towering Inferno
" directed by John Guillermin and Irwin Allen
ある噂で"施設"内はもちきりである。
もうすぐ購買部が再開されるというのだ。
この"施設"はかつて購買部と呼ばれる場所がふたつあった。
今でもある。北の旧館1Fと南の新館5Fだ。
だが、そのひとつである新館5Fの購買部は、ある事件が元で閉鎖されてしまっている。それも、もう随分の昔の事で、ぼくがこの"施設"の住人になった頃には、既に使われないままになっている。
それに第一、入居者の誰も、そのフロアに立ち入る事は許されず、新館5Fの存在すらも疑わしいものとなっているのだ。
昔を知るものは、こう言う。
購買部がふたつある時はにぎやかだったよ。それぞれに違う外部の業者が営業していたから。品揃えも違うし、値段も違う。味も違えば、売っている店員も違う。
昔は、それぞれの業者が派遣した通いの店員だった、中には、そのひとりに夢中になってね、...、と、そのもののはなしは脈絡なく、いつまでも続く。
いま、遺っている購買部は、"施設"内の住人によって運営されている。"施設"の中でも、軽度で意欲のあるものが、日替わり交代で営業しているのだ。
彼らは、"施設"の管理者によって任命されて、仕事にあたる。そうして、一週間か一ヶ月か一年か、与えられた仕事をこなした後に、"施設"から不意に姿を消す。
退所したのだろう、というのが大方の認識だった。
だけれども、中には、全く異なる解釈をしているものもいる。
何故ならば、時折、購買部の営業には決して不向きな、人物が任命される場合があるからだ。
購買部の新入り店員の名前は、任命されると同時に、その入口に張り出されるのが恒例である。だから、そこにいけば誰しもが、その人物を事前に知る事になる。
殆どの場合、掲示された人物は歓迎されるのだけれども、中には、決して、望まれぬものの場合もある。派閥めいたものの中に属していて他所から疎ましく思われているものや、過去になんらかのトラブルをおこしたものや、性格に問題があるものや、...。
だが、そもそもはそんなものを背負い込んでいるからこその、この"施設"の住人であるわけで、そんなものは、おおかれすくなかれ、誰しもが負うべき引け目なのだ。それに第一に、それは"施設"のそとであっても、ありえるものでしかない。
つまりは、それ以前に、肉体的な問題や、体力的な問題から、誰の眼から観ても、その任に相応しからざるものの名前がそこにある場合もある、ということなのだ。
そして、そんな人物は、任命されてそのまま、購買部に一度も姿をみせないまま、この"施設"からいなくなってしまう。
ある夜の事である。その夜は、季節外れな程、妙に蒸し暑い。
その蒸し暑さに眠れぬぼくは、自室から抜け出して、喫茶室へと向かう。消灯の時間はとっくに過ぎていて、殆どの灯りはおとされて暗い。廊下も階段も、気怠さと不可解さが同居した、薄暗がりの中に沈んでいる。
喫茶室は旧館の1F、購買部の隣にあって、いつでも誰でもつかう事が出来る。消灯時間となった今でもだ。己の頸にぶらさがっている認証カードを使いこなせさえすれば、そこで認められている範囲のものに関しては、自由自在なのだ。
壁に据え付けられた機械に、認証カードを読み取らせる。そうすると、購入可能な商品や、使用可能な用具だけに灯がともり、それに所定の金額を放り込めばいい。
ちなみに、生温い湯と、それを注ぐ為の紙コップだけは、認証カードも不要だから、それだけを目当てに顕われるものもいなくない。だが、そんなものをありがたがる様なにんげんは、それ以前のものごとがさまたげになって、ここにくることすらもおぼつかない。
まるで、眼の前に人参は、ぶら下がっているものの、視力を喪った老馬は、その存在すらも気づかない様なものかもしれない。
だから、認証カードを挿入したぼくの眼の前に、ホット・ドリンクばかりに灯りがともされたこの時には、かなり、げんなりしてしまったのである。
今、欲しいのは、この蒸し暑さを少しでも軽減させてくれる、爽やかな、つめたいものなのだから。
それでも、すこしでもマシなものを選び、購入する。そうして振り向くと、幾列も並んだテーブルの向こうに、先客達がいるのに気がつく。
彼らもこの蒸し暑さからの逃亡者なのだろうか。その中に、知人がいない事をみてとったぼくは、軽く会釈をした後に、手前のテーブルのひとつに席をとる。嫌でも先客達には、ぼくの登場は知れてしまっているのだし、彼らにとって、ぼくは招かれざる客に違いないからだ。
与えられた呑み物の熱さが醒めるの待つ間、ぼくは手持ち不沙汰げにスプーンで何度も何度も攪拌している。そして、その立てるものおとの向こうから、彼らが交わすことばの端々が洩れ聴こえて来てしまう。
そして、そんな状況下での居ずまいの悪さから、ふと、手洗いへと立とうと、ぼくは思う。
呑み物はそのままに、ポケットの中のハンカチを己の座席の上に敷いて、席を立つ。
それが座席確保の合図であり、ルールだからだ。セルフ・サーヴィスが前提の喫茶室では、なにもしないでおくと、すぐに片付けられてしまう。
手洗いは、部屋を出た廊下の先にある。
中にはいると、そこにはふたつの個室しかなく、そのひとつからは、天井に向けて、放水の真っ最中だ。
入口をあけた途端に、その水の泡沫が、ぼくのからだを濡らし始める。濡れ始めたからだにうんざりしながら、もうひとつの個室をあけると、案の定、隣の出水で水浸しだ。しかも、さらに悪い事に、便座も便器も消え失せていて、どろっとした水が溜っている深い穴が、のぞけるばかりなのだ。
そうして、その穴に満ちている水を観た途端、ぼくは激しい睡魔に襲われるのである。

The movie "One Flew Over The Cuckoo's Nest
" directed by Milos Forman, based on the novel "One Flew Over The Cuckoo's Nest
" written by Ken Kesey

The movie "The Towering Inferno
ある噂で"施設"内はもちきりである。
もうすぐ購買部が再開されるというのだ。
この"施設"はかつて購買部と呼ばれる場所がふたつあった。
今でもある。北の旧館1Fと南の新館5Fだ。
だが、そのひとつである新館5Fの購買部は、ある事件が元で閉鎖されてしまっている。それも、もう随分の昔の事で、ぼくがこの"施設"の住人になった頃には、既に使われないままになっている。
それに第一、入居者の誰も、そのフロアに立ち入る事は許されず、新館5Fの存在すらも疑わしいものとなっているのだ。
昔を知るものは、こう言う。
購買部がふたつある時はにぎやかだったよ。それぞれに違う外部の業者が営業していたから。品揃えも違うし、値段も違う。味も違えば、売っている店員も違う。
昔は、それぞれの業者が派遣した通いの店員だった、中には、そのひとりに夢中になってね、...、と、そのもののはなしは脈絡なく、いつまでも続く。
いま、遺っている購買部は、"施設"内の住人によって運営されている。"施設"の中でも、軽度で意欲のあるものが、日替わり交代で営業しているのだ。
彼らは、"施設"の管理者によって任命されて、仕事にあたる。そうして、一週間か一ヶ月か一年か、与えられた仕事をこなした後に、"施設"から不意に姿を消す。
退所したのだろう、というのが大方の認識だった。
だけれども、中には、全く異なる解釈をしているものもいる。
何故ならば、時折、購買部の営業には決して不向きな、人物が任命される場合があるからだ。
購買部の新入り店員の名前は、任命されると同時に、その入口に張り出されるのが恒例である。だから、そこにいけば誰しもが、その人物を事前に知る事になる。
殆どの場合、掲示された人物は歓迎されるのだけれども、中には、決して、望まれぬものの場合もある。派閥めいたものの中に属していて他所から疎ましく思われているものや、過去になんらかのトラブルをおこしたものや、性格に問題があるものや、...。
だが、そもそもはそんなものを背負い込んでいるからこその、この"施設"の住人であるわけで、そんなものは、おおかれすくなかれ、誰しもが負うべき引け目なのだ。それに第一に、それは"施設"のそとであっても、ありえるものでしかない。
つまりは、それ以前に、肉体的な問題や、体力的な問題から、誰の眼から観ても、その任に相応しからざるものの名前がそこにある場合もある、ということなのだ。
そして、そんな人物は、任命されてそのまま、購買部に一度も姿をみせないまま、この"施設"からいなくなってしまう。
ある夜の事である。その夜は、季節外れな程、妙に蒸し暑い。
その蒸し暑さに眠れぬぼくは、自室から抜け出して、喫茶室へと向かう。消灯の時間はとっくに過ぎていて、殆どの灯りはおとされて暗い。廊下も階段も、気怠さと不可解さが同居した、薄暗がりの中に沈んでいる。
喫茶室は旧館の1F、購買部の隣にあって、いつでも誰でもつかう事が出来る。消灯時間となった今でもだ。己の頸にぶらさがっている認証カードを使いこなせさえすれば、そこで認められている範囲のものに関しては、自由自在なのだ。
壁に据え付けられた機械に、認証カードを読み取らせる。そうすると、購入可能な商品や、使用可能な用具だけに灯がともり、それに所定の金額を放り込めばいい。
ちなみに、生温い湯と、それを注ぐ為の紙コップだけは、認証カードも不要だから、それだけを目当てに顕われるものもいなくない。だが、そんなものをありがたがる様なにんげんは、それ以前のものごとがさまたげになって、ここにくることすらもおぼつかない。
まるで、眼の前に人参は、ぶら下がっているものの、視力を喪った老馬は、その存在すらも気づかない様なものかもしれない。
だから、認証カードを挿入したぼくの眼の前に、ホット・ドリンクばかりに灯りがともされたこの時には、かなり、げんなりしてしまったのである。
今、欲しいのは、この蒸し暑さを少しでも軽減させてくれる、爽やかな、つめたいものなのだから。
それでも、すこしでもマシなものを選び、購入する。そうして振り向くと、幾列も並んだテーブルの向こうに、先客達がいるのに気がつく。
彼らもこの蒸し暑さからの逃亡者なのだろうか。その中に、知人がいない事をみてとったぼくは、軽く会釈をした後に、手前のテーブルのひとつに席をとる。嫌でも先客達には、ぼくの登場は知れてしまっているのだし、彼らにとって、ぼくは招かれざる客に違いないからだ。
与えられた呑み物の熱さが醒めるの待つ間、ぼくは手持ち不沙汰げにスプーンで何度も何度も攪拌している。そして、その立てるものおとの向こうから、彼らが交わすことばの端々が洩れ聴こえて来てしまう。
そして、そんな状況下での居ずまいの悪さから、ふと、手洗いへと立とうと、ぼくは思う。
呑み物はそのままに、ポケットの中のハンカチを己の座席の上に敷いて、席を立つ。
それが座席確保の合図であり、ルールだからだ。セルフ・サーヴィスが前提の喫茶室では、なにもしないでおくと、すぐに片付けられてしまう。
手洗いは、部屋を出た廊下の先にある。
中にはいると、そこにはふたつの個室しかなく、そのひとつからは、天井に向けて、放水の真っ最中だ。
入口をあけた途端に、その水の泡沫が、ぼくのからだを濡らし始める。濡れ始めたからだにうんざりしながら、もうひとつの個室をあけると、案の定、隣の出水で水浸しだ。しかも、さらに悪い事に、便座も便器も消え失せていて、どろっとした水が溜っている深い穴が、のぞけるばかりなのだ。
そうして、その穴に満ちている水を観た途端、ぼくは激しい睡魔に襲われるのである。

The movie "One Flew Over The Cuckoo's Nest
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